第36話 宿屋の主

 一夜の宿泊を呼びかけた老夫婦は食事だけでもしていかないかと誘ってくる。できる限り墜落現場から離れておきたいという考えと日没までに村までにはたどり着けそうにないという先ほどの御者の話を天秤にかけた。この雪のなか屋根の無いところで一晩過ごすのは危険だ。


 ハンナは結局申し出を受けることにした。了承したとの意を伝えると男性は腕を広げて中へと導く。

「なに。大したもんじゃない。わしらの昼と同じ物じゃ。黒パンと野菜のスープ。とりあえず体が温まることだけは保証する。これも何かの縁じゃ。さあさあ」


 肩や体に積もった雪を払い落して家に入ると部屋の暖炉の中で薪が勢いよく燃え盛っていた。外の寒さを忘れさせるほどに暖かい。テーブルがいくつかあり、その上に食器類が置かれている。窓の外ではまた雪が強く降りだしていることを考えると別天地のようだ。ハンナは部屋の温もりにほっと大きな安堵のため息をつく。


 促されてテーブルにつくと、老婆が大きな木皿にスープをよそって運んでくる。根菜類がほとんどだが肉のかけららしきものも浮いていた。スープの表面からは湯気が上がっており、いい匂いが漂っている。厚く切った黒パンも運ばれてきた。

「さあ、どうぞ、召し上がれ」


 スープを口に含むと火傷をしそうなほど熱い。とろみの中にハーブのものなのか強い香りがついていた。普段から贅沢な食事をしているハンナにしてみれば質素なものだったが、温かいというだけでなによりのご馳走だった。牛乳がほしいところだけど、こんな山の中じゃ無理そうね、と片隅で考えながらスープを口に運ぶ。


 食事をしながら老夫婦はしきりとハンナに話しかけてきた。老夫婦のシュバルとドーリンはこの場所で畑を耕しつつ旅籠を営んで生活をしているらしい。

「辺鄙な場所じゃが、そこそこ旅人はおるでな。して、お嬢さんはどちらへ」

 ハンナは口に入れたものを咀嚼するふりをして、考えておいた仮の身分のおさらいをする。


 魔女たちは緊急事態に備えてドミニータの地名や風物について講義を受けていた。退屈な座学を真面目に聞く者は少なかったが、ハンナはその数少ない例外の一人である。ここから東に行ったところには重要な鉱物を産出する山があり、出稼ぎに来る若者が多いことを踏まえて話を作った。


「シュルッテンの鉱山町に出稼ぎに行っていたんだけど、年末が近いから早めに休みを貰って帰省するところなんです」

「へえ。若いのに大変だね。それじゃあ、家ではご家族が首を長くして待っておるんじゃな。いつ帰宅するのか知らせてあるのかね?」


「まだ知らせてないの。驚かせようと思って」

「そうか。そうか。急に帰ったら驚くじゃろうな」

 一瞬だけ老夫婦が視線を交わした。ドーリンがハンナにスープのお替りを勧め、席を立つとまた湯気の立つ器を運んでくる。

「で、家はどちらの方なのじゃな?」


「リンツベルクの近くよ」

「ほう、それじゃ随分と遠くまで。歩いていては年を越しそうじゃな」

「もちろん途中からは汽車に乗るつもり。馬車は揺れが激しいし、かえって疲れちゃうから」


 その後、世間話をしているうちに食事が終わる。

「ご馳走さま。やっぱり、今夜はこちらの御厄介になった方が良さそう。一部屋借りるわ」

 窓の外では風が吹き荒れ吹雪となっていた。ハンナは宿代を前払いする。


 宿屋の主シュバルに案内されその部屋に入ったときにハンナは軽い違和感を覚える。シュバルが部屋の暖炉に火を入れる間、ハンナは視線を部屋の中に彷徨わせていた。ベッドが二つに書き物机、椅子が2脚あるありふれた部屋だった。特に変わったものがあるわけではない。


 暖炉で薪がパチパチと燃え始める。

「すぐに暖かくなるじゃろう。夕食が出来たら声をかけるのでな」

 シュバルが部屋を出ていき、廊下のミシミシいう音が遠ざかるのを確認してから、ハンナは椅子に荷物を下ろした。


 もう1脚の椅子を暖炉の前に持っていきハンナは腰を下ろす。薪のはぜる音を聞きながら濡れた足元を乾かしているうちにどうしようもなく眠気が襲ってくるのを感じた。ハンナは頭を振って立ち上がり伸びをしたり、腕を回したりして目を覚まそうとする。しかし、昨夜からの疲れがどっと出たのか体がいうことをきかなかった。


 ***


 廊下をシュバルが歩いてハンナの借りた部屋に向かっていた。床がその歩みにつれて軋む。シュバルの手には鍵の束が握られていた。部屋の前にたどりつくと逡巡せずに束から一つの鍵を選び出して鍵穴に差し込む。かちゃりという音がして鍵が開くと鍵の束を紐でぎゅっと縛り懐にしまう。


 代わりに手にしたのは奇妙な形をしたものだった。金属の輪が二つつながっているもので輪の太さは小指ほどある。そっと扉を押し開けるとシュバルは中へと入って行った。部屋の中は暖炉の火に照らされて薄ぼんやりと照らし出されている。外は暗くなっているのにランプに明かりが灯されていなかった。


 二つあるベッドの一つが人の形に膨らんでいる。上掛けをひっかぶって眠っているように見えるその光景を見てシュバルの顔が歪な笑みを浮かべた。目が暖炉の火を受けて怪しく輝き、口髭の間からぺろりと舌が出て唇を舐める。手の中の器具を確認しながらベッドに近づくとシュバルはそっと上掛けをめくりあげた。


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