二つの雨

佐島 紡

二つの雨

 男は、独り立っていた。

大雨の降る中、傘も差さずに黙って立ち尽くしているそのスーツ姿は、何かあったのだろうかと心配されるようなものであったが、周りに人の姿はなく、それゆえに肩を濡らす男の姿はより際立って異質な雰囲気を醸し出していた。

 黙って下を向く男の視線の先には、壊れて、潰され、かろうじてビニール傘であっただろうと認識できる「もの」と、その持ち主であろう女性の横たわる姿があった。女性は、どこから出ているかも分からないほどの出血で、すでに絶命していることは誰の目にも明らかだった。

皮肉なのは、雨で広がる紅色が、儚く、哀しく、そして美しかったことだろう。有名な画家が描いたような悲愴な光景は、まるで時間が止まっているように感じさせるものだったが、際限なく振り続ける雨がそうではないことを主張し続ける。だからこそ、立ち尽くす男の姿は、たった数秒で何時間も経っているように感じさせる。

不意に男が動き出した。片膝を地面につけ、その手を女性顔へと伸ばし、頬をなでる。冷たい雨の中で、その頬はほんのわずかな熱を帯びていたが、それも直に消えるだろう。どこに向けているのかも分からない虚ろな目を覗き込んで、男はより悲しそうな顔をして、激しく降る雨の音に掻き消されてしまいそうな声で呟く。

「待ってろよ…必ず俺も行くから。でも、その前に……」

男は、女の体をぎゅっと抱きしめた。ずぶ濡れだったスーツが、じんわりと、赤に染まっていく。

雨が止む気配は、まだ無かった。



「殺害予告、ねぇ……」

頬をかいて俺はつぶやく。署内では、真夏でもコートをきているその姿は正に警部のようだと言われてるらしいが、実際はいちいち服を選ぶのがめんどくさいからそうしているだけであることは秘密である。

「んなもん今更騒ぐほどのことか?今までだってたくさん来てたんだろ?」

「……警察という組織に属している人のそのような発言はいかがなものかと思いますよ」

横には、警官の制服を着て、小脇にクリップボードを抱えた、あきれ顔の青年がいた。猫背の俺と比べて、背筋を伸ばし髪型も整えている青年は、俺と正反対の性格であろうことが読み取れる。

「確かに被害者はアイドルですし、殺害予告を送られてきたことは何度かあるそうです。しかし、最近連日送られてきた予告は、いつもとは違う感じがする、と思われて相談に来られたんですよ。現に今日こんなことが起こってますしね」

そう言って警官は視線を前に戻す。俺も気だるそうにそちらを向けると、そこには部屋中の至る所にある落書きをするために使ったと思われるペンキ缶が横倒しにしてあり、周囲の色と違うため嫌でも目に入る真っ白な手紙が、他にあったものを押しのけて机の上に置いてあった。

俺は慣れた手付きで手袋をつけると、その手紙を手に取り、中の紙に目を通す。その紙には、新聞の切り抜きが複数張り付けられていた。

「『二十五日のライブを中止しろ。さもないと命の保証はない』ねぇ…ありきたりな脅迫文だな。もう少し面白みあるモンにしてほしいね」

「不謹慎にもほどがありますよ、その態度でどうして警部になれたのですか」

「直接言っちゃうんだそれ。まぁ別にいいけどさ。これ一回鑑識まわした?」

「既に調べましたが、指紋等は何も発見されなかったようです。切り抜きに使われた新聞に関しては少し時間がかかるとのことです」

警官はクリップボードにまとめられた紙をパラパラと捲りながら続ける。

「被害者が最後にこの部屋を出てから再び戻るまでの時間は通行人が少なく、容疑者は明日のイベントのディレクター、アシスタントディレクター、そしてプロデューサーの3名に絞られています」

「なるほどなるほど。で、被害者はどこにいんの?」

その声は俺の者ではなく、俺の背後から発せられたものだった。警官が驚いてそちらを向くと、そこには俺と同じくらいの年齢に見える、短髪でにやけた表情の男と、茶色のベレー帽被ったを十六、七くらいの元気そうな女の子がいた。

「誰ですかあなた、入り口にちゃんと規制敷いてましたよね、出て行ってください」

「あーいいよいいよ、こいつら探偵だから。呼んでないけど」

突然乱入した男達をつまみ出す勢いの警官を止めに入る。怪訝な顔を浮かべる警官に、めんどくさいがしょうがないから説明してやる。

「こいつら最近現場に突然現れることで署内でも有名になってたんだけどよ、現れるごとに事件解決全部解決してるっぽいのよ。実際こいつらに現場であったことがあるやつからは信頼を勝ち取っているらしいしいんじゃね」

「アレくだらない噂じゃなかったんですか……じゃなくて、だとしても一般人を入れるのは……」

そう言って警官がもう一度男たちを目に向けると、探偵の男はさきほどの手紙を眺めて、ベレー帽の女は背伸びをして、それを横から覗き込んでいた。

「警部!?何簡単に現場の物を渡してるんですか!?」

「ん?まぁダイジョブだろ」

「良いわけないでしょう!」

憤慨する警官を適当にいなしながら、俺は探偵のほうを向く。

「どうだ、なんか手掛かりになるようなことはあったか?」

一体何が面白いのか全く分からないが、にやけた表情を少しも変えずに手紙を眺めていた探偵は俺の言葉を聞くと、懐からたばこを取り出してくわえる……ような仕草でココアシガレットを取り出して口にくわえる。本人曰く、本当はかっこいいからタバコを吸いたいらしいが、実際に吸うとむせてしまうらしい。

シガレットくわえるくらいならなんもくわえねぇほうがいんじゃねえかと思っていると、探偵はもう用済みだと言うように手紙を渡す。

「ん、まあ読み取れるようなことは大体わかったよ。それで、この手紙が送られた被害者はどこにいんの?」

いい年をしたおっさんがフラットに話しかける姿は、はたから見ると怪しいように見えるが、慣れてしまった今、正直同年代のこいつとは親しみやすいまである。

「あーそれならこいつが知ってるから同行させてやるよ。おい、連れてってやれ」

「……え!?僕が連れて行くんですか!?」

心底嫌そうな表情を浮かべて心底嫌そうに警官は言う。この様子だと俺が連れていく流れになりそうだが、それはめんどくさいので、ここは地位を利用させてもらおう。

「おう、お前だよお前。この事件に関しては俺よりもお前のほうが詳しいだろ。俺は容疑者のほうを調べとくからさ。ここは俺の顔を立てて頼むよ、な?」

「ぐ……わ、分かりました。ではお二人とも、着いてきてください」

こういう真面目なやつに対して地位を利用するのは楽だ。なんてことを考えている俺は社会的に良い性格を持っているとはお世辞にも言えないが、世間の目より自分の楽だ。

警官に続いて二人が部屋を出て行ったのを見送ると、懐から本物のたばこを取り出して、容疑者の調査に向かう。

「さて、めんどくさいけどやるか」



「はぁ……マジめんどい。なんでこの超かわいいあたしがこんな目に合うのよ」

余りの苛立ちに、スマホをいじりながら一人呟く。

正直家で寝ておきたかったのに、明日のライブのために頑張ってリハーサルで来たってのに、ちょっと楽屋を離れた隙に荒らされるなんて考えてもなかった。この楽屋もまぁまぁの広さはあるけど、さっきの楽屋に比べると少し狭いのにも、ドライヤーの質がちょっと落ちてるのにも、トイレまでの距離が僅かに伸びたことにも、全部に腹が立つ。

イライラしながら煎餅の個包装を開けると、ドアをノックする音が聞こえた。

本当は煎餅をバリバリと勢いよく音を鳴らしながら間で味わうのが好きなのだが、アイドルの私には世間へのイメージというものがある。しかし、開けた煎餅を捨てるのは煎餅好きとして忍びないので、個包装に入れたままバッグの中のレジ袋に素早く入れる。

「はい、どうぞ~」

あたしは取り繕った明るく高い声を出す。自分でも気持ち悪いと思っているのだが、世間様はこの声がお気に入りらしい。何がいいんだか、とか心の中で思っていると、ガチャリとドアが開く。

「失礼します」

そう言って入ってきた警官は、シュッとした眉毛。キリっとした目つき。筋の通った鼻。引き締まった口元。おまけに高身長で落ち着いた雰囲気の、完全にあたしの好みの外見だった。ドキっとしながらも、落ち着いて立ち上がって応対する。職業柄、演技には慣れている。

「あ、警察の方ですね。どうしました?」

いつもとよりもなるべく大人しい雰囲気の声を出す。こういう落ち着いた男性は、同じく大人しい、大和撫子のような女の子がタイプな印象がある。

「警部に言われて探偵の方をお連れしました。今回の事件についての事情をお話ししていただけませんか」

「あ、はい、分かりました。私が知っている範囲のことはすべて答えます」

正直説明なんてくそめんどくさいし、どう見てもそのわきに抱えてるクリップボードの紙に大体書いてあるだろうが、と思いはしたが、確かに最初別の警官に聞かれたときは軽くしか聞かれなかったし、あたしが被害者なわけだし、なによりここで断るようなことはあたしのキャラに関わる。

そういうわけで質問には応じるつもりだが、一つ問題がある。

「それで、その探偵の方はどちらに?」

「ええ、こちらに……あれ、いない?」

うなづいて警官が後ろを向くが、探偵は後ろにいなかったようで、廊下の左右をキョロキョロしている。

「すいません、あの人たちどこかに……あ」

申し訳なさそうな顔をした警官だったが、あたしのほうを見た瞬間、その顔がポカンとしたものに変わる。いや、正確に言うとその目線はあたしの後ろのほうを見ていた。その視線に合わせてあたしもそちらのほうを向く。

「扇子にコーラ、これは筆箱か?最近の女の子ってこんなに物入れてるもんなの?」

「いやぁ、私はそこまで入れてませんけどね。あ、これ最近人気の化粧水ですね。これ結構高いんですよ。先生、買ってくれません?」

「やだよ俺金は大体ゲームに使ってっから」

そこには、あたしの鞄の中を覗く中年のおっさんと少女がいた。

「「ちょ、ちょっと!!何やってるんですか!?」」

あたしと警官が同時に叫んで駆け寄る。警官はカバンと二人の間に割って入り、あたしは鞄をひったくるような勢いで鞄を取り返し、中身を確認する。

「何やってるんですかあなたたちは!?というかいつの間に部屋の中に入ったんですか!?」

警官が二人に詰め寄る。中年男はヘラヘラと笑って気にも留めず、少女のほうはあわあわという擬音がぴったり当てはまるような慌て方をしている。

「あわわ……すみませんすみません!」

「別にいーじゃんかよ、覗いてただけだろ?問題ねーじゃん」

「見ず知らずの男性がアイドルの鞄を覗いているなんて問題にしか見えませんよ!」

ギャーギャーと騒いでいる三人を横目に鞄の中を調べる。見たところは特に何の以上もないようだが……大丈夫だろうか。それでも本当なら胸ぐらを掴みたいところだ。

「大丈夫ですよ刑事さん、特にと何かあったような様子も見られませんし、許してあげてください」

ニコリと作り笑顔でそう告げる。その言葉を受けて警官は二人と少し距離を置くが、以前は睨みは利かせたままだ。まぁ当然だけど。

「本当に申し訳なかったです……」

「いやーごめんごめん、別にそういうつもりはなかったんだけどねー」

シュンとした様子の少女に比べて、失礼という言葉がこれ以上に似合う人がいないような態度の男の態度にはイライラするが、このくらいでキレていてはアイドルなんて務まらない。

「……今後もこのような行動を続けているとそのうち捕まりますよ、というより私が捕まえますよ」

冗談ではない、もはや殺意を孕んでいるような目つきで睨んだままの警官だが、しかし探偵の方は何処までもふざけたようにヘラヘラとしたまま続ける。

「まーまー、俺を捕まえるかどうかの話はさておき、とりあえず今はこいつだろ?」

そういうと探偵は警官に向かって何かをほうり投げる。受け取った警官の手のひらを横から覗くと、そこにはマイクのようなものがついた小型の電子機器があった。

「盗聴器……」

「おじょーちゃんの鞄の外ポケット、使ってないのはいいがたまには気にしたほうがいいんじゃないか?上から覗くだけで丸見えだったぜ」

そう言って探偵はタバコをくわえる。いや、よく見るとあれはタバコではない?まぁなんでもいいけれど。

「ていうか警察とかプロデューサーも杜撰じゃね?鞄はともかくさ、他にももっと調べる場所あんだろ。なぁ?」

そう言って探偵はもう一人の女の子のほうを向く。言われて見てみると、女の子はいつの間にか部屋の隅の机の付近で何かをしていたようだった。探偵の声に反応して女の子が振り向く。

「悪口のようなことはあまり言いたくないですが、これに関してはひどいの一言ですね。小型ですが二台、さっきの部屋にも一台ありましたよ」

女の子は手のひらをこちらに見せる。その上にはさっきと同じような機械が二つと、小型カメラが一台あった。女の子の口ぶりからすると、さっきの楽屋に盗聴器が、この楽屋にはさらにカメラが仕掛けてあったということだろうか。なるほど、確かに杜撰な管理だ。後で絶対に抗議してやろう。

しかし、警察やP

プロデューサー

も本当に適当に調べてるわけではないだろう。にもかかわらず見つけられなかったということは、警察にも見つけられないほど巧妙に隠してあったものをこの二人見つけたということだろうか。くわえて、実際に盗聴器を見つけた少女は探偵の男のことを先生と呼んでいたからおそらく助手なのだろう。助手ですらそれほどの能力があるということは、この二人は、変人ではあるがちゃんとした腕前はあるということだ。

「おし、んじゃ、事件についていろいろ聞こうか」

仕掛けられていた機械に気づけなかったことに渋い顔をする警官をおちょくるような仕草を取ってから、男はこちら向く。近くでよく見てみると、男がくわえていたものはシガレットだったようだ。

「分かりました。では、一連の手紙が送られてきた時のことからお話しします」

中年のおっさんがシガレットくわえるなんて気持ち悪いなと思いながら、勿論そんなことはおくびにも出さず、私はいたって真剣な顔で事件のあらましについて話し始めた。



「……何やってるんですか、あなたたちは」

アイドルから事情を聞いた後、今度は容疑者三人に話を聞きたいと言い出し始めたので、そこまで案内してやろうと思ったのに、ちゃんとついてきてるか後ろを見てみればこの有り様である。

「んー?何って調査だよー。ねー」

「そうですよー。これも大事なことですよー」

少女のほうは通路の自動販売機の下を、男はビニール手袋をはめてその横のごみ箱に手を突っ込んでいた。

「私には小銭をあさっているようにしか見えないのですが、それは必要な調査ですか?」

さっきの楽屋で警察でも気づけなかった盗聴器を見つけた時は素直に感心し、警察組織内の意識を高める必要があるな、とも考えたものだが、この様子を見ていると偶然見つけただけでしかないようにも見えてくる。

「んーだってこの通路さっき通ったけどさ、この辺のごみ箱ってここくらいしかないじゃん?」

「それはそうですが、見つかりにくいところに盗聴器を仕掛けるような犯人ですよ。そんなところに証拠となるようなものを残すものですか?」

僕がそういうと探偵の男は、まるで「何を言ってるんだこいつ」というような顔をする。

「あのさ、この盗聴器どこにあったと思うよ?ティッシュ箱の中だぜ?あんな持ち上げたら音が鳴ってバレる様な場所に置くなんざ素人すら仕掛けないぜ。俺が思うにこいつはだいぶ適当な奴だ。そうなるとこんなごみ箱の中に捨ててるくらいのことはあり得るんだよ」

スラスラと喋ったのち、探偵はゴミ箱から手を抜いて、その手に握っていた折り畳み傘をこちらに見せつける。折り畳み傘にはべっとりと赤い液体がついていた。おそらく先ほどのペンキだろう。

「ペンキ避けに使ったやつか。あんま役に立たなさそうだけど、まぁもしかしたら何か分かるかもしんねえし、あんたらのほうで調べといて。あ、ついでにトマトジュースでも買っとくか」

興味なさげに放り投げる傘を慌ててキャッチする。一応何かしらの証拠品になるかもしれないと自分で言っているようなものをぞんざいに扱うことに文句の一つでも言ってやりたいところだが、これに関しては自分では気づきようもないような場所から見つけている以上あまり強く言えない。

最近ブームが来ているんだ、というどうでもいい情報を言いながらトマトジュースを飲むおっさんを引き連れて、犯行現場付近を調べている鑑識に傘を渡し、警部から連絡をもらって容疑者がいる部屋へと向かった。

「失礼します。警部、探偵の方をお連れしました」

「おう、お疲れさん」

ノックをして部屋に入ると、中央に大きめの机が置いてあり、そこに向かい合うように警部と若い男が一人座っていた。話を聞くと、ディレクターとプロデューサーとは既に話を終えて、二人とも今回の件で片づけなければいけないことがあるようで先に持ち場に戻ったということであった。

「事件当時、ディレクターは明日のライブについて設備担当者と打ち合わせ、プロデューサーは会社の社長に長電話に付き合わされていたそうだ。どちらも裏が取れているからアリバイ成立だ。んで、このADさんは被害者の部屋に段ボール一個単位の飲み物のコーラを届けに行ったらしい。ちなみにその量のコーラを持って行ったのは被害者の好物で、頼まれてだそうだ。だが、これも偶然同一の目撃者がいて、ペンキをあんなにぶちまけるような時間はなかったらしく、これもアリバイ成立って言えるだろうな」

ハァ、と警部はため息をつく。おそらく手詰まりになったから、ではなくめんどくさいからさっさと解決してくんねぇかな、というため息だろうが。

さて、この常識外れの男はここから何を聞き出すのかな、と思った時であった。

「なるほど、ならもういいかな」

「……え?いいんですか?」

探偵はもう聞き出すことはないと言い出した。これはこれで驚きはしたが、この男ならもう少し常識外れのことをするのではないかと思っていたので、少し拍子抜けをした。被害者の楽屋からここまでずっとくわえていたシガレットを噛み砕くと、踵を返して部屋を出ようとする。

「ここからは少し独自に調査させてくれ。俺自身で調べたいことがある」

「どうもありがとうございました。あ、先生ちょっと早いです!」

そう言って手をひらひらとさせながら部屋を出ていく。少女も、こちらにペコリと一礼をして、部屋を出た探偵の背中を追っていった。

「どうだ?あの二人は?」

バタンという音がした直後、ニヤニヤしながら警部が問いかけてくる。聞きたいであろうセリフは大体わかっている。それを聞いた警部の反応を考えるとあまり気が進まないが、だからと言って嘘をつく必要はない。

「噂通りすごかったですよ、着眼点が。奇行のほうがもっとすごかったですけどね。僕はもう御免ですよ」

だろうな、と警部は笑って、椅子を傾かせて天井を眺めながら、煙草に火をつけて一息つく。まるで、俺たちの仕事はもう終わったというような警部を見て、とりあえず僕は、状況を理解できず混乱しているADさんに同情して話しかけるのであった。



いい天気だった。こんな日に朝から行列に並ぶ人たちの人たちの気が知れない。アイドルグッズを求める人、同志たちとあって楽しそうに談笑する人、早くから席に座ってスマホを眺める人、いろんな人がいたが、どれもなってない。こんな天気のいい日には、木陰で寝そべって日向ぼっこでもしとくものだろ。

シガレットをくわえながら、俺は今日のパンフレットに目を通す。どうやら例の被害者は、危険は承知だがファンにがっかりさせたくないとか何とか言って予定通り公演をするらしい。自分の命よりも優先することがあるっていうのは俺にはわからないことじゃないが、ぶっちゃけ頑張るねぇとしか思ってない。

なんてことを考えてたらもうすぐ公演が始まる時間になった。別にアイドルのライブなんて趣味じゃないが、今日は特別やることがある。そのためにも、最後の用意を助手にさせてもらっている。なんて、本当は一人でいる時間が欲しいだけだが。

「先生ー!分かりましたよー!」

会場に続く通路を歩いていると後ろから助手の元気な声が聞こえてきた。一日中元気だな、と思いつつ助手と合流する。

「分かりましたよ、あの人の座席!間違いありません。二階の関係者席、E‐8です」

そう言ってA4サイズくらいの紙を横から差し出す。見ると、頼んだやつとは別の人の席も調べて分かった限り書いてあるようだ。助手だなんだ言っておきながら俺よりも優秀になってきたんじゃないだろうか。

「ふむ、なるほどね。これで全部の準備は整ったかな。でかしたぞ」

助手の頭はわしゃわしゃと撫でる。こんな中年のおっさんが十七の少女の頭をなでるなんて人さまから見れば怪しさ極まりないが、曇りのない純粋な顔でえへへと笑う少女の顔を見ると、そんなことはどうでもよくなる。

「もう時間だ、そろそろ行くぞ」

時計を確認すると、公演は既に開始して5分ほど過ぎていた。いつも通り、懐からココアシガレットを取り出して口にくわえて会場に向かう。

会場は既に熱気に包まれていた。ステージではあのアイドルが、事件のことなど少しも匂わせないような全力のパフォーマンスをしている。会場の人々は、アイドルが右に動けば右に、左に動けば左に傾き、会場全体で一体感が生まれているように感じる。そんな中で、会場に遅れて入る俺たちは浮いていたのかもしれない。そいつは俺たちの接近にすぐに気づいた。

「こんなとこいて、イベント中の仕事はいいのか?ADさんよ」

ADは何があったか分からないというようなポカンとした顔を浮かべるが、その顔には少し汗が滲んでいた。どうしたんですか、とADは言う。

「どうしたも何もないぜ、楽屋横の自販機のごみ箱の中に、内側にペンキがべったりついたペットボトルが結構あったぞ。それに、あのアイドルの楽屋に仕掛けてあった小型の機械、前回の番組であんたが紛失して怒られた物の中にあったそうだな。それに手紙に使っあった新聞の切り抜き、ディレクターに聞いたらあんたの家の住所、よく同じ新聞がとられている住所らしいじゃねぇか。ここまで来るとお話しだったら逆にあんたは白だが、現実はそうはいかないのが面白くないところだよな」

俺は暑いところが嫌いだ。だからいつもならじっくりと犯人を追い込んで焦る様子を楽しみたいところだが、今回は手短に済ませたいため早口で告げる。

それだけで僕を犯人と決めつけるのか、とADは言う。往生際の悪い、面倒だからとどめを刺してやろう。

「なら一番の証拠を見せてやるよ」

そう告げると、俺の後ろから少女が姿を現す。周りの雰囲気に全く合わない少女の姿にADは困惑する。そして、その少女の手に握られているものを見て、男は言った。

「なんなんだ、それは?」

それは、俺の口から出た言葉だった。



信じたくはなかった。でもそうとしか思えなかった。切り抜きに使われた新聞をよく見たことがあったのも、ADさんの姿を見たことがある気がしたのも、先生が三日前からトマトジュースを飲むようになったことも、すべてがその考えに繋がるような状況だった。

「なんなんだ、それは?」

私の手に握られているテイザー銃を見て先生はそう言ったが、その顔は何処かそうなるのことを予想していたかのような、少し微笑んでいるように見える顔をしていた。

「先生……今回の事件の犯人、あなたなんですよね」

声が震える。先生の部屋から勝手にテイザー銃まで持ってきたのだ。それほどまでに自分は確信を得ているのに、もしかしたら、という考えが頭から消えない。

「隠してたんだけどなぁ、それ。一応銃刀法違反になるんだぞ……もしかしたらさ、お前ならわかるんじゃねぇかって思ってたんだよな」

ガリっと今くわえてるシガレットを小気味よく噛み砕き、ステージのほうを向く。ステージ上では、アイドルが汗水流しながら全力で踊り、歌っている。シガレットの先端部分が床に落ちて砕ける。

「でも、それじゃあまだ助手レベルだな。だってよ……」

先生がまた懐に手を突っ込む。新しいシガレットをくわえるかと思ったが、その手にあったのは何らかの機械だった。一瞬だが、それが何か理解するのに時間がかかった。それがまずかった。

「俺は一つも嘘をついてねぇからな。手紙にしても、な」

その機械のボタンが押された瞬間、すさまじい爆発音が鳴った。その直後に何か大きなものが落下する音が会場内に響き渡る。会場内の全員が唖然とする。その音の発生源の土煙が収まると、そこには爆破されボロボロになった装置と、その下から染み出てくる赤い液体が姿を現す。それが何かは、近くに転がっているマイクが物語っていた。

徐々に理解した人々の悲鳴があちこちから上がり、会場の出口へと人々が殺到する。ADさんの騒ぎで逃げ出したようだが、私も先生もそれを追いはしなかった。ハッと我に返り、テイザー銃を握り直す。

「先生、なんのためにこんなことをしたんですか!あの人に何の恨みがあるのですか!」

シガレットを箱ごと取り出した先生は、新しい一本をくわえる。私の問いかけに、やり遂げたような安堵の表情を浮かべる先生の口が言葉を紡ぐ。

「俺の奥さんってさ、もう死んでんだよね。俺が傘を忘れた土砂降りの日に迎えに来るって聞かなくて、そのせいで車にはねられたんだよ。その犯人は捕まってさ、勿論殺したいほど恨んだんだが、捕まったなら何もできねえって、やりきれない感情を押し殺したんだ。そうして生活していた最近、この事件に出くわした。勿論最初は普通に解決するつもりだった」

シガレットの箱を握りつぶし、こめかみ血管が浮き出るほどの怒りを露わにする。思わず背筋がぞくっとして、一歩引きそうになる。

「でもあのアイドルの鞄を見て、俺はすべてを悟った!あの鞄に入っていた扇子は、妻が特注で作ったものでとても気に入ってたものだ!それに妻を引いた犯人も芸能事務所の所属の奴だった!つまりあのアイドルの奴は、俺の妻を殺して、反省するどころか大事な扇子を奪って、あろうことかその罪を他人になすりつけた!」

いつもの態度からは想像をつかないような剣幕で真実を語る。血が出そうなほど固く握りしめた拳からは、先生がどれほどの苦しみを味わってきたかが感じられる。しかし、それでも。

「……分かってんだ。こんなことやっても意味ないってこともな。でも……そうしないと駄目だったんだ。殺意に押しつぶされそうだった。……だから、これがせめてもの罪滅ぼしだ」

いつものようにニッと笑うと、先生は前のめりに倒れる。

「……せ、先生!?」

駆け寄って体を起こし、脈を測る。段々と弱くなる脈を感じて、私は、先生が自分で毒をあおったのだと理解した。

「何をやってるんですか先生!こんなことしても罪滅ぼしになんてならないのは分かってるでしょう!」

「……俺みたいなやつのことをまだ先生と言ってくれるのか。いい子だよ、お前は」

そういうと先生は、テイザー銃を握ると、誰もいない方向に撃つ。まるで、それだけはしなければならないことであるかのように。

「……お前は俺のようにはなるなよ」

最後にそれだけ言うと、先生はゆっくりと目を閉じて、再びその目を開けることはなかった。



 少女は一人立っていた。

砂埃の舞う中、黙って膝をつくその姿は、何かあったのだろうかと心配されるようなものであったが、周りに人の姿はなく、それゆえに涙を流す少女の姿はより際立って異質な雰囲気を醸し出していた。

 黙ってうつむく少女の視線の先には、小型のテイザー銃と、その持ち主であろう男性の横たわる姿があった。男性の体からは、どこからも出血はなかったが、どことなくもうこの世にいないように見えた。

皮肉なのは、無人の広場の真ん中で佇む少女の姿が、儚く、哀しく、そして美しかったことだろう。有名な画家が描いたような悲愴な光景は、まるで時間が止まっているように感じさせるものだったが、舞い落ちる砂埃がそうではないことを主張し続ける。だからこそ、身動き一つしない少女の姿は、たった数秒で何時間も経っているように感じさせる。

不意に少女が動き出した。既に閉じている瞼を見つめ、少女はより悲しそうな顔をして、静まり返った会場の中、消えてしまいそうな声でつぶやく。

「安心してください、私は大丈夫です。でも、私は……」

少女は、男の体をぎゅっと抱きしめた。冷たくなった体が、じんわりと、熱を奪っていく。

雨が、また降りだした。

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