第4話 マリオネット

 少女は、いつも独りぼっちだった。彼女は、両親の顔を知らない。彼らは、彼女が産まれて間もなく事故で死んだ。彼女は、人の温もりを知らない。唯一の肉親である伯父は、一人の少女にとってあまりにも広すぎる屋敷と、あまりにも多い召使しか与えてくれなかった。


 唯一温かく接してくれていた乳母は、少女を屋敷の外に連れ出そうとした。六歳の時だった。お嬢様、屋敷の外を見たくはありませんか。乳母はそう言って少女の手を取り、こっそりと裏門から出ようとした。

 ちょうどその時、運悪く庭師に見つかってしまった。少女の外出はこの屋敷で最大の禁忌だった。庭師はすぐさま首に掛けた笛を吹き、屋敷に緊急を知らせた。またたくまに少女と乳母は大勢の召使に囲まれた。少女は屋敷に連れ戻された。


 次の朝目を覚ますと、どこにも乳母はいなかった。ただ、短い別れの言葉が書かれたメモが、寝室の化粧台の上に残っているだけだった。メモを握りしめたまま微動だにしない彼女に、メイド長が声を掛け、あの乳母は旦那様が解雇なされましたと言った。

 それから、少女は心の中に大きな穴を抱えて生きるようになった。大きな穴を埋めようとして、メイド達に愛情を求めるようになった。だが、彼女たちは愛情を与えてくれなかった。ひたすら機械的に少女の命令に従うだけだった。

 絵本を読んでと言えば読んでくれたし、子守唄を歌ってと頼めば歌ってくれた。だがその声に感情が宿ることは無かった。笑ってと言えば笑ったし、怒ってと言えば怒った。だがその顔は常に作り物だった。

 彼女らは伯父に課せられた「少女の命令には絶対に従う」という義務をひたすらに遂行しているだけだった。


 そこに愛は無い。


 やがてそのことをはっきりと悟った少女の心の穴は、満たされるどころか広がっていくばかりだった。そんなある時、むしゃくしゃしていた彼女は、二階の窓から飛び降りて、とメイドに命令した。メイドは一瞬のためらいもなく二階の窓から飛び降りて、酷い捻挫を負ってしまった。それを見て彼女は罪悪感に駆られ、そのメイドに、ごめんなさい、戻ってきて!と叫んだ。するとメイドは紫色に腫れあがった足で、眉一つ動かさずにスタスタと少女のもとに戻ってきた。

 それを見て少女はとてつもない恐怖を感じた。このメイド達は果たして人間なのだろうかという思いが脳裏をよぎった。それから、少女の行動はどんどん過激になっていった。彼女らが人間である証拠を、彼女らの顔が本当の感情に染められるところを見たかった。

 ある時は熱いスープをメイドの顔に投げつけた。メイドは静かな顔で、静かな声で、どうかなさいましたかお嬢様、とだけ言った。

 ある時は巨大なおもちゃ箱を引っくり返し、メイド達に片付けさせておいて、もう少しで片付けが終わるという時にまたおもちゃ箱を引っくり返す、なんてこともした。メイド達は、片付けの成果を何回無駄にされても、ただただ機械的におもちゃを片付け続けていた。

 二人のメイドを呼んで、殴り合いの決闘をさせたこともあった。少女がもうやめて、と言った時、既に二人の顔は腫れあがっていたが、いつもと変わらぬ平坦な声でお嬢様、ほかに何か御用は、と聞いてきた。少女が何をしても、メイド達は文句の一つも言わず、少女が何を命令しても、眉一つ動かさずに命令に従った。少女は、次第にメイド達のことを人として見れなくなっていった。


 中身が無くて、ただただ人の言うとおりに動くなんて人形そのものだわ。


 そんな風に思うようになった頃には、メイドに靴を舐めさせ、毎日決闘を行わせることは彼女の日常の一部となっていた。そんなある日。


 ガシャーン!天井が突き破られるすさまじい音が深夜に響いた。少女が飛び起きると、なぜか月光が上から降り注いでいて、目の前にはがれきの山があった。呆気にとられていると、がれきの山ががらりと動いて、中から少年が現れた。少年と目が会った。一瞬遅れて、さっきの音の原因はこれだったのかと合点がいった。

「あなたは、だあれ?」

 思わず言葉が零れた。一度も見たことが無い外の人間に対する好奇心のほうが、いきなり空から降ってきた不審者に対する警戒心を上回っていた。少年がにまっと笑って答えた。

「まだ名前は無いんだ。でもあなたの名前は知ってるよ。」

 電撃が走った。こんなに感情のこもった顔を見たのは、声を聴いたのは、いったい何年ぶりだろう。

「どうしたの?そんなに涙を零して。大丈夫?」

 少年が眉をひそめて心配そうに聞いてきた。嬉しさで体が爆発しそうだ。感情を向けられる喜び!なんて素晴らしいんだろう!気付けば大声で叫んでいた。

「ねえあなた!私をここから連れ出して!人形しかいないこの屋敷から、連れ出して!」

 束の間の沈黙。パタパタとメイドの足音が聞こえる。少年は再びにまっと笑うと、少女に手を差し伸べた。

「もちろん!僕は君を迎えにやってきたんだから!」

 少女は少年の手を取った。涙でぐちゃぐちゃの顔で、少年に笑顔をみせる。

「さあ行こう!」

 少女の手をしっかりと握ると、少年は笑顔でそれだけ言って空高く飛び上がった。二人は月光の中を瞬く間に飛び去って行く。やっと少女の寝室にたどり着いたメイド達が見たものは、空っぽの部屋と、月に浮かび上がる二つの影だった。ひらりと一枚のメモが宙に舞う。見覚えのあるその紙片を目で追いながら、メイド長がぽつりと呟く。

「旦那様にお伝えしなければ」

 遠くで鐘が日が変わったことを告げていた。

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雑文 蛙鳴未明 @ttyy

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