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そういえば理史の家に行くのは今日が初めてだな、ということに気がついたのは理史の家近くのコンビニで待ち合わせをしている最中だった。
『もうすぐ着く』
簡潔なラインが届き、あたしは『了解』と返事を打つ。冷房の効いた室内で待つか迷ったが、すぐ来るのなら外のほうがいいだろう。結局あたしは、帽子も日傘も持ってこなかった。
言葉通り、理史はそれから一分も経たずにやってきた。
「おはよ」
「おはよー」
あたしは挨拶を返しながら、コンビニを指さして「何か買ってく?」と気持ちを紛らわせるために言った。
「お菓子でも買っていくか」と理史は笑うと、先にコンビニに入ってく。
その笑顔はいつも通り過ぎて、緊張しているのはあたしだけなんじゃないかと思った。いや、きっとそうだ。人の家にお邪魔するのに緊張するのはあたしぐらいなものだろう。どうしてもあの冬のことを思いだしてしまう。
コンビニで適当にお菓子を買い、理史が買い物袋を持っていないほうの手を伸ばしてきた。
目の前で揺れる手を、あたしは握る。
手を繋ぎながら、あたしたちは平日とは違う、土日の穏やかな雰囲気のなか、理史の家に向かった。
理史の家は、塀に囲まれた一般的な二階建ての一軒家だった。
外門を開けてなかに入ると、左右にはもうすぐ終わる六月を彩る紫陽花が咲いていた。朝方に振った雨露で艶めいて見える。広めにある庭は綺麗に手入れが施されていた。
「俺の両親、今日から旅行に行ってんだ。明日まで帰ってこないから、のんびりできるぜ」
あたしは「そうなんだ」と答えた。
玄関はきちんと片付けられていて、靴は一足も出しっぱなしになっていない。
理史がスリッパを用意してくれたので、あたしはそれにつま先を入れた。理史は靴下のまま、廊下を歩いて行く。
「階段を上った右側が俺の部屋だから、先行ってろよ」
理史はそう言い残すと、リビングに消えて行った。
ギィ……。極力音を立てないように、あたしは忍び足で階段を上ると、上ってすぐ右側にある部屋の扉を開いた。外開きの扉からあたしは中に入る。
どこに座ればいいのか迷っていると背後で「扉を開けてくれ」という理史の声がした。閉まりそうになっていた扉を開けると、理史がお盆を持って立っていた。お盆の上には飲み物の入ったグラスと、さっき買ったお菓子が載っている。
「その座布団に座れよ」
言われるがまま、座布団に座る。
理史はあたしの向かいに座った。
「な、何からやる?」
慌てて鞄の中から教科書とノートを取り出す。
「おまえの苦手な教科は?」
「数学かな」
「ならそれから教えるよ」
「え? 教えてくれるの? 理史の勉強は?」
「教えるのも勉強になるからさ」
数学の問題集を広げると、テスト範囲の問題を順番に解いていくことになった。まともに勉強をしていないので、二割ぐらいしか解らなかったけれど、うんうん唸って悩んでいると理史が丁寧に教えてくれた。おかげで少しずつ解るようになってきた。
「次は国語でもやるか」
「あ、それよりも英語がチンプンカンプンなんだけど」
「じゃ、英語にするか」
理史は普段通りだった。勉強の時はいつもよりも淡々としていて、目は真剣で。
その顔を見て、あたしはホッと胸を撫でおろす。特に何事もなく、無事に勉強を終えて帰れそうだと、安心していた。
他人のそれも親しい人の家に入るのは緊張する。そこには学校では普段見せることのない秘密があるかもしれないから。彼女がそうだった。彼女はあたしに秘密を見せてくれて、だけどあたしはその秘密を悍ましいと思ってしまった。だから彼女はあたしを拒絶するようになった。
あれからもう半年が経っている。
あの頃までのあたしは、人と関わることに嫌悪感を抱いていたのだろう。
でもいまのあたしは違う。人との距離感をうまくつかむことができれば、日常生活をうまく生きることができる。
「なあ、美空」
英語の問題集をにらみつけながら単語を書き写していると、理史に呼びかけられた。
顔を上げると、理史の真剣な瞳と目が合った。
この目には見覚えがある。学校のプール脇のベンチで隣り合っていた時に、理史がしていた目。そして、この後の流れも、あたしは予想していた。
「キスしていいか?」
あたしは否定も肯定もしなかった。
いや、できなかった。
理史が身を乗りだしてくる。
――なんだろうな、と思った。
なんなんだろう、これは、と。
どうして、あたしは――。
「もうバイトに行かなくちゃ」
その言葉を合図に、試験勉強は終了することにした。キスの後は何事もなく、ただ淡々と試験勉強をしているだけだった。そういえばこれもデートというのだろう。話題を欲しているリョウに今度話してみるのも良さそうだ。
バイトの時間も迫っているから慌てて勉強道具を片付ける。
「送っていくよ」
理史の言葉に、あたしは「いや、いいよ」と答えた。
「バイト先まで距離あるし、電車にも乗らないといけないし、理史の勉強の邪魔をするのは悪いでしょ」
「……いいから送っていくって」
理史の顔が険しくなる。あたしはその顔を見て、咄嗟に笑顔を取り繕った。
「じゃあお願いしようかな」
あたしたちは駅まで隣合って歩く。
理史の家は、あたしの家のある駅の二つ隣の駅にある。バイト先のコンビニは、そのさらにふたつ隣の駅にあった。ちなみに学校はあたしの住んでいる家からそれほど遠くないところにある。
「なんだあれ?」
その騒ぎに気づいたのは、駅の近くにきた時だった。駅の周囲にある雑居ビルの傍に、人だかりができている。
歩道で近くに車などないから事故ではないだろう。何か面白い出来事でもあったのかなとあたしは話題になるかもしれないと期待して、理史に話を振った。
「見てく?」
「おまえ、バイトは?」
「ああ、そうだった」
あたしはてへ、とらしくなくおどけて見せる。理史はちょっと笑った。
その騒ぎの横を通り過ぎようとしたとき、人だかりから足早に男女が出てきた。その顔はふたりともすっかり青白くなっている。
「ヤバイって。めっちゃ血が出てた!」
「自分で切ったんでしょ?」
「ありえねぇよな!」
あたしは理史の顔を見た。
「自分で切ったって、どういうことだと思う?」
「さあな。それよりも、バイトに遅刻するぜ」
「やば、ギリギリかも」
人だかりの内容が気になったが、あたしたちはその横を足早に去って行く。
ふと温もりを感じて見下ろすと、理史があたしの手を握っていた。
あたしが握り返すと、彼は嬉しそうに笑った。
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