第5話 喧嘩

~同レベルの者同士でなければ争いは起こらない~ 賢者アントヌルムの言葉


 牛乳を飲みながら、食後の余韻に浸っていたハンナの脳裏に昨夜寝る前に読んだ箴言集の一節が蘇る。意外と真実かもしれないわね、と思った。


 シーリアとセシールは床の上で転げまわりながら、上になるやいなやパンチを放っている。お互いに腕力はそれほどでも無いので中々に勝負はつかない。双方とも目の周りに見事な青あざをこさえていた。馬乗りになったシーリアが右腕を引くと、セシールは三つ編みを引っ張って体を入れ替えようとする。


 シーリアは自分の髪の毛を掴んでセシールの手を引きはがし後ろ向きに倒れた。ぱっと立ち上がって距離を置き、睨みあいを始めた二人に鋭い笛の音が浴びせられる。食堂の入口から赤い腕章をつけた女性憲兵が3人乗り込んできていた。

「また、お前達か。いい加減にしろ。営倉にぶち込まれたいのか?」

 憲兵たちが前に出ようとするのに対しアリエッタが声をかける。


「敵地への不時着時の接近戦闘訓練よ」

「なんだと?」

「若い女の身ですもの、敵地で身を守る術を知らないと酷い目に会っちゃうかもしれないでしょ」


「そんな見え透いた嘘を!」

「いえ、第3航空隊の隊長が言う通り。そうでしょ?」

 第1航空隊長の言葉にさっきまでヤジと声援を送っていた連中もうんうんと頷いている。相手が憲兵だとそれに対しては一致団結するのだ。


「仕事に熱心なのはいいけど、そろそろ出撃時間だわ。まさか、索敵士なしで出撃させるなんて、おっしゃらないでしょうね。さあ、セシール、行くわよ」

 第1航空隊の隊長が残りの部下を連れて外へと歩き出した。慌ててセシールが追いかける。


 声をかけそびれた憲兵が残されたシーリアに向き直る。

「私は悪くないわよ。ほら、訓練って言ったでしょ。そうだ。右側の箒から異音がしてたんだった。整備士に相談してこなくちゃ」

「アタシも被弾した装甲版の交換をするんだった」

「次の出撃に備えて弾薬補給を……」

「隊長として隊員の監視と監督をする義務があるな」


 それぞれ勝手なことを言いながら第3航空隊の面々も食堂を出て行く。

「おばちゃん、ご馳走さま~。今度はチョコパン多めに用意しておいて」

 憲兵隊もため息をつきながら引き上げる。有体に言えば、喧嘩が収まればいいのだ。魔女連中をこの程度で収監していたら営倉がいくつあっても足りない。


 ハンナ達は入口に立てかけてあったそれぞれの箒を手にすると格納庫に向かって歩き出したが、憲兵が引き上げるのを見ると箒に跨って宿舎を目指す。朝早くから叩き起こされて中断した眠りを再開しなくては体が持たない。宿舎に着くとハンナ達は我先に自分たちの部屋に向かう。それぞれが部屋の入口で手首に付けた認識章をかざして扉を開けると、お休み、の声を残して自室に入った。


 ハンナは自室に入ると箒を逆さにして立てかけ、帽子を壁にかける。次いで、黒い服を頭からすっぽりと脱ぎ近くの椅子に放り投げた。薄物1枚の姿でベッドに歩み寄るとブーツを脱ぎ捨ててベッドにダイブする。ぼよよん、とベッドのスプリングが跳ねた。


「なんだよ。ハンナ。折角いい気持で寝てたのにさ」

 起こされたゲオルグがブツクサと文句を言う。ハンナはゲオルグの体を抱き上げるとその腹に顔を埋めた。

「うわ。やめろ~」


 ゲオルグは抗議しながら身をよじるがハンナの手からは逃げられない。

「腹に息を吹きかけるなよ。くすぐったい。うひゃ」

「いいじゃない。あなたが寝てる間に一仕事してきたんだから」

「へえ、ってことはもう朝ごはん食べちゃったのかい?」


「うん。食べて来たわよ。シーリアが喧嘩をして面白かったわ」

「それより、ボクのご飯はどうなってるのさ?」

 ゲオルグは翡翠色の目でハンナをじっと見つめる。ハンナはゲオルグを抱きかかえたまま、椅子の所まで戻り、服のポケットから牛乳の容器を取り出した。


 深めの皿に牛乳を注ぐと床に置いてやった。ゲオルグはその前にうずくまりピチャピチャと音をたてて舐め始めた。ついと顔を上げると生意気なことを言う。

「もう少し、がっつりしたものが良かったな。豚の血入りのソーセージとかさ」

「そんなのポケットに入れたら、ベタベタするでしょ」

「ちぇ」


 傍から見れば、にゃーにゃー鳴く猫にハンナが独り言を言っているように見えるかもしれない。もちろん、自分の使い魔である黒猫ゲオルグとハンナは無理なく意思疎通ができた。意思疎通ができるだけでなく、ヒトよりも空間知覚能力に優れるゲオルグは悪天候や闇夜での飛行には欠かせないパートナーであった。


「じゃん」

 ハンナが耐水紙に包んだ何かを別のポケットから取り出す。その先から顔を出している細長いものの先端を見てゲオルグはぴょんと躍り上がった。

「わお。なんだよ。ちゃんと分かってんじゃん」


 ソーセージの先端にかじりつき満足そうな顔をするゲオルグを見ながら、ハンナは容器に残った牛乳を振ってみせる。

「じゃあ、残りは貰っちゃうわよ」

 一息に飲み干すとベッドに飛び込み、すぐに寝息を立て始めた。



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