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 薄く開いた遮光カーテン。その隙間から差し込んできたオレンジ色の夕陽が、目の前の背中を彩っていた。

 その姿はさながら神のようでいて、だけど彼女の行いはそんな神々しいものとはかけ離れていた。


 露わになった彼女の背中があたしの瞳に映る。

 息を呑み込み、何とか絞り出した声は震えていた。

 上半身裸になっている彼女の背中。

 そこには大きな傷跡があった。

 痛々しく、黒い染みのように背中全体に広がっている傷。

 もう一生治らないだろう、火傷の痕。

 ああ。

 なんて……なんて、悍ましいのだろう。

 そんなこと思ってはいけないとわかっていても、感情は抑えられない。

 これが、彼女の秘密。彼女が隠していて、仲良くなったあたしに見せてくれた、彼女の秘密。


 ああ――。

 あたしは嫌でも思い知ることになる。

 必要以上に仲よくするということは、こうしてお互いの悍ましい部分を見せ合わなければいけないのだ、ということを。



   ◇



 昨日の放課後、二階の窓から二年生の女子生徒が転落したという事故は、瞬く間のうちに学校中の話題となった。事件でも自殺でもなく、事故。彼女はただ不注意で、二階から落ちたといわれている。


「ミソラ!」


 あたしが教室に入ると、挨拶よりも早くリョウが飛んできた。彼女は噂というものに弱い、良くも悪くもイマドキの女子で、彼女をこうして突き動かしているのは間違いなく昨日の「噂」だろう。


「うわっ、どうしたの?」


 大げさに驚いて見せる。

「朝からなんか騒がしいよね」と周囲を見渡しながら。


「それがさ、聞いてよ。うちのクラスの藤野エリナって知ってるよね?」

「……うん。あの、いつもひとりでいる子だよね」


 横目で彼女の席を確認するが、昨日の今日で登校してきているわけがないだろう。席は空白のまま、クラスメイトが意味ありげに距離を空けながら、彼女の席をチラチラと見ている。


「そうそう、その藤野エリナが、なんとね、昨日の放課後、二階の教室の窓から落ちたんだって!」

「え、マジで! なんで?」


 あたしは彼女が落ちた後の血を見ていたひとりでもあったのだけれど、知らないふりをすることにした。こっちのほうが都合よく会話ができるからだ。


「それがわかんないんだってさ。しかも落ちた教室が空き教室だったとかなんとか」


 いい話ではないはずなのに、リョウの顔は生き生きとしていた。

 毎日ほとんど変わることのない学校生活の中にもたらされた新たなるスパイス。それに飛びついて、あーだこーだと話し合う。特にこういう「噂」は、学校生活の中では特大イベントなのだ。刺激を求む女子高生が飛びついたら、飽きるまでそれは止むことがない。


 教室にも、別のクラスにも顔が広いリョウは、特にこういう出来事にのめり込んでしまう。

 むしろわかりやすい反応に、あたしは少し救われた思いをしていた。昨日はあの後、理史の手を取って、逃げるようにすぐに事故現場から立ち去った。


 血を流している少女を心配して駆け寄る生徒や、スマホを掲げて面白半分に写真を撮る生徒を尻目に、一目散に裏門に向かうあたしの行動を理史は咎めなかった。あの後ファミレスに寄ったものの、食欲がわかずにドリンクバーでバイトまで時間を潰すのにも付き合ってくれた。理史は適度に会話を投げかけてくれて、それにあたしは答えたり、答えなかったりと上の空だった気がする。でも人の血を見た後なのだ。ぎこちなくても、おかしくはなかっただろう。


「あら、どうしたの?」


 教室の入り口付近で立ち話をしていたからか、登校してきたばかりのサチがすぐさま合流してきた。


「それがさっ」


 興奮したように、リョウがサチに事故のことを話して聞かせた。

 へえ、とサチは驚いたように目を見開いた。


「藤野さんが二階から落ちたの? それは大変ね」

「二階だったのと、下が花壇で土も柔らかかったから大事にはならなかったらしいけど、額を切ったから血が大量だったんだって。あと足も捻挫したとか。あ、そういえば別クラの子から回ってきた写真あんだけど、見る?」


 スマホを取り出すリョウを、サチが手で制する。


「遠慮するわ。血を見るのは、苦手なの」

「へえ、意外……あ、そうなんだね。ミソラは?」


 ドクンと、あたしの心臓が脈打った。

 昨日目にした血の色が、まだ色濃く脳裏に焼き付いている。


「あたしもそういうの苦手だからさ、やめとくよ」

「そっかー。残念」


 落胆した素振りを見せて、リョウはあたしたちから距離を取ると他のクラスメイトに声を掛けに行った。スマホの画面を見て盛り上がっている様子を見るに、もしかしたらあれが当たり前の反応だったのかもしれない。


「リョウも物好きね」


 ボソリと、サチが言葉を溢す。


「ああいうのはやめておいたほうがいいのよ。人の血を見て騒ぐのは、不謹慎だからね」


 あたしの視線に気づいたサチが、目を細めて笑う。


「そう、だよねー」


 あたしはすぐに同意した。サチが言うのであれば、あれは不謹慎なのだろう。あたしの反応は、間違っていないのだろう。

 教室の中は騒がしい。リョウたちの上げる声で、教室自体が震えているようだった。

 スマホの着信音がして画面を見ると、理史からラインが届いていた。 



 最近昼休みぐらいは友人と一緒に痛いということにしていて、サチたちと一緒にご飯を食べることが多かった。だけど今日は久し振りに一緒に昼食を取ろうと理史がラインをしてきたので、サチたちに断りを言われてから理史が指定した屋上前の階段までやってきた。

 うちの学校の屋上は解放されていない。昼休みのこの時間、屋上前の階段は人気のない不人気スポットだった。


 階段を上ると、そこにはもうすでに理史がいた。彼はパンに齧りついている。


「ごめん。待たせた」

「……座れよ」


 口のなかのものを飲み込んでから理史が指さした彼の隣に、あたしは腰を下ろす。


「何それ」


 購買で買ってきた袋を膝の上に置くと、理史がそう訊ねてきた。


「焼きそばだよ。購買の人気商品なんだって」

「へえ。いつも購買で買ってんだな」

「うん。弁当つくるのはめんどいし。理史はコンビニばかり?」

「昼は腹が減っているから、購買の行列に並ぶ気にはなれない。昼ぐらい、これで十分だぜ」

「それもそうだね。あたしもそうしよっかなぁ」


 ビニール袋の中からプラスチックのパックに入った焼きそばを取り出すと、割り箸を割いて食べ始める。若干冷めていて麺が固くなっているけれど、ソースの味がしっかりとついていて美味しい。

 お互いがご飯を食べていたためしばらく無言が続いたけれど、焼きそばが半分ぐらい減ったところで先に食べ終えた理史が話しかけてきた。


「美空。昨日はどうしたんだ?」


 口のなかの焼きそばを咀嚼してから、あたしは質問に質問で返す。


「昨日って?」

「藤野の事故を見て、おまえは真っ先に逃げようとしただろ?」


 あたしは焼きそばをひとくち口に含み、答えを考える。

 言い訳にならないように、必死に考えを巡らせる。


「血がいっぱい出ていて、怖くなったから」


 理史はあたしの目を見つめて、「そっか」と柔らかくほほ笑んだ。

 あたしはホッと胸を撫でおろす。

 残りの焼きそばを食べ終えると、またしても理史が言ってきた。その声音はいつも通り淡々としていたのだけれど、それも相まってか忠告のような響きがあった。


「隠し事はするなよ。俺は、美空の彼氏なんだからさ」



 理史と別れてから教室に戻ると、入口のところで伊奈帆と鉢合わせた。彼女は例のごとく飲み物を抱えている。またパシリに行かされたのだろう。


「ごめんね、美空ちゃんの分は買ってないや」

「いや、いいよ。あたしはさっき飲んだし」


 ペコペコと頭を下げる伊奈帆を見ていると、なぜか胸の奥がムズムズする。それがあるからあたしは彼女との会話を避けていた。

 サチは自分の席に腰を掛けていて、リョウは前席の椅子の背に屈むようにして、サチと向かい合っている。伊奈帆とともに近づいて行くと、あたしの存在に真っ先にサチが気づいた。


「あら、お帰り」

「なんか進展でもあった?」

「何もないよ。一緒にご飯を食べただけ」


 えぇとつまらなそうに、リョウが不満げな声を上げる。


「てっきりその先とかさ、あったのかと。だって付き合って二カ月って結構長いし」

「いやいや学校だよ?」

「まあ石泉も奥手そうだもんね。でも学校でイチャイチャできるだけでも羨ましいよ」


 あたしは「えぇ」と笑う。冷汗がたらりと垂れた。

 リョウはあたしを見ておらず、心ここにあらずといった様子だった。それに気づくと、あたしは「何かあった?」と訪ねる。

 リョウは言いにくそうに「うぅん」と唸った。


「アタシの彼氏さ、最近そっけないんだよね」

「え、昨日まではあんなに惚気てたじゃん」

「そうなんだけど。電話しても出てくれないし、ラインも既読スルーしてくるし。いつもならスタンプだけでも送ってくるのにさぁ」

「あら、それは心配ね」


 サチの気遣いの台詞に、「どうしてそんなことするんだろうね」とあたしはリョウに同情の言葉を寄せる。


「もう、ふたりとも、今度グチ聞いてよね!」


「もちろんよ」とサチ。

「いつでも聞くよ」あたしも同調する。


「ありがとう、サチ、ミソラ、大好き!」


 泣きそうな顔でリョウがあたしとサチに抱き着いてくる。サチは「はいはい」と笑いながら、リョウの頭を軽く撫でた。

 その時、昼休み終了のチャイムが鳴った。

 あたしの傍に伊奈帆がいることにやっと気づいたサチが、「あら」と薄く口を開いた。


「買ってきてくれたのね。いつもありがとう、伊奈帆。私の好みもよくわかっているのね。えらいえらい」


 ついでとばかりに、サチは伊奈帆の頭も撫でていた。

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