第42話 駅の構内にて
「身分証明書を拝見」
駅の構内で巡回していた濃緑色の制服を着ている二人組の兵士に声をかけられてベンチに座っていたハンナは読んでいた本から顔を上げる。本を閉じると膝の上に置いて肩からかけた瀟洒なポーチを探った。身分証明書を取り出すと兵士に手渡す。
二人組の兵士はいずれも若い。先ほどから本を読むふりをして観察していたが、若い女性と長く話していた。ハンナとしては、それが魔女を探すためのものなのかどうかが大いに気になる所である。ただ、若い女性二人組に声をかけていたのが安心材料だった。
一人が身分証明書とハンナの顔を見比べている間に、もう一人の上官っぽい男性が話しかけてくる。
「お名前と年齢を」
「見れば分かるでしょ」
ハンナはそっけない。しょっちょう声を掛けられていれば面倒だと思うのが人情だ。あまりに協力的というのも怪しまれる。特に若いとなれば怖い物しらずの年齢だ。
「一応は規則ですのでご協力を」
「エリザベータ。18歳よ」
「若い女性が供も連れずにどちらに行かれるんですか?」
「あなた若いのに父みたいなことを言うのね。私はもう子供じゃないわ。好きなところに好きな時に出かけてるの。何か問題でも?」
身分証明書を見ていた若い方が上官の袖を引き、身分証明書を見せながら上官に耳打ちをした。少し緊張した面持ちをしている。若い方が指し示す一点を見て上官の顔が引き締まった。その表情を見てハンナの肝が冷える。何かまずいことがあったのだろうか。脇の下に吊った拳銃の存在を強く意識する。ただ、やたらボタンのついた今着ている服の中に手を突っ込んで取り出すのは容易ではない。
「失礼いたしました」
先ほどまでとは打って変わった態度で恭しくハンナに身分証明書を返してくる。そして足早に次の相手に向かって立ち去った。ハンナは背中に滲んだ冷や汗に不快感を覚え、次いで、ほっと安堵の吐息を吐く。
一体何が起こったのだろう。他の人の様子を盗み見ていた限りではもう少し退屈なやり取りがされたはずだ。返された身分証明書を開いて、兵士が指し示していたと思しきおおよその位置を確認する。たぶん名前の欄だと思われた。間違いなくエリザベータと名乗った。それに間違えたのであれば厳しく追及してくるはずだ。
ハンナはいつまでも身分証明書を出しておくのはおかしいと思いポーチに入れると脇に置いておいた本を取り上げる。ちっとも内容が頭に入ってこない。元々は話しかけられないようにと買ったものだった。さっきまではそれなりに面白く読めていたのだが、今では単なる文字の羅列でしかない。
顔を上げて駅の構内を見渡す。ポーターが大きな荷物を運び、その間をすり抜けるようにして人々が走り回っていた。前線に割と近い都市ではあるが、ここに戦争の気配はあまりない。兵士の姿が目立つものの、ハンナと同じように列車を待っているか、息抜きをしに街に出て来たという風情で厳めしい感じはしなかった。
周囲を見ていると軍服を着崩した兵士数人の集団がハンナの座るベンチに向かって来るのが見える。ハンナは下を向いていなかったのを後悔した。顔を見せなければトラブルになることは無かっただろうにと自分の迂闊さを呪う。集団は近づいてくると予想通りの言葉をかけてきた。
「なあ。暇してるんなら、俺らと一緒に一杯どうだい?」
「一人じゃ退屈だろ」
酒臭い息を吐きかけてくる男達から顔を背けながら、素早く襟の徽章に目をやる。兵隊ばかりで下士官すらいない。これは面倒な集団にからまれたと思った。
「結構よ」
なるべく毅然としながらも声に嫌悪感が滲まないように気を付ける。
「結構よ、か。お高くとまってるじゃないか。どこかのお嬢さんみたいだぜ」
甲高い裏声で真似をしてゲラゲラ笑う。
「だけど、そういうんじゃねえな。いいところのお嬢さんが一人で座ってるわけはなえ。めかし込んで街に出てきたんだろ? 俺達と遊ぼうぜ」
「いいところに連れてってやるからよ」
「そうとも。天国へ。さあ、行こうぜ」
伸ばしてきた手を振り払い、ベンチから立ち上がって男たちの間をすり抜ける。さてこれからどうしたらいいだろう。力比べでは勝負にならないが、かといって拳銃を取り出したり、魔法を使ったりするわけにはいかない。周囲を見回すが、ガラの悪い兵士達から救い出そうという義侠心に富んだ者は居そうにない。
いや、居た。
「お前たち、そこで何をしている!」
先ほどハンナを尋問した二人組だった。
「お前たち、良家の子女にちょっかいを出すな。店に行って相応しい相手を探せ」
兵士たちは一瞬むっとした顔をするが相手の階級を見ると愛想笑いを浮かべた。
「ちょっと退屈そうにしてたから声をかけただけさ。何も乱暴なことはしてねえぜ」
未練がましそうに粘っこい視線でハンナをジロジロと見回していく。
「何か不快なことはありませんか?」
「ええ。大丈夫よ。先ほどは失礼なことを言ってしまって。ありがとうございます」
ハンナはしおらしく礼を口にする。上官の方がにこやかに笑った。
「いえ、お気になさらずに。こちらこそ見苦しいところをお見せしました」
一礼して去っていく二人組を見送るとその背中越しに部下の方が話しかける声が聞こえてくる。
「曹長。あの娘、すっごい美人じゃないですか。気が強そうにみえて結構礼儀正しいところもあるし。連絡先ぐらい聞けば……」
「バカ言え。ジークトハウゼンのとこの者が俺みたいな下っ端を相手に……」
続きの言葉は列車の接近を大声で告げる駅員の声にかき消された。
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