第2話「奴隷コボルト」
――どれだけの時間が経ったのだろうか。
「若さま。まぁーたこんなところでお昼寝とは太平楽でイイもんですな」
「ゼンか。私になにか用か」
ハフハフという熱い呼気が耳元で煩い。
カインが寝転んだ状態でうっすら片目を開けると、そこにはコボルト族の奴隷であるゼンという名の男が目をくりくりさせながら己の顔を覗き込んでいた。
「おめざの白湯ですぜ」
受け取った筒から生ぬるい湯を喉を鳴らして飲んだ。
「あー」
しばしボーっとする。
空は雲ひとつなく青空が広がっていた。
「しっかりしてくだせぇよ若さま。これじゃあ若いうちに脳がすたれちまう」
「悪い。あんまりのどかなもので、つい、な」
「ついじゃありませんよ」
コボルト族は犬の顔を持つこの世界独特の亜人である。
ゼンはウェルシュテリアそっくりの容貌で、カインが王都の商会で奴隷として売りに出されていたのを戯れで購入した。
安値で購入した奴隷であったが、ゼンは忠実優良にして細かな点に気がつく側仕えとしては抜群の人材だった。
「あっしが若さまくらいのときは額に汗して学業と労働に精出してたもんですぜ」
――ただひとつ、口うるさいことを除けば。
元は地方の商人であったゼンは相場の投機で失敗して大借金をこさえて、身代を売るしかなかったが、叩き上げの商人だけあってはしこく知恵があった。
年齢は三十二。
見た目ではわかりにくいがカインは代わりが見つかれば奴隷から解放してやろうと思っていたが、ついにズルズルと二年近くも経ってしまっていた。
「若さまの気持ちはわからんでもないですがね。なんせ、あの偉大なお爺さまを亡くして、まだ十日と経っちゃあいやせんしね」
「ん……」
ゼンがいうのはカインの祖父であり、一代で頭角を現しカルリエ領を手にして伯爵にまで一気に駆け登ったレオポルドのことであった。
(ぶっちゃけ、それほど落ち込んじゃいないんだよなぁ。あんま記憶もないし)
カインが故郷のカルリエ領で過ごしたのは三歳の時までで、あとは遊学という理由でほぼ王都で過ごしたのだ。
祖父であるレオポルドに関していえば、この世界の封建的貴族主義を具現化させたそのものというべきか――。
(正直、思い入れはない。だが)
このようにカインに仕えているだけの間接的関係しかないゼンが惜しむほどに偉大な人物であったのは間違いなかった。
(おれのモラトリアムはどうなるのか。ま、オヤジがいるから当分平気だろう)
カインは未だ十歳だ。
精神こそオッサンであった時代の三十男が生きているとはいえ、祖父レオポルドの衣鉢を継いでカルリエの領地を見るのは父であるニコラ以外にありえない。
「まぁまぁ、気にしな気にしない。爺さんは爺さん。私は私だ。このままいつものようにのんべんだらりとゆこうじゃないか」
「そんなのんきな……」
カルリエの父ニコラが王都を去り田舎に戻って領地の面倒を見る。自分はそのまま。この構図は変わらないし変わってはいけないのだ。
――だが、カルリエの予想は翌日裏切られることとなる。
父ニコラが病に倒れたのだ。
病名は糖尿と痛風と高血圧。
日頃の美食と深夜におよぶ宴会が堪えたのだろう。
「父上」
屋敷に担ぎ込まれたニコラを見たときカインは目を点にせざるをえなかった。
(これじゃ浜辺に打ち上げられたアザラシだ)
「お……おお、カインよ。もう少し……そばに寄るのだ」
「なんとおいたわしい、父上」
伏しているので三重顎がいつもよりデプンと見える。
傍らには母が寄り添って神妙な顔をしている。
多数のメイドや執事に付き添われて医者が往診に来たが、首を横に振るだけだった。
面会は短かった。
薬が効いたのかニコラは深い眠りに落ちて病室はしんと静まり返る。
カインは病室を出ると老齢の医者にそっとニコラの病状を尋ねた。
「で、どうなのですか。先生」
「不養生すぎますな。すぐにどうこうというわけでもないのですが、あのお身体ではご領地に戻って民を見ることは命を縮めるだけでしょう」
サーッとカインの顔が青白くなる。
(マジかよ。おれのお気楽極楽若隠居生活はどうなるんだ……)
「まあ、お気を落とさずに。まずは食事療法から行いましょう」
わずか十歳の少年がよろよろと今にも倒れそうになるのを見て医者は同情の念を抑えることができず、そっと肩に手を置いてくる。
(この歳でいきなり老人介護かよ)
頭を抱えて悶絶する。
(って、よく考えたら今のおれは貴族だし、そんな心配する必要もなかったか)
「父上、今はなにもお考えにならずご自愛ください。あとのことは私に任せてください」
カインはとりあえず当たり障りのないことをいってその場を繕った。
実際問題、貴族の親子関係はよほど親側に子に対してかかわろうとする意識がなければ希薄なものだ。
現に、カインは乳母の乳で育ったし、よほど屋敷の執事やメイドのほうが顔を合わせているだけあって家族という気持ちはある。
(……い、いけるか?)
思惑はともかくニコラは病床でニッコリと微笑んだのでカインは自分の言葉の選択が間違いではなかったと確信し、ホッと心中で胸を撫で下ろした。
日時はするすると過ぎ去ってゆく。
カインは屋敷に両親がいることが気詰まりであり、それまでは三日に一度程度であった市場の巡回を毎日行うようになった。
「カルリエの坊ちゃま。リンゴいるかい」
「あらまあ坊ちゃま。お菓子はいかがかしら」
「いい魚が入ったんで。あとでお屋敷に届けますよ」
ゼンを引き攣れ商店街を練り歩く。
屋敷でまったり過ごすのも好きであるが、こうして王都の商店街を散策するのもカインの楽しみのひとつであった。
なにせこの十歳の少年は歴とした大貴族の家柄ながら奢ったところはまるでなく、そこいらの河岸の兄貴でもポンと肩を叩いて「調子はどうだい」といく具合だ。
布地の上等な貴族服を着るお人形のようなかわいらしい少年は王都でも中央に位置する、いわゆる「新市街」でも有名であった。
もちろんマスコットキャラ的な存在だ。
「しっかし若さまも変わっていますね。同年代のお誘いはお断りになるのに」
「貴族同士のつきあいはいろいろ面倒で気詰まりなんだよ」
(それにストリートはなんといっても楽しいからな)
カインは幼少から屋敷を抜け出して市井に出ることを好んでいたのは、このロムレスという異世界をもっとも強く感じられるのが、もっとも人通りが多い市場であることを知ったからだった。
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