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 休み明けに登校すると、藤野エリナが路上で手首を切って救急車に運ばれたという噂が、学校中に流れていた。どうやら学校の生徒があの日、あの場所にいて、写真を撮ったらしい。それが生徒を中心に、SNSを通して世界に広まった。


 外園リョウはそれらのことを楽しげに話しながら、画像をあたしに見せようとしてすぐにスマホの画面を逸らした。


「ごめん。ミソラは駄目だったよね」

「うん。ごめん」

「いやいや。こういうのは楽しむほうもどうかしてるからさぁ。アタシも言えた義理じゃないけどね」


 今日もばっちりメイクを決めているリョウが、「あはは」と歯を見せて笑う。


「それにしてもすごいよね。目撃した人によると、路上でいきなりカッターの刃を出して、一瞬で腕を切ったらしいよ」

「SNSにも写真が出回ってるってさ」

「あ、それ動画もあるでしょ? タイムラインに流れてきたけど、なんか大量の血が地面に垂れてて、ちょーグロかった」


 リョウの話に賛同するように、クラスメイトが身を乗りだしながら集まってくる。

 すっかりリョウは人だかりに囲まれてしまった。リョウはその親しみやすい性格から、顔が広くクラス内外問わずたくさんの友人がいる。

 あたしはその輪の外れから、リョウたちの会話に耳を傾ける。


「リストカット、ってやつでしょ。なんで自分で切ったんだろうね」

「自分で切るとかアタシなら絶対無理」

「わかる。てかさ、前に二階から落ちたのも、ほんとは飛び降りたんじゃないの?」

「あー、ありえる」

「あ、それ噂で聞いたんだけど、二階から飛び降りる瞬間を目撃した生徒がいるらしいよ」

「って、ことはほんとに? こっわ。いつもひとりでいて、見た目もあんなんだし、何考えてんのかわかんなかったけどさ、それって死のうとしてやったのかな?」

「でも死にたいならもっと確実な方法にしない? 屋上から飛び降りるとか」

「うちの屋上鍵閉まってんじゃん」

「なら四階から。そっちの方が確実だし」

「うわああ、でもさ、もしそれで死んだとしても、さすがに目の前で見るのは嫌だよね」

「わかる。誰もいないところでやってほしい」


「おはよう。……あら、ミソラ?」


 サチに呼びかけられて、あたしはハッと我に返った。


「お、おはようサチ」


 リョウたちは藤野エリナの話題に夢中で、サチの存在にはまだ気づいていない。


「これは、どうしたの?」

「昨日、エリナ……藤野さんが、路上で腕を切ったらしいよ」

「あら、そうなの? 怖ろしいわね、なんでそんなことを」


 口元に手を当てて眉を顰めるサチ。

 そこでやっとリョウがサチの存在に気がついた。


「あ、サチ! おはよう!」


 他の女子も、慌てたように「おはよう」「有田さん、おはよう」と口々に言う。

 サチはただ笑顔で「おはよう」と返していた。

 リョウがスマホを片手に身を乗りだしてくる。


「サチ。藤野が腕を切った写真、見る?」


 サチは露骨に眉を歪めた。リョウの顔がしまったと歪む。


「前にも言ったはずよ。私は血を見るのが苦手なの」


 サチの表情からは、笑顔がすとんと抜け落ちていた。彼女は冷たい眼差しをリョウと、他の女子に向ける。


「あなたたちも、人の血を見て笑うだなんて、どうかしているんじゃないの? もし今度同じような光景を見かけたら、もうあなたたちとの友人関係は解消するわ」


 不愉快なのよ、とサチは淡々と告げる。


「ご、ごめん。サチ。もうやめるからさ」

「画像も消してちょうだい」


 リョウがスマホの画面を操作する。ほかの女子も同じような行動をとった。


「消したよ」


 リョウが証拠とばかりに、ロックを解除したスマホをサチに渡そうとしたが、サチはその手をそっと押し戻す。


「確認はしないわ。あなたたちのこと、信じているから」


 そこでやっと、サチの表情がもとの笑顔を取り戻した。

 安堵するリョウたち。ほかの女子も、もう授業が始まるからと散り散りに自分の席に戻っていく。同時に、遠巻きにこちらを見ていた視線も霧散する。

 サチはチャイムギリギリに教室に入ってきた矢田部伊奈帆に、いつもの通りのクールな笑みを向けた。


「おはよう、伊奈帆」

「お、おはよう、サチちゃん」


 おずおずと、伊奈帆が自分の前髪を触る。



「あら今日も昼は彼氏と一緒?」

「うん。理史がうるさくって」

「そう……なんだか、キスしてからよね。彼、意外とそういうタイプなのかしら?」

「そういうタイプ?」


 なんでもないわ、とサチは微笑して、教室の扉を指さした。


「彼氏が待っているわよ。リョウに絡まれているから、はやくしないと」

「ごめん行ってくるね! 今度ファミレス寄ろ!」

「ええ、たまにはね」


 教室の入口付近で理史に絡んでいるリョウの許に行くと、理史がホッと息を吐いた。リョウの顔は好奇心に溢れていて、あたしたちの馴れ初めを聞きだそうとしていたのだろう。これは真面目にリョウの好奇心を満たすために、どこかで理史の家でのデート話をする時間を作ったほうが良さそうだな、と思いながらリョウの腕を軽く引っ張る。


「リョウ。それぐらいにして。今度話してあげるから」

「ほんとに? 石泉にミソラを盗られてばっかで、最近遊びにも行けてないじゃん」

「さっきサチと約束したけど、今度ファミレスに行こ。それでチャラにして」

「ミソラがそういうならねぇ」


 リョウは名残惜しそうな顔をしながらも、サチのところに戻って行った。


「行こうぜ。屋上でいいか?」


 リョウがいなくなってやっと一息吐いた理史があたしの腕を掴む。


「うん。いいけど」


 腕は引っ張らないでほしい。



 昼休みが終わって五時間目の授業中に、前の扉がガラッと開いた。

 先生とあたしたち生徒の視線が、教室の入口に向く。


 もう今日で六月も終わろうとしている。すっかり暑くなって、気温の高い日が続いている。それなのに藤野エリナは、学校指定の半そでセーラーの下に、白い長袖を着ていた。だがそれよりも目線が惹かれるのは、彼女の着ているセーラー服。袖や襟の部分に白いレースのフリルを散らして、改造を施しているセーラー服を、いつも彼女は着ている。スカートにはピンクのフリルが縫い付けられている。あたしたちの通っている学校の校則はそこまで厳しくはない。だから彼女のその姿は、彼女の存在の異質さも相まって、黙認されていた。入学当初こそ生活指導の先生に目をつけられていたが、彼女が何も言わずにいつもツンとして過ごしていたので、言っても無駄だと思われたのだろう。彼女のその姿はもうすっかり、学校の日常に異質に溶けこんでいる。


 だけど今日は違った。彼女に向けられている視線の矛先は、その異質さをさらに異質たらしめている腕に巻かれた白い包帯。

 好奇心と、畏怖の情が、授業中に入ってきた藤野エリナに、隠すことなく向けられている。 

 それなのに、藤野エリナはすべての視線を遮断して、いつもの無表情のまま自分の席に座った。

 静寂の流れていた空気の中に、先生の手を打ち鳴らす音が響く。

 一瞬で生徒の思考は切り替わり、授業が再開された。



『ごめん。今日の帰り、サチたちと一緒にファミレスに行く約束してるから、今日は一緒に帰れない』


 そんなラインを送ると、理史からの返信は五分後にやってきた。


『わかった』


 たった一文で、それだけだと彼が何を考えているのかはわからない。

 だけど許しをもらえたことに安堵して、あたしはサチたちに向かって声を張り上げる。


「今日は一緒に帰れるよ!」

「マジで? 彼氏は良いの?」

「うん。今日はリョウたちと一緒に帰りたいって言ったら、良いよってさ」

「じゃあファミレス行こ。ずっとミソラに話したいこともあったしさ」


 リョウは飛び上がって喜んだ。サチもほほ笑んで「嬉しいわね」と言った。その時、いつもサチと一緒にいる伊奈帆がどこか不安げに俯いていたのだけれど、あたしは気にしなかった。彼女はいつもサチと一緒にいるけれど、あたしにとって必要な日常はサチたちと仲良くすること。伊奈帆のことは関係ないし、あたしは彼女のことをほとんど何も知らない。


 藤野エリナが自らの腕を切った出来事から、もう五日が経っていた。あれからも彼女はいつも通り、毎日無言で学校に登校してきている。生徒も、先生も、遠巻きに彼女に見守るだけで、いくら好奇心旺盛のリョウと言えども、彼女に声を掛けることはなかった。


 だけどあたしは、彼女の姿に、わずかな違和感を抱いていた。

 藤野エリナはいつも通りだ。いつも通り改造されたフリル一杯のセーラー服を着ていて、いつも通りの無表情に、いつも通りの無言。あたしたちとは違う世界にいるのだと主張するように、異質な見えない壁を築いていて、ただ空気の膜を纏ってそこに存在している。

 だけどその存在が揺らいでいるような、不安定さをあたしは感じていた。


 ホームルームが終わった後も椅子に座っていた彼女が、ふわりと浮くように腰を上げた。

 鞄を持つと、彼女はフラフラと、危なっかしい足取りで教室を出ていく。思わず視線が追いかけていた。


「藤野さん。どうしたのかしらね?」


 サチの問いかけに、ハッと我に返る。


「体調でも悪いのかな。心ここにあらずみたいだし」

「そんなのいいじゃん。早く行こ」


 ヘラリと笑うあたしの腕を、リョウが引っ張ったので、あたしたちは下駄箱に向かう。

 靴に履き替えて昇降口を出ると、あたしの視線は自然に中庭に向かっていた。中庭から裏門に抜ける道は、理史と帰る時のルートでもある。最近理史と帰ってばかりいたからその癖もあったのだろう。

 中庭に向けたあたしの視線は、そこで釘付けになった。

 人混みのある校門付近とは違い、人通りの少ない中庭。その中庭の隅に、藤野エリナが座り込んでいた。


「何やってんの、アレ?」


 あたしの耳元で、リョウが面白そうに呟く。「あ」とスマホを取り出すと、無断でリョウが写真を撮った。


「リョウ。盗撮は犯罪よ」

「ごめんごめん」


 サチの忠告に、リョウはスマホのカメラを下ろした。


「藤野さん。体調悪そうだから、先生を呼んでくるわね」


 リョウはスマホの画面を見下ろしながら、「了解」と言って動こうとしない。あたしはサチに一緒に行くよと言おうと思い足を踏み出したが、その前に藤野エリナが立ち上がった。


「あら」


 彼女は、やはりフラフラとした足取りで、校門から遠ざかるように中庭の奥――裏門の方向に向かっていく。


「もういいんじゃない?」


 あたしの口から出てきた言葉に、サチが「そうね」と頷く。

 あたしたち三人と伊奈帆は校門から出ると、駅近くにあるファミレスに向かった。

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