第19話「王都法律院」

 一瞬、確実に自分の心の臓が止まったかとアイリーンは錯覚した。


 初めての王都、初めての人ごみ、初めての事故――。


 幼いころから親しい人を何度も見送っていたが、それはすべて老衰による自然死や飢餓による自然死であり、実際に死を実感させる血腥い事柄を目撃したことはなかった。


 つい、一瞬前まで得意げに王都のことを話していた、まるで自分の弟のように思えていた主人が、重たげな車輪に轢かれて細かな肉片になっているであろう事実は全力で脳が受け入れることを拒否していたのだ。


 傍らに立つジェフの身体が火のように熱くなっている。アイリーンは野山の狼が噛み合いの際に出す強烈な獣臭をジェフから嗅ぎ取っていた。


 無理もない。主人を守れなかったジェフは護衛役として失格だろう。同じくアイリーンもカルリエ家の御曹司であるカインを失ってなんの面目があって生きて村に戻れるだろうか。


 懐に忍ばせた刃に指をかけ自分の喉元を突くイメージを思い浮かべる。


 そしてすぐさま我に返った。


 今ここで自分がすることは小気味よく自害することではなく、せめてカインの身体の一部なり王都の屋敷に連れ帰って本来の領主から裁きを受けることだ。


「待った! 早まるな!」


 濛々と立ち昇った砂塵の中から元気そうなカインの声が上がった。ジェフが雄叫びを上げながら道路の中央に突っ込んでゆく。アイリーンも遅れずに続いた。


 道路の中央部――。


 積み荷を満載した馬車の走り去ったあとに妙な砂の池ができていた。


 もくもくもく、と。


 突如として固い舗装路の中央にできた砂の中から黒猫を抱いたカインが現れた。


「いやー、危なかったな。咄嗟の判断とはいえギリギリ間に合った」


 砂塗れになったカインは黒猫を抱きかかえながら、なんら問題がなかったかのように笑っていた。


「ん? コイツは錬金術だ。しかし助かってよかったな。命冥加だぞ、ニャン公め」


「フギーッ」


 黒猫はカインの顔面をバリバリと引っ掻くと、ぴょんと地面に飛び降り、振り返りもせずに雑踏の中へと消えていった。


「王都の猫は情が薄い――うわっと!」

「坊ちゃま坊ちゃま! お怪我は、お怪我はねぇだかっ!」


「ちょ――ジェフ――苦し」


 ジェフはカインを絞め殺しそうな勢いでぎゅうぎゅうと抱きしめ着実にその生命を縮めつつある。


 出遅れたアイリーンは絞殺されそうな感じの主人に向かって息を整えて訊ねた。


「カインさま。もしかして、あの黒猫を助けるために飛び出しなさったのですか」


「あ――ああ、そうだよっ。ジェフ、おまえもいい加減に離れろっ」


 罪もない黒猫を助けたことは倫理的には正しい。

 おそらくは、アイリーンが思う以上にカインという少年は心優しい少年なのだろう。


 だが、貧農に生まれ命の価値が王都とは比べ物にならないくらい安いカルリエの地で育ったアイリーンにしてみればそれは理解の及ばない行為だった。


 世に生きる獣はすべて家畜であり愛玩動物という概念がない彼女からしてみれば、カインの行動の意味は読み取ることができず、ただ、ひたすら悲しかった。


 アイリーンはわずかな日にちであるが、少年がそれこそ領主ですら見捨てたカルリエの土地を救おうと必死に頑張っている姿を見続け、そこに情が生まれかけていた。


 理屈ではなくカインが傷つき死んでしまう行為自体がアイリーンを激しく恐怖させた。


「おまえ、泣いているのか」


「こ、このようなことは、二度としないでくださいませっ」


「い、いや、ホラ、怪我はなかったから。大丈夫だからさ。そら、こんなところで泣くなってば」


 ぐいと腕を引っ張られて反射的に嫌々をしてしまう。アイリーンは両手で顔を覆いながら、自分でもこの程度のことで泣くことが恥ずかしく涙を止めたいと思うのであるが、上手く従ってくれない自分の器官に苛立ちすら覚えはじめていた。


「わ、悪かった。とにかく、一旦ここを離れよう。ジェフ。おまえもボヤボヤしてないでとっととアイリーンを連れてゆけ」






 カインはジェフにアイリーンを担がせて路上から物静かなカフェへと運ばせた。


 ここは上流階級御用達の店であり一見は入って来ない。


 店の一番奥の人目につかない席で熱い紅茶を飲んだことでホッとしたのか、アイリーンはようやく落ち着いておとなしくなった。


「すみません、カインさま。あのように取り乱してしまって」


「いや、私も考えなしの行動を取ってしまった。以後、自重することにしよう」


 久方ぶりの王都の茶葉はカルリエ産のものより苦みが少なく、カインはわずかに物足りなさを感じたが特になにもいうことなく黙々と胃の腑に落とし入れた。


「ところでカインさま。先ほどのお話の続きになりますが、まだ腑に落ちないことがひとつあるのですが」


「なんでも聞け」


「王都の商人たちにカルリエのため資金を出させるとおっしゃられていましたよね。それと、これから向かう場所になにか関係があるのでしょうか」


「――もったいぶって悪かったが、特別なことをするわけじゃない。王都の商人たちと交渉する前に、とりあえず法律院のお偉方にわたりをつけておきたくてね」


「わたり、ですか?」


「私が夜っぴて書類を書き上げたのは、法律院に減税の申告書を受け取らせるためさ」


「げんぜい……?」


 アイリーンはカインの言葉をオウム返しにすると小首を傾げた。


(実にキュートだが。たぶんまったく理解してないな)


「商人たちにただ金を出せといっても出すもんじゃない。それが領民の食糧支援になる義行であってもだ。そもそもがロムレスの商人は他人のために出すのは舌でも惜しいという連中ばかりだからな。だから、まずは私が王国の法律に基づいて、彼ら王都の商工ギルドがカルリエ領に寄付という形を取った場合、当然の権利として王国に収める税金を少なくしてもらう手続きの前準備くらいはキッチリしておかないと、まずは交渉にもならないということだ。なにせカルリエ家の年貢は十年先までカタに取られているからな」


「カインさま、もうひとつお訊ねしてもよろしいでしょうか」

「なんだ」


「王都の商人たちが資金をカインさまのために融通してくれたとしても、それはそのう、商人たちのやることはよくわかりませんが、なにがしかの手数料や時間はかかるのでしょう? 多大な寄付という形でカルリエに援助を行ったとしても、減税額が同額かそれ以下では、決して首を縦に振らないのではないでしょうか」


「それに関しても、とりあえず私にひとつふたつ案がないわけではない。さて、茶も飲み終わったところだ。王都の日は案外短いぞ。的確に無駄なく動くとしよう」


 カインはアイリーンが精神的に落ち着いたと見ると、店を出て法律院に向かった。





 法律院はロムレス王国におけるあらゆる法律を取り扱っている大元締めであり、王都屈指の歴史を持つ建造物で知られている。


「カインさま、ここにおられる方々はみな法律院にご用のある人たちなのでしょうか」


「ただの観光客だ」


 法律院は同時に王都における観光地の定番であった。

 中に当然ながら関係者以外立ち入ることは禁じられている。 


 だが、異常なまでに金をかけた石造りの外観は伝説の建築家チュルチュル・コンドルが設計した他を圧する建築美にあふれており、いわゆる地方からのおのぼりさんがこの場所を観光から外すことはあり得ないほどメジャーであった。


 貴族であるカインはアイリーンとジェフを連れて難なく中に入ると、所定の手続きを済ませて、いわゆる審議官との面談に臨んだ。


「なにか、聞きたそうだな」


 長椅子に座って黙りこくっているとアイリーンが横合いからチラチラと見て来るのでカインは仕方なしに聞いた。


「その、わたしもついて来てよかったのでしょうか?」

「んんん」


(まあ、別にいてもいなくてもおれひとりがいれば充分に事足りるが)


 ジェフは腕組みをして大きな鼻提灯を膨らませている。この男、腕は立つが野良着同然の姿なのでどうにも格好がつかない。


 それに対してアイリーンは姿こそお仕着せを着たメイドであるが農民階級出身とは思えないほど肌が白く、顔も小作りで繊細さを好む貴族階級からしてみれば好ましいお供であった。


「ま、気にするな。お役人というのはどうせ型通りのことしか喋らないからな。それと暇だから、なにか知りたければ遠慮なく聞け。どうせジェフはこの体たらくだ」


 カインが呆れたようにいうとアイリーンは高いびきをかくジェフを見てころころと笑った。


「ジェフさまは夜通し寝ずに馬を駆けさせたのですから。疲れているのですよ。あまり叱らないであげてくださいませ」


「叱りはしないよ。私たちの番になったら尻を叩いてでも叩き起こすさ。いや、放っておいたほうがいいのかな」


「もう」


 砕けた感じで話しているとカインはアイリーンとの距離が妙に縮まったような気がして、ちょっとうれしくなった。


「それではお言葉に甘えてカインさまにお聞きしますが。この法律院には商人たちがわたしたちに資金を融通してくれたときのために、わざわざカインさまが直々に税を減らすよう便宜を図る書類のようなものを提出に来たということで合っているのでしょうか? そのような些事は商人どもにやらせておけばよいのでは?」


「残念ながら法律院は貴族が作った貴族のためのものでね。いくら王都の商工ギルドの力が強くとも平民が単体で法に則って書面を提出されても、よくて数か月引き延ばし、悪ければ引っ張って引っ張って却下という可能性のほうが高い」


「そうなのですか……」


「それに今日は実際に書類を提出するわけじゃない。いうなれば、まあ、根回しだな。実際に審査をする審議官と事前に会って、これこれこういう書類を提出しますがよろしくお願いいたしますね、とひとこと断っておくだけだ。カルリエ家は特に法律院と揉めた過去もないから十中八九問題はないだろうが」


「そうですか。わたしごときはこのような些末事は家臣に行わせればいいと単純に思っていましたが、カルリエ家の次期当主であられるカインさま直々に頼まれれば役人風情も嫌とはいえないでしょうしね。さすがはカインさまです」


 アイリーンは熱が籠ってとろんとした瞳でジッとカインを見つめて来る。


(……よく考えれば屋敷の者に行かせればよかったか)


 失敗は絶対にできないなと思うカインであった。


「あれ?」

「どうした」


 カインはアイリーンが向けた視線の先に黒っぽいものが蠢いているのを見つけ首を捻った。


 長い廊下の端っこにチョンとカギ尻尾が突き出されふわふわと動いている。


 猫だ。


「なんだ。さっき助けてやったにゃーんじゃないか。それにしてもアイリーンは目がいいな」


「カインさま、わたしは目だけは自信があるのです」


 えっへんとばかりにアイリーンは口をへの字にして胸を張る。


「黒猫め。勝手に入って来たのか。おい、こんなところにいると、怖い役人に皮を剥ぎ取られてしまうぞ」


 ちっち、とカインが舌を鳴らして呼びかけるが、黒猫は姿だけを見せると決して近寄って来ずに廊下の端で身体を半分だけだしてこっちを窺っている。


「カインさま、きっとあの猫はお礼をいいたくてやって来たのですが恥ずかしくなって隠れているに相違ありません」


「どんなおとぎ話の世界だよ」


 とはいえここはF世界。魔術やモンスターが当然のように闊歩している。アイリーンがいうように人間以上に繊細な精神を備えている種族がいたとしてもなんら不思議はない。


「お……どこ行った」


 カインが物思いに耽っていると、黒猫はいつの間にか廊下から姿を消していた。


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