第59話 魔女渡り
ハンナは澄み切った空気に混じる煙の刺激に小鼻に皺を寄せる。バイモスは建物を破壊し、それに伴って火災も引き起こした。地上には巨体がのたくった跡とまだ煙をあげている燃えさしと巨大な穴しか残っていない。司令部も格納庫も何もかもが姿を消していた。
魔女たちは自分たちの生活の根拠がことごとく破壊された後をじっと見つめている。打ち沈んでいるのかと思えばそうでもなかった。驚きはしたもののショックを受けたということではないようだ。
「やー。景気よく壊してったね」
「あれだけでかいとやっぱり無理かあ」
「まあ、でも。こっちに被害はなかったからね」
「そうそう。ファハール王国も大変だね」
自分たちで再建しなければならないのであれば別であるが、魔女たちの仕事は空を飛ぶことと敵を排除することと割り切っている。とはいえ、滑走路の魔力調整も失われてしまったので、とりあえず、どこか箒をおろせる場所に移動する必要があった。
「ここにいつまでもいても仕方ない。大佐の後を追うぞ」
第1飛行隊隊長の合図で一斉に北に進路を向ける。アーウルト基地は快適ではあったが別に彼女たちの故郷というわけでもない。一番思い入れがあるとすれば、それはアクス大佐だった。
そのアクス大佐がのろくさと飛ばすカーゴ10の周囲には、それぞれの使い魔たちが各人の個人持ちの箒を飛ばしている。個人持ちの箒は軍用のものに比べれば慎ましい値段ではあったがそう簡単に手に入るものではない。自分向けに調整するのにも時間がかかるということでいち早く避難させていたのだった。
主の姿が見えないということもあり、使い魔たちは羽を伸ばしている。文字通り羽を伸ばしているピッチェルやオージ、ローリィがいるかと思えば、ゲオルグは体の毛づくろいに余念がない。監視の目がなければ気も緩もうというものだった。アクス大佐は苦笑しながらも自分の機を飛ばすのに全神経を使う必要があり黙認していた。
最初に異変に気が付いたのはシーリアの使い魔であるフクロウのオージだった。
「大変だ。寛いでる場合じゃない」
オージが指し示す進行方向やや右よりに複数の点を見つけた使い魔たちは騒ぎ出す。鬼虻が数体群れをなして飛んでいた。
5体程度の小さな群れである。軍用機ならば鎧袖一触だが今日は普段使いの箒である。しかも魔女が扱っているならともかく、使い魔たちではそれほど複雑な飛行はできないし何より速度が遅い。鬼虻に見つからないようにとの祈りも空しく、危険な群れはこちらへと進路を変えた。
アクス大佐も周囲の使い魔たちが慌てふためく様を見て異変に気付く。目を凝らして前方の脅威を発見すると左わきのスイッチを倒す。プシュプシュという音とともに真っ赤な閃光を放つ信号弾が空高く射出された。日の光の中でもまばゆく輝く赤い球が放物線の頂点に達してゆっくりと落ちていくのを振り返る。
自分の使い魔たちが放射する困惑や恐慌を感じ取っていた魔女たちは遥か彼方に赤い輝点を発見した。それと同時にハンナはコーラルⅢを急加速させている。ドミニータの飛行隊との連戦や岩石魔獣バイモスへの爆撃をした後だったが不思議と疲労感はあまり無い。
ジョルバーナによる特訓でハンナの持久力はかなり向上していた。馬鹿でかいヘリオーンと戦闘爆撃機とでは異なる部分もあったが、基礎的な力の増幅につながっている。3本の箒の最大出力でコーラルⅢをぶっ飛ばしていたハンナは他の魔女より早く大混乱の空域に到着した。
カーゴ10は可能な限り鬼虻から逃れようとするコースを飛んでいる。その陰に隠れようとするものや、いち早く高度を下げて逃げようとするものなど、それぞれが無秩序に行動していた。鬼虻も相手を一方的に狩ることができると分かっているのか、網を広げて包み込むような隊形をとっている。
そこへハンナのコーラルⅢが鬼虻とカーゴ10他の間に割り込むようにして突っ込む。それに気づいたゲオルグが安堵して叫び声をあげる。
「ハンナが来た!」
使い魔たちを支配していた無秩序が徐々に静まっていく。
コーラルⅢはほとんど鬼虻の鼻面に触れんばかりの距離を一気に駆け抜けて行った。機体が切り裂いた空気が元に戻ろうとするドーンというソニックブームの尾を残して一旦は飛び去ったハンナが再び鬼虻すれすれをかすめていく。コーラルⅢが引き起こした乱気流に巻き込まれて鬼虻はうまく飛べずに翻弄されていた。
鬼虻が委縮したのと後続機が視界に入ったのを確認するとハンナは機体に残っていた貴重な1発で、一番体格の大きな個体を打ち抜く。血潮が飛び散り、残った体の破片が地上に向けて落ちていく様子を見て、残りの鬼虻が逃亡を始めようとしたときはもう遅かった。殺到した魔女たちにより次々と血祭りになっていく。
何十機もの機体に守られながらカーゴ10は無事に霊峰カクタウとヘドセンバーグの中間にあるラスゴーの基地にたどり着いた。人的損失はなく移転が完了できたことは僥倖だったが、空軍の再建には困難が伴うことになる。後に魔女渡りと呼ばれるアーウルトの失陥による基地移転は実態以上に空軍の評価を下げることとなった。
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