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 ジーリジリジリジリジュワッジュワジュワ。

 蝉が鳴いていた。

 うるさい蝉の声だと思った。

 耳を塞いでも、蝉の声が脳内に入り込んでくる。その鳴き声で頭痛までしてくる。


「大丈夫か?」


 そんなあたしの頬に冷たいペットボトルを当ててきたのは、ベンチで隣あって座っている石泉理史いしずみまさしだった。


「ちょっと、蝉の声がうるさくって」

「耳鳴りみたいなものか?」


 ふーんと、理史はペットボトルの中身のミネラルウォーターを一気に半分ほど飲んだ。

 ぺろりと、唇についた水滴をなめて、理史は目の前――柵越しにある学校のプールに目を向ける。


「もう夏だな。プールの授業ももうすぐだ」


 プールにはまだ水が張られていない。どこからか飛んできた落ち葉の大群が、プールの中を占拠していた。水のないプールを改めてみると、秋から冬、冬から春にかけてのプールは薄汚れて汚いんだな、って思う。夏になったら仮初だけ綺麗に掃除して、あたしたちはほんとうはこんなにもきたないプールで楽しくキャッキャっと冷たい水に騒ぎながら過ごすのだろうか。


 それはそれでなんか嫌だなと、胸の奥がモヤっとする感覚に体を捻らせる。


「授業は男女別だし、おまえの水着姿が見られないのは残念だぜ

「ええー。夏になったらプールぐらい一緒に行けばいいじゃん」


 あたしは迷いながらも、理史の腕をぐいっと引っ張りながら上目遣いで相手の反応を窺う。


「そ、そうだな」


 いつも毅然としているのに、ちょっと照れたように笑う理史の顔を見られるのは彼女であるあたしの特権だ。でも、その笑顔にときめいたりはしない。


 日常をうまく生きていくには、自分勝手な行動をしないで周りに合わせないといけない。それを、半年前のあたしはわからなかった。ひとりでいるほうが楽だからと、一匹狼を気取って生きていた。だけど高校一年生の頃、あたしは自分と同じようにひとりで生きていた少女と関わり、ひとりでは駄目なのだと思うようになった。


 あたしは周りに合わせるために短かった髪を伸ばして、みんなもしているからと校則ギリギリの化粧をしている。スカートも膝小僧が見える短さで、寒かった季節も素肌を晒してきた。

 あたしはいま、高校生の日常にうまく溶けこんで生きている。


「なあ、美空みそら


 理史の顔が至近距離にあった。


「俺たち、付き合ってもう二カ月も経つだろ」


 そうだね。とあたしは返答する。


「だからさ、そろそろいいよな」


 そろそろってなんのこと?

 そう問い返そうにも、理史の顔は吐息がかかるほどすぐそこにあって、うまく言葉として出てこなかった。それを返答だと捉えたのだろう。

 理史の顔が、どんどん近づいてくる。

 あたしの唇に向かって吸い付くように、それは柔らかい感触を伴ってやってきた。



    ◇



 昼休みの教室の一角で大きな声が上がった。それはあたしの目の前だった。


「ついに? ついにしちゃったの?」


 バッチリ化粧をしている顔が、大袈裟に驚愕に歪む。髪を明るい茶色に染めている外園良ほかぞのりょうは、学校指定のリボンは着けておらずにいつもシャツをブラジャーが見えるか見えないかというギリギリのラインまでボタンを空けている。その姿はまさしくギャルという装いだが、親しみやすさは人一倍だった。


「もう、大げさだよ。ただキスしただけじゃん。ファーストキスっていうわけでもないし」


 あたしがそう言うと、「照れちゃってー」とリョウが茶化してきた。

 あたしの隣で静かに話を聞いていた、有田早智子ありたさちこも、ふふっとおかしそうに笑っている。


「でも付き合って二カ月も経ってから、やっとのキスなのよね? よく我慢できたわね」


 サチ――早智子は、そう呼ばれることを好む――が、えらいわねぇとお母さんのような物言いをしてきた。彼女は頭が良く、それを驕ることなくいつも勉学に育む勤勉さと、リョウとはまた違った意味での親しみやすさに面倒見の良さを兼ね合わせていて、高校生にしては落ち着いた物腰からクラス委員に大抜擢されている。

 生徒はもちろんのこと、先生からの信頼も厚く、あたしたちと仲が良いのがたまに不思議になる少女だ。しかも美人。


「どうだった、秀才のキスは? あいつ、経験ないんじゃない?」

「うーん。どうなんだろう」


 あたしは悩んだふりをして、よりいい返答を考える。

 あたしはいままで誰かと付き合ったこともなければ、キスもしたことがない。だから理史のキスの、何がいいのか悪いのか、わからない。


「普通、かな」

「まあ、キスはそんなもんだよね。問題はその先だよ」


 まるで自分は経験豊富なんだとでもいうかのように(実際そうなのかもしれないけれど)、ニヤニヤと笑うリョウに、「ええ、それはまだ早いよぉ」とあたしは返した。

 そもそも、あたしははじめてのキスをよく覚えていない。


 汗と唾液と、あとは何かわけのわからないものが混じっているような気がして、あたしはじっと時間が過ぎるのを待っていた。でもひとつだけわかったのは、理史はきっとあれが初めてではないってこと。慣れている感じがした。


 だけどリョウたちが求めているのは、あくまでもあたしたちの馴れ初めで、本心ではない。本心を話すのも気が引ける。

 あたしはこれ以上踏み込まれないように、話題を変えるために「そうだ」と声を上げた。


「そういうリョウはどうなの? いまの相手って、年上の社会人なんでしょ? やっぱ高校生とは違う感じ?」

「うーん……ふふふふっ」


 わかりやすくリョウが破顔する。ニマニマと顔を綻ばせ、話したくてたまらなかったのだろう。

 あたしは会話の軌道をうまくずらせたことに安堵する。これでしばらくはあたしの恋愛の話は脇に追いやってくれるだろう。


 リョウは何よりも、自分の話に聞いてほしいタイプだ。付き合っている彼氏の自慢はもちろん、髪形にも気合を入れているのでこまめに気づいて褒めたり、休日に出かけたときは彼女のファッションも褒めなければならない。最初は戸惑ったけれど、もうすっかり慣れたあたしにはあたりまえなことだった。

 反対に、サチは自分のことはほとんど話さないが、周り変化にはよく気がつく。


「リョウは、本当に彼氏とお似合いね」

「サチも早く彼氏作ればいいのに。ほんとに毎日が変わるからさ」

「……そうかしら。でも、そうね。恋愛はいつでもどこでもできるけれど、高校生の友情は有限だもの。いまだけしか楽しめないことも多いでしょう? だから恋愛をするのはまだいいわ。あなたたちと遊んでいるほうが、楽しいものね」


 リョウの顔が一瞬だけ曇ったが、すぐに笑顔になった。


「そうだよねー。友情も、もっと楽しもう!」


 あたしも「それが良いよ」と頷いた。

 そこで、「あ」とサチが声を上げる。


「喉が渇いちゃった。何か飲みたいわ」

「アタシもー」


 間髪入れずに、リョウも同意する。その顔はどこか引き攣っていた。

 あたしも、「なんか飲みたいかも」と自然を装って言う。

 そして、サチの横で隠れるように昼食をとっていた少女が、ビクッと肩を揺らしながら立ち上がった。


「あ、なら、わたしが買ってくるよ。何がいい?」


 長い髪をふたつに結んだ彼女――矢田部伊奈帆やたべいなほは、おどおどとしながら手を上げる。


「私はいつものでいいわ」と、サチが当然の微笑みを浮かべていえば、それに続き、リョウが「炭酸以外で」と言った。あたしはいつものコーヒーミルクをチョイスする。


「ミソラはほんとそれ好きだよね」

「だって美味しいじゃん」


 リョウとちょっとしたことで盛り上がりながら、財布から小銭を出す。渡された小銭を握りしめると、「行ってくるね」と言って、伊奈帆は教室から出て行った。


「ふふ、ほんとに、あの子はいい子だわ」


 小声で言ったサチの言葉は、リョウには聞こえなかったみたいだ。

 さっきの引き攣った顔が嘘かのように、また別の話題を持ってきて、あたしたちは会話を盛り上げる。

 有田早智子ことサチは、このクラスの委員長で、そして、本当の意味でもリーダー的な存在だった。たとえ彼女が間違ったことをしていたとしても、それに文句をつけることはあたしたちにはできない。いまのはあくまでも、伊奈帆が自ら進んで名乗り出たこと。

 それに、サチの傍にいれば、あたしは日常をうまく生きていくことができる。



「一緒に帰ろ、ミソラ」


 リョウの呼びかけに、あたしは両手を合わせて謝った。


「ごめんッ。今日さ、理史と一緒に帰る約束してて。明日なら大丈夫だと思うから」

「そか。残念。明日は絶対に一緒だからね」


 理史の名前を出したからだろう。リョウはすぐに引き下がると、サチたちに声を掛けに言った。彼氏がいるのにいつも友達と帰っているのも不自然だし、断るのはおかしいことではない。


「また明日ねー」


 バイバイとサチたちに手を振ると、あたしは廊下に出る。

 教室を出ると、理史はもうすでに廊下にいた。あたしたちはそのまま下駄箱に向かう。


「ミソラ、こっちから行こうぜ」


 そう理史があたしを誘導したのは、中庭のほうだった。あたしは「いいよ」と応じながらも、めんどくさいな、と思った。

 下校時刻。人通りの多い校門付近ではなく、あたしたちは中庭に向かっていく。理史は人の多いところが苦手みたいだ。それははじめて会ったときからそうで、だからこそあたしたちは付き合うことになったのだけれど。


「なんだ俺の顔を見て」

「べつにー」


 あたしはおどけながらも、理史に手を取られるがまま中庭を歩く。

 理史はどうやら他人の視線があまり好きではないらしかった。


 中庭には、まだ人がまばらにいる。友達と話す者。体操服に着替えて部活に向かう者。男女で仲睦まじく話している者。

 その人々の視線は、あたしたちには向かない。あたりまえだ。彼ら、彼女らは、あたしたちの存在をそこらへんにいる生徒と同じだと思っている。よっぽど日常から逸脱しない限り、わざわざその他の存在であるあたしたちに関心なんて持たない。

 上手くできている。あたしは安堵していた。


 理史とは帰る前にファミレスに行く約束をしている。そのあと十八時からはバイトだ。

 今日は何を食べようか。前にフルーツパフェを食べた時は、「そういうのも食べるんだな。意外」なんて言われた。あたしはリョウみたいにかわいくないし、サチみたいに美人でもない。あたしのイメージは何なのか、相手からどう見えているのか気にはなっているけれど、自分で自分のイメージはわからない。だから「意外」だと言われると、何が「意外」なのかがわからない。


 今日はこの後バイトがある。だから小腹が空いているからと、フライドポテトでも頼もうかと考えていると、中庭にいる誰かが「あ」と小さな声を上げた。小さい声なのに、やけに大きく、耳元で聞こえた気がした。


「危ない!」


 叫び声のあと、何かが落ちてくる音が。

 どさり。


「なんだ?」


 振り返る理史。

 あたしは、すぐに振り返ることができなかった。

 でも理史と同じ行動をしないと、こんなところで固まっていると、変に思われる。だから無理矢理体を動かして――。


「――――え?」


 振り返った一瞬で、息を忘れそうになった。

 中庭にいる生徒の視線の中心。

 そこに、ひとりの少女が倒れていた。

 その少女を中心に、いびつな赤黒い液体がじんわりと広がっている。

 あたしは――。

 立ち尽くしながら、それを見ていた。

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