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 視線を感じて顔を上げると、上半身裸の彼女が、脱いだ服を抱えてあたしをにらんでいた。彼女の瞳はとても冷たく、影も相まって光が感じられない。


 その時まで、あたしは彼女があたしだけに秘密を打ち明けてくれる愉悦感に似たものを感じていたのだけれど、その瞳を見た瞬間に背筋を駆けあがっていく悪寒とともに、頭が冷静になりはじめた。

 彼女の瞳は出会ったばかりの頃、まだ世界とともにあたしを拒絶していた時の瞳に似ている。誰にも心を許さない捨てられた猫のようで、触ったら噛みつかれそうなほど狂暴に、だけど少し脆い。


 その瞳は、なぜか仲のいい友人のあたしを拒絶していた。

 ふたりの間には壁がある。

 そう感じてしまう。


「ど、どうした?」


 問いかけても、彼女は口を引き結んだまま、こちらをにらみつけるだけで答えてくれない。


「とりあえず服着たら? もう十二月だし、暖房ついてないから寒いでしょ?」


 そう言っても、彼女はただただあたしをにらみつけるだけで、何も言わなかった。

 唐突に、はぁ、と彼女がため息を吐いた。そのため息はやけに大きく響いた。

 やっと口を開いた彼女は、あたしから視線を逸らすと、ただ一言。


「帰って」


 そう言い放った。

 その声は静かな室内に響いて、あたしの耳の粘膜に反響するように残っている。



    ◇



「いらっしゃいませー」


 商品のバーコードを打ち、お会計を告げる。

 お客様からお金を受け取り、お釣りとレシートを渡す。


「ありがとうございましたー。またのお越しをお待ちしておりますー」

「いいねいいね、青木さん。すっかり板についてきたね」


 レジに並んでいた客がいなくなった隙を見計らい店長が声を掛けてきた。

 あたしはそれに「ありがとうございます」と返事をする。店長のお世辞はいつものことなのでここは素直に聞いておくほうがいい。


 暇つぶしでコンビニのアルバイトを始めてから早三カ月。学校から離れたところにあるこのコンビニでは、知り合いに会うことはほとんどない。だけど店長やほかの従業員たちとの調和を崩すわけにはいかないので、あたしは愛想よく、のほほんと接客をしていた。バイト同士のギスギスした雰囲気もなく働きやすいところでもある。


「でも青木さんて、ほんとに休みは要らないの? 週五で入っているけど、友達と遊びに行ったりとかはしないの?」

「あー、バイトの休みの日とか、あとは土日の昼間とかに遊んでるから平気ですよ」

「それならいいけど。まあ、シフトに入ってくれるのはこっちも助かるし。でも、休みがほしかったらちゃんと言ってね。調整はできるから」

「わかりました」


 今年四十になる男の店長は言うだけは言ったぞという顔をすると、バックルームに戻っていった。あたしが働いているこの店舗は、夜勤の人数が少なく店長がほぼ毎日のように深夜帯のシフトに入っている。そのせいかはわからないけれど、もうすでに店長の頭髪が薄くなってきているのがバイト間での共通の話題だった。


 今日も夜勤に向けて仮眠をとるのだろうか。大変そうだなぁ、と他人事のように思っていると、ちょうど店内の客がひとりしかいなくなったのを見計らったのだろう、同じ時間帯のシフトに入っている男子大学生の畑中さんがこっそりと話しかけてきた。


「青木ちゃんって、いま彼氏いるの?」


 あたしは一瞬迷ったけど、「いますよ」と正直に告げる。

「なんだ」畑中さんは露骨に残念そうな顔をした。


「せっかく同じシフトに入ってるから、仲良くなりたかったのになぁ」


 畑中さんは大学一年生で、二週間前に入ってきた新人だ。ほかのバイトから彼の噂は聞いていたのだけれど、「彼女募集中」だというのは本当みたいだ。

 彼氏いるのにいないと答えるとあとあと厄介になりそうだから素直に答えたが、彼は彼女候補から外れた相手には露骨に態度が変わるとも聞いているので、今後一緒のシフトに入る時が心配になるけれど。

 まあ、あたしは関係ないや、と仕切りなおすために、来店を告げるベルの音とともに声を上げた。


「いらっしゃいませー」



「いまテスト週間なんだって?」


 バックルームでエプロンのリボンをほどいていると、店長が聞いてきた。


「そうですけど」

「他の子はシフト休んだりしているけど、青木さんは休まなくても平気? いまならシフト減らしても、多少はいけるけど」

「大丈夫です」


 間を空けずに答える。


「毎日復習はしているし、あたし大学に行くつもりはないので。高校は卒業できればいいかなって」

「え、そうなんだ。まあ、入ってくれる分には助かるけど。バイトばかりで学生の本分を疎かにされるのは雇っているほうとしては困るからね。ほどほどにね」

「はい。じゃあ、お先に失礼します」


 これ以上踏み入ってこられるのも困るし、あたしは鞄を持つとさっさとバックルームから出た。


「お疲れー」


 背後からは店長の声が飛んできた。

 コンビニを出ると、あたしはスマホを出して画面の通知欄を眺める。一時間ほど前に、理史からのラインが入っていた。


『いま電話大丈夫か?』


 バイト中なので気づかなかった。

 あたしはラインを開くと、『ごめん。いまバイト終わったとこ。いまならいいよー』と返信をする。 

 返信をしたらすぐに着信音が鳴った。


「いまからファミレスで会えねぇ?」

「いいよ」

「ならいつものところで」

「おっけー」


 すぐにあっちから電話は切られてしまった。

 なんだろう。

 理史は毎回あたしのシフトを知りたがっているので、シフトが出るたびに彼に報告をしている。だからあたしが今日もバイトがあるということは知っているはずだ。それなのにバイト中に電話をしたいというラインを寄こしてきて、何かあったのだろうか。



 ファミレスに着くと、理史はもうすでに席にいた。というよりも、多分これは一時間以上前からいたのだろう。机の上には湯気の立っていない半分ほどのコーヒーと、ドリンクバーの伝票が載っている。

 夜九時過ぎのファミレスの片隅の席で、理史は試験勉強をしているようだった。


「ミソラが来るまで暇だったから」と理史は言ったけれど、彼は試験前は基本的に勉強をしている。その成果か、日ごろからのコツコツとした勉強の賜物もあるのか、彼は学年十位以内に名前を連ねるほど頭がいい。

 席に座ると、あたしは店員を呼び止めて理史と同じドリンクバーを頼んだ。 


「珍しいじゃん。テスト週間中に、理史があたしを呼び出すなんて」


 理史は教科書を閉じることなく、ノートにシャーペンを走らせながら、「別に」とだけ言った。中間試験の時は、先に理史から「勉強に集中したいから連絡できない」と言われていて、実際に試験中は一言も連絡がなかった。


 理史はカップに口をつけると、「ぬるい」と言って、冷めきっているコーヒーをソーサーごと脇に追いやった。それから口を開く。


「美空。おまえのバイト先って、どういう人がいるの?」

「え? なんで急に?」

「良いから、教えろよ」


 理史の口調は軽いものだった。なんの気兼ねのない、軽い問いのようで、あたしは店長がバイトのことを気にかけすぎていることや、ストレスからか頭髪が禿かかっていること。それから男子高校生の遅刻癖や、土日の午前中に一緒になることがあるパートさんの天然パーマが触ると気持ちいいこと。よく一緒になる女子大生の恋人自慢がうるさいこと。それから新人バイトの畑中さんがバイトの女性を口説きまくっていることなどを話した。


 禿という単語を聞いたときはクスッと笑ったものの、理史は「ふーん。そっか」と言っただけで、それ以上話を掘り下げたりすることはなかった。

 なんなんだろう。あたしは不満に思ったが、聞くことはしない。


「なあ、美空。明日って土曜日だろ。一緒に試験勉強をしないか?」

「え?」

「いいだろ。たまにはさ。おまえもバイトは夜だけだし、俺の家、両親いないし」

「……確かにバイトは夜だけだけど」


 ――俺の家?

 もしかして、それって。


「俺ん家で、一緒に勉強しようぜ」


 理史の笑顔を見て、あたしは――頷いた。

 藤野エリナが、二階の窓から落ちるという事故から一週間は経過していた。梅雨はとっくに終わっていて、六月ももう終わりかけの夜はムシムシと暑い。日中の気温も三十度超えるだろう。帽子と日傘どっちを使うか、あたしは思考の片隅で考えていた。


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