第50話「潜入」
かつてとある文学者の本を読んだときにこんなことが記してあった。
――犬とは一度手に入れた権利を死んでも手放さない生物である。
と。
カインは考える。
人間も犬も本能のところは変わらない。
一度通った要求は自分の権利と思い込み、それが通らないと知ると癇癪を起す。
権利を手放すくらいならと惜しむあまりに理性などたちまち消え去る。
ゆえに平然と道理の通らないことも立て通す。
結果が我の身に降りかかる災厄であってもやめるということはできないものだ。
政治家と犬は大差ない。
咥えた肉には脂が乗っていると思い込み腐っていてもその臭気にすら気づかない。
深夜の隠密行の終わりにカインが見た物は静まり返ったリューイ公の屋敷であった。
リン・グランデという拠点自体は都城である。
いわゆる西洋式・中国式に見られる城だ。
都城というものは街全体をぐるりと巨大な城壁で囲まれており、攻防はあくまで城主が居住する屋敷から離れた壁面で行われた。
そしてリューイ公の屋敷は城壁の中央に位置する場所に建てられており、ここも簡易的な壁が張り巡らされており、多数の人間が居住していた。
城という字を分解すると「土」と「成」に分けられる。
これらは土を盛ったものが城の原型であるといわれる由縁を示していた。
土を掘って盛り上げたものが土塁であり、掘った部分が堀となり外敵の侵入を防ぐ。
リューイ公の屋敷の堀に水が張ってあるのは、この場所が攻防を予定しておらず、あくまで景観としての意味合いが強い。
ここまでふんだんに水が満ちているのは屋敷の中に川の流れがあるからだ。
籠城戦になれば水は不可欠であるが、この屋敷においては風流に重きを置いた実戦とはかけ離れた部類の者であるとカインは見当をつけていた。
「カインさま。屈んでください。人気はありませんが目立ちますゆえ」
無言のままロックの指示に従う。カインの背にはライエが寄り添うようにピタリと張りついている。彼女の熱い吐息が背に当たりカインは反射的にぶるると震えた。
今回の隠密行動にリースはついてきていない。
(まさかなんでもできそうな彼女がカナヅチとはな)
そもそもが、一度逃げた場所にノコノコ出かけていくのは危険極まりない行為だ。カインひとりであるならば、身分を明かせば状況によっては助かる目算は高いが従者の安全はまた別問題である。カルリエ家の忠臣であるロックはともかく、リースとライエはあくまでただのメイドであって護衛ではない。カルリエの一族であり身分は低からずとも、急場でそれを末端の兵に説明している暇などない。囚われることがあれば、女であることから目を覆いたくなる惨劇が待ち受けていることは目に見えていた。
カインからしてみれば大叔父のリューイ公から預かっている気持ちが強い。
できうる限り危険には晒したくなかった。
それを察したロックはなにがなんでも姉の分まで随行しようとするライエをカインの意を汲み取ってやんわりと説得したのは年の功といえるだろう。
だが、妹のライエはいつものおしとやかな雰囲気を一変させてロックに対し食ってかかった。
「忠儀の前には男も女も関係ありません。私はリューイ公からあるじさまのことを頼まれました。姉がお役に立てないときは私が身を捨ててでもあるじさまの盾となりお役目を果たす所存であります」
わずか十三の小娘にここまで堂々と反論されるとはロックも思っていなかっただろう。
その事実を取ってみれば若い血気盛んな男なら激高しそうなものであるが、ロックは実父に似て実に泰然としていた。
「なるほど。これは私が思い違いをしておりました。ここはライエ殿の力を是非ともお借りしたい。カインさまのためにご同道願えますかな」
――この青年、得難い人材である。
二十二歳と年齢も若い。かといって覇気がないわけではない。ロックは言葉少ないが、内に秘めた熱いものを確かに持っているのだ。
カインは一本気なゴライアスやジェフと違うロックの沈着冷静さに対して密かに舌なめずりをする。
(よし、今回の件でロックの様子を見て、マジでこの先も使えそうなら引っ張ろう。今は気が利いてフットワークが軽いやつが必要なんだ)
ロックの身元は今回の件が終れば念のために洗い直さなければならないだろうが、なんの得にもならないカインを助けようとするだけでも信頼に値する。
自分が前面に出ることなく恐れながらと屋敷に訴え出れば実家と身の安全の保障はできたはずだ。
「カインさま。私が屋敷の旧知の仲の者を掻き口説いて注意を引きつけている間になんとか水路から中へお入りください。屋敷の中にさえ入ってしまえば、あとはなんとかなりますゆえ」
「わかった」
ロックはそれだけいうと素早く影へと溶け込むように姿を消した。頼りになるロックが消えたことで寂しくなるが弱音を吐いている暇はない。こうしている間にもカインを探す手の者が都城の中を駆け回っているだろう。
「いくぞ。ライエ、ついてこい」
「はい。あるじさま、どこまでもついてゆきます」
カインは衣服を脱ぎ捨てると猿股一丁になった。着衣のまま泳ぐというのはよほどの水練達者でも危険である。
「よし、ライエ。準備は――!」
「はい、いつでもOKです」
カインの拙い記憶によればかつての古い時代の欧米のようにライエの水着は身体の線が出ないフランネル素材のような野暮ったいものであると思い込んでいたのだが、現実は違った。
青のビキニである。
胸と局部のみを覆うそれは夜目でもカインに存在感を強烈に与えて来た。唯一救いなのはライエは未だ成長し切っていない少女の身体なので、それぞれのポイントがあまり際立つほどではないというところか。
(これが姉のリースだったらまずかったかもな。いや、今はどうでもいいことを考えている場合じゃないぞ)
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