第51話「猪婆竜」

「ライエはそれで泳ぐつもりか?」


「はい。あるじさま。私はこう見えて泳ぎは得意なんですよ。実家近くの川でよく泳いでいました」


「そ、そうか。で、その水着と」


「はい。懇意にしていたダークエルフの子から着想を得て自分で作りました。殿方にお見せするのははじめてで、その、どうでしょうか?」


「お、泳ぎやすくて、極めて機能的でいいんじゃないか」


「ありがとうございます」

「とにかく急ごう」


 水の張った堀にザブンと飛び込んだ。


 一定の流れがあるにしろ、澱んだ堀は嫌な臭いがした。差し迫った事情があるにせよ寒空の真っ暗な中で水に入るのは決して気分がよろしくない。


 カインは愚痴ひとつこぼさず自分のあとに続いて寒気の激しい夜にこのような冒険を共にするライエに申し訳ないと思う反面、自分でも不思議なくらい深い信頼が生まれてゆくのがわかった。


「あるじさま。敵に悟られる可能性があるので灯火は使えません」


「わかってる。地形はさっき地図を見て記憶した。ライエも気取られないようにな」


 カインも上半身裸の上にステテコパンツのようなものしかつけていないので、心もとなさは凄まじかった。


 泳ぐことも考えれば携帯できるのはせいぜいが小さなナイフ一本である。


(よし。あれが排水溝だな。あの水路の奥に破損した鉄柵があり、しばらく泳げば屋敷内に通じている、はず)


 堀に背をくっつけて移動する。さすがに壁際には幾人もの歩哨の気配を感じたが、まさかこのような初春の水が冷たい時期に堀に飛び込む阿呆もいないと高を括っているのか注意を払っている者はいない。


(寒くて臭いが……口に出すと心が折れそうだ。とにかく早くゆこう)


 素肌の背に石を敷き詰めた堀の冷たさがジックリと染み込んで来る。カインは攻め口と決めた排水溝の一部ににじり寄りながら足指に絡まるヘドロのような藻を蹴飛ばしながらジリジリと進んでゆく。


 夜空に瞬いていた星々が西から流れて来た黒雲に月ごと覆い隠される。視界が一気に悪くなり、腹の奥がキュッと冷たくなった。


 その瞬間、目の前の水が爆ぜた。

 カインは本能的に強烈な殺意を感じてナイフを抜くとライエに抱きついてその場を離れた。


 訳が分からないが、確かに危険が迫っている。

 巨大な水音に気づいた堀の上の兵たちが数人集まって来た。


「なんだ、どうした?」

「いや、たぶん池の中で猪婆竜が暴れているのさ」


(どういうことだ。堀の中になにか飼っているのか?)


 幸か不幸か兵士たちが把握しているモンスターのおかげで侵入作戦は気づかれなかったが、同時にカインとライエは生命の危機に晒された。


「あるじさま。猪婆竜です! 堀の中に二匹ほどいます」


 どうやらライエはこのモンスターのことを見知っているらしい。正体がわからないから恐怖が大きくなるが、それ自体がただの生物であるならば対処法はいくらでもある。


「ライエ。先に行って入り口を確保してくれ。コイツらはまとめて私が退治する」


「ですが――!」

「時間がないんだ。頼む」

「は」


 問答している暇はないと悟ったのか、ライエはどぷんと水に飛び込むと見事なクロールで奥へと消えてゆく。


 上で兵士が見張っている以上灯火は使えない。ならば頼れるのはこの五体に備わる感覚だけだ。剣の師匠であったサムスンを教えを思い出す。カインは武芸を貴族として武芸をひと通り習ったが、優等生であっても天才ではなかった。特に十代前半の少年としては抜きん出た技もなければ驚嘆する膂力もない。


 ――坊ちゃま。コツですぞ。あらゆる生物には急所というものがございます。コツを覚えれば、ある程度は見極められるものなのです。


(そんな器用なことおれにできるわけないだろ)


 今、カインの手元にあるのは刃渡り十五センチほどのナイフがひと振りだけだ。


 ならば、自分がもっとも得意なもので戦うしかない。


 ここまでで十秒ほどを費やしただろうが、初撃をかわされて焦れ切った猪婆竜が巨大な水煙を上げて襲いかかって来た。


 端から手元のナイフでやり合おうとは考えていない。おまけに敵は少なくとも二匹はいるのだ。カインは手にしたナイフの柄を側面の石垣に叩きつけると錬成を行った。おそらくは四メートルはありそうな巨体をさらけ出した猪婆竜身体がカインをひと息に呑み込まんと迫る。


 後方に跳んだ。


 落下しながらカインは側面に積まれた石垣に手を触れる。


 だが、猪婆竜の牙が突き刺さる寸前で錬成が成功し、術によって変成された石の突起が横合いから続けざま勢いよく飛び出したのだ。


 こうなると猪婆竜は無防備な側面をハリネズミに体当たりされたようなものだ。


 しかも、石の突起ひとつひとつは槍のように鋭く尖っており、猪婆竜が持つウロコや皮膚の固さ程度では到底防げるものではなかった。


 グサグサと横合いから槍衾に晒された二匹の猪婆竜は断末魔を上げることも叶わずカインの錬金術によって処理された。


 着地の瞬間、右足首が横へとズレた。


 立ち上がろうとしてカインは右足首に強烈な痛みが走り呻き声を押し殺した。


 猪婆竜の突貫をかわそうと引いたときに、目に見えない足元の突起物で捻ったのだ。


 カインが二匹の怪物を屠ると同時に天の黒雲が走り去ってゆく。


「これが竜だって? ただのワニじゃないか」


 月明かりに晒された猪婆竜の正体はカインが転生する前に見たことがあったイリエワニに酷似していた。


(確か熱川のバナナワニ園で見たな。それよりもこっちのほうがずっと横幅が厚くて凶暴そうだ……)


「なんだァ? 今、でかい音がしなかったか?」


 堀の上にいる兵士たちがざわめき出している。カインはもう一度堀の石垣に手を着いて変成させた石の突起物を元に戻すと、大きく息を吐き出した。


 猪婆竜だったものはバシャンと水音を立てて沈み、完全に沈黙した。どうやら夜中にこの怪物が騒ぐことは見張りの兵士たちにとっては異常ではないらしい。カインは荒い呼吸を落ち着ける暇もなく、すぐさま水を掻いて泳ぐとライエの待つ奥へと進んでゆく。


「ご無事でしたか、あるじさま」

「ああ、問題ない」

「猪婆竜たちは?」

「処理した」

「さすがです」


 極めて小さかったがライエの声には抑えきれない賛辞が籠っていた。


「いいから早く進もう。日が出たら猪婆竜の死体が見つかるだろう。そうなったらなにもかもが手遅れだ」


「はい」


 ライエが先導する形でカインは水路に挑んだ。息を止めて潜りながら、泳ぐ。十メートルも行かないうちに狭い口の部分に到達した。水の中で薄目を開けて手を動かすと、なるほど、ロックがいっていたように格子が嵌まっているべき場所が進めるようになっていた。




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