第66話「土いじり」

「んー」


 アイリーンの朝は早い。


 もとより農家の生まれとはいえ、早く寝て早く起きる健康的な生活を送っていた彼女は畜舎で飼っている雄鶏がときを告げるよりも早く目が覚めるのが習わしであった。


 彼女たちはメイドの皮を被った領主の愛妾候補であり、日々の労働の負担は極めて軽微であったがアイリーンの習慣は特に変わらない。


 同部屋の娘たちは未だ白河夜船である。カルリエ領内は相次ぐ領民の武装蜂起や隣領からの侵入で相当に台所は苦しいものの、いわゆる領主の屋敷に起居する彼女たちは傍から見れば王国貴族と変わらぬ生活を送っていると変わりはなかった。


(だから、わたしたちはわたしたちでキチンとしないと)


 カインが来る依然と比べればメイドたちの素行も雰囲気もずっと良質なものに変化していた。


 以前ならばレオポルドさまのお妾ですとどこかふんぞり返っていた全員が危機を感じ取り、自分ができる範囲のことは自分でやろうという機運が強まってどこかピリッとした空気に変わりつつあったのだ。


 労働の貴さに目覚める者が日に日に増えて、もとより真面目なアイリーンはその意識改革自体がうれしかった。


 昨晩のカインは久々に我が家に帰って来たというのに、やはり領内の問題で心を痛めているのが目に見えてわかった。


 カインが屋敷に無事な姿を見せるまでは、時折耳にする噂話にハラハラし通しであった。


 それこそふたりきりの時間がもし取れたのならば恨みごとのひとつやふたつはいってやろうと意地悪な気持ちもあったのだが、少年の疲れ切った寝姿を目にしてしまえばそんなものは瞬時に彼方に吹き飛ばされてしまった。


 新たにカインが連れ帰って来た双子の美しい姉妹にも気を揉んでしまうが、アイリーンの中でそれ以上にカインの役に立ちたい、なにかをしてあげたいという気持ちが強くなっていた。


「さあ、わたしはわたしで頑張ろう!」


「あのぉ、アイリーン。マジでやめてくんないかな。いじめだよ、これは」


 地獄の底から湧いて出た悪霊のような声を同室の娘が絞り出す。


 彼女がさっと指差した窓の向こうには夜空に星を戴いている。


「あうう。ごめん」


 アイリーンはそうっと部屋から出るとササッと身支度をして外に出た。


 空気が冷たい。


「春とはいえ、まだ寒いわね」


 厩舎から馬が嘶く声がする。

 外に出て小砂利の撒かれた道をサクサクと歩ていると、すでに労働を開始したカルリエ家の使用人たちの姿が目に入りアイリーンは頭の下がる思いであった。


(みんな頑張っている。わたしもカルリエ家の、カインさまのお役に立てるよう、なにかしたいな。なにができるかしら?)


「わたしのできること、わたしのしたいこと……カインさまがお喜びになられること?」


 現状、茶を淹れたり話し相手になったり、たいしたことはできていない。


「ひ、膝枕くらいじゃ、ダメよね」


 ほわほわとアイリーンの中にカインを相手にした淫靡な奉仕が次々と浮かんで来る。


「わ、わわっ。ダメ、ダメだってば!」


 人目がないのをいいことにアイリーンは「うひー」叫ぶとその場にしゃがみ込んで顔を両手で押さえた。


「わ、わたしってば、朝からなんという不埒なことを……」


 ハッと気づくと離れた場所に使用人の男が数名自分を見ているのに気づいた。


「きゃ」


 それはお年頃の少女である。アイリーンは逃げるようにその場をたかたかと走り去り、やや離れた農地の一画に移動した。


「うぅ、ぜったい変に思われたよう」


 もしこのことがカインさまのお耳に入ったらどうしよう、とアイリーンがブチブチ悩んでいると、ざかっざかっと勢いよく畑の土が掘り起こされる音が聞こえて来た。


 はじめは熱心な農夫が野良に勤しんでいると思ったいたのだが、どうも様子がおかしい。


 その畑は特に作付けが行われた様子もなく、注意深く様子を窺うとどうも現在は使用されていない区画らしい。


 なにをしているのだろう、と土がほじくり返される場所に視線を向ける。


「おう、アイリーンか。おはよう」


 ――その穴には汗まみれになってシャベルを持つカインが気持ちよさそうに立っていたのだった。






 ぶっちゃけカインは土いじりをしたことなど王都に住んでいるときから一度もなかった。


 自分は土に対する尊敬の念が薄い。

 それは常々感じていた。


 別段、領主代行を辞めてファーマーになるわけではないのだから、農作業の直接的なスキルは必要ないのだろう。


 だが、仮にも領内の農地を向上させようと思う人間が畑のことをなにひとつ知らぬどころか土にも触ったことがないのでは問題にもならないだろう。


 そう思ったカインは目覚めてすぐに土木用のシャベルをセバスチャンに用意させると近場の使っていない畑に直行した。


「なにを、なさっているのですか?」

「決まっているだろう。穴掘りだ」


 たまたまシャベルの手を止めてひと休みしているとそこにはポカンとした表情のアイリーンが立っていた。


「はぁ、穴掘り、ですか」


「そうだ、穴掘りだ」


 どうも珍妙な受け答えになってしまった。カインも特になにかすごい思いつきがあって行っているわけではないので突っ込まれても深い答えも返せない。


 これがリースならばからかい半分に食い下がって来るのだが、アイリーンは素直かつ善良なので、どこか困ったような表情で所在なさげにしているだけだった。


「土の様子を観察しているだけだ。気にしないでくれ」

「は、はい」


「しかし、我ながらよく掘ったものだ」

「そうです。ご立派ですよカインさま」


 突然にアイリーンから賛辞の言葉をかけられてカインは軽く赤面した。


(いや、今のはひとりごとだったんだが)


 だとしても、これだけの穴を掘るのは相当に苦労した。特に錬金術を使わず、額に汗して固い土を掘り抜くことは素人にとって至難の業である。


 軍隊では夜中に起床ラッパで唐突に起こされ、無意味に穴を掘らされそれから埋めさせられるという苦行があったとかなかったとか――。


(おれならそんな無意味な作業を押しつけられたら三日で発狂するぞ)


 とにかくも、縦一二〇センチ、横一五〇センチの穴を掘る作業は少年であるカインにとってはやはりキツいものがあった。


 カインは土の断面をそっと触ると大地と対話をはじめた。


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錬金貴族の領地経営 三島千廣 @mkshimachihiro

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