第8話 湯浴み
結局ハンナは2週間ほど帰営しなかった。アクス大佐の血圧が上昇し、こめかみに血管が浮くようになったところにひょっこりと帰ってくる。コーラルⅢのあちこちに傷がつき、ハンナも少しやつれていたが、とりあえず元気そうな顔を見せた。そのまま営倉にぶち込まれて、5日間を過ごす羽目になる。
釈放の日になると、非番の魔女たちが営倉の前に集合。憲兵に支えられて出てきたハンナを歓呼で迎える。その当人は幽鬼のようなひどい見た目だった。さらに臭いもひどく、夏場の低地だったら、出迎えの皆が鼻をつままなければいけなかっただろう。げっそりしたハンナは何かを求めてキョロキョロしている。
震える手を差し出してボソボソと何かを呟いた。
「ぎゅ……、ぎゅうにゅう。牛乳をちょうだい」
アリエッタは腰に手を当ててハンナの目の前に立つ。
「悪いけど、先に湯浴みをしてもらうわ。その手で何かに触れたら、何でもたちまち腐りそうよ。まるで食屍人みたいじゃない」
50歩ほど離れた場所までハンナを誘導する。大きな天幕が張り巡らしてあり、その中には大きな円筒があった。下は地面との間に2本の石材が渡してあり、その隙間で火が燃えている。円筒の上には梯子がかけてあった。ハンナと一緒に天幕に入った第3航空隊の面々の前で服を脱ごうとするハンナをアリエッタが止める。
「どうせ、その服も洗わなきゃいけないんだし、そのまま入っちゃって」
ハンナが大人しく梯子を上り、円筒の上の格子状になった木の蓋に乗る。ざざーとお湯が溢れて円筒からはハンナの顔だけが出ていた。ジェーンが梯子に桶を抱えて上がり、ハンナの頭からお湯をかけると少し伸びてきた髪の毛が肌に張り付く。ハンナは頭と顔を洗い、まとわりつく服と下着を脱いで、筒の縁にかける。
体の隅々まで綺麗にしたハンナが風呂から出てきた。体には大きなタオルを巻きつけただけの状態だ。シーリアが大きなジョッキを運んできてハンナに手渡す。中をのぞき込んでハンナは満面の笑みを浮かべるとグイとジョッキを傾けてゴクゴクと飲み干す。ぷはあ、と息をつくと口の周りについた牛乳を空いた手で拭った。
「はあ。生き返る」
「大げさね」
「本当よ。やっぱり営倉5日はきつかった。狭いし、床は固いし、牛乳ないし」
セリフの最後で皆が笑い出す。
「そして、空が飛べなかったから」
天幕を透かして見えない空に向かって熱い視線を送るハンナに対して、シーリアが替えの服を手渡す。
「せめて服は着よう」
「一応、嫁入り前の身だしな。裸身を晒すのは素敵な殿方の前だけにしておけ」
「あ。隊長。ひょっとして、そんな方が居るんですか?」
「どこに素敵な男がいる?」
魔女が自由に空を飛べるのは一説には空に恋しているからだという。空が肌をなで、空に抱かれ、空と踊る。地上の男に恋をすると空は嫉妬して魔女をはねつけると言われていた。実際には飛ぶこと自体はできるが、激しい戦闘機動を行うようなことはできなかった。
「私は当面、そういうのは要らないかな」
下着姿のハンナが黒い貫頭衣を頭から被りながら言う。
「それに、私もうお母さんだし」
「はあ?!」
あっけに取られる3人を残して天幕をの入口を跳ね上げて外に出ると空中に愛用の箒が
「あら。気まぐれなあなたがお迎えに来るなんて殊勝じゃない」
「ひどい言い種だね。マスターの事はボクも一応心配していたんだ。お陰で食事も満足に喉に通らなくて痩せちゃったよ」
色つやの良い黒毛を光らせながらゲオルグが言うのに苦笑する。
「それじゃあ、食事にしましょう。私もお腹空いちゃった。今なら豚一頭ぐらいは食べられそう」
隊のメンバーが外に出てくると、それぞれの使い魔がマスターの箒を飛ばしてきてパークする。
大烏のヨーが羽を広げてその先がマネシツグミのピッチェルに当たった。
「すまん。小さすぎて見えんかったわ」
「無駄に体だけ大きくて、その目玉は飾りか?」
「なんだと。何カンバーク先までもよう見えるわ、このチビ」
「なあ、前から聞きたかったんだが、そんなに真っ黒けで、間違えて竈の中にでも落ちたんか?」
「は? この私とどちらが目がいいか競おうっての?」
「このボケ鳥。俺まで巻き沿いにすんな」
梟のオージとゲオルグまでが参戦して、いつものピーギャー煩い口論が始まる。すると空中にバチッと雷光が走って皆が静まりかえった。
アリエッタがうっすらと笑みを浮かべている。伸ばした右手の親指と人差し指の間を青白いスパークが彩った。
「聞きわけが良くて助かるわ。朝食に1品から4品追加しなきゃいけないところかと思っていたところよ」
震えあがる使い魔を尻目にそれぞれが自分の箒に腰を落ち着けると風が心地よいぐらいの速度でゆっくりと食堂に向かって箒を飛ばす。高さは人の背丈よりちょっと高いぐらいでハンナには物足りなかった。それでもお腹が強烈に主張している。きゅるるるる。まずは食べないといけないわね。お楽しみは後に取っておきましょう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます