二話 ア・プリオリ


 アリスは急ぎ足でブリュンヒルデの元へと向かっていた。

 片手にはわんぎゃん騒ぐホークを持ち、脇目もふらず帆船に乗り込むと、今度は案内も無く部屋の前まで辿り着く。

 息を吸い込んだ。

「失礼致します」

 扉を開けると、やはりそこには窓際に座るブリュンヒルデの姿があった。

『ブリュンヒルデ……!』

「おや」

 ホークの声に、ブリュンヒルデが振り返る。そしてその姿を見止めた途端、目を細め微笑んだ。

「よくやったね、アリス。でもようやくひとつか……シュヴェルトライテはどうなんだい?」

「申し訳ありません」

「ふうん、まぁいいか。残りも早く見つけてきておくれよ」

 近衛兵がアリスからホークの鳥籠を受け取ろうと近寄る、が、あろうことかアリスはそれを拒否し鳥籠を自分の体の方に引くと「恐れながら!」と僅かに声を張った。

「今後残りのワルキューレを探索する為に、このジークルーネの他ワルキューレを探知する能力は必要不可欠であると判断致します!」

 ブリュンヒルデが、アリスを振り返る。その瞳は細められ口角は微かに上がっている。

「なんだい?」

「……っそして、ジークルーネには意思があり、彼女を従わせることが出来るのは今のところただ一人」

 そこまで言われ悟ったのか、ホークもまた鳥籠で『そうよ! エルピースの言う事しか私は聞かないわよ!』と騒ぎ出す。その様子に近衛兵が思わず剣を構えようとしたが、ブリュンヒルデが掌でそれを制しゆっくりと立ち上がった。

 アリスは僅かに目を細めその様子を見つめる。

 それは笑顔なのに、とても冷たく無感情で何か得体のしれない深い闇のように感じられた。

「忌々しいね、本当に」

 気が付けば、ブリュンヒルデの顔が目の前まで迫っていた。

 その大きな美しい瞳に魅入られ、底の見えない瞳孔に息を呑む。

「僕は君を気に入っているよ。さぁ、何が望みか言ってごらん?」

 顔が離れた。しかしその人差し指がアリスの頬から顎をなぞり、唇に触れる。

 アリスは目を閉じた。そして開き、目の前のブリュンヒルデを至極冷静に見つめ返す。ここで怯むのなら最初からこんな事を願い出たりはしない。

 これが一番効率的で最善の方法だ、そう判断して今自分はここに来た。

 人差し指が離れたと共にアリスは口を開く。

「その名をお借りして人身売買を摘発させて頂きたい。入手の経路、販売の手口、全て調べ上げました」

「……愚かな……」

 ブリュンヒルデは言いながら窓際の席に戻った。それからまた無表情で海を眺め始める。

「人とは愚かだね、どれだけ完璧な決まりを作ろうと必ずそれを掻い潜り己の欲を満たす事に夢中になってしまう」

 言いながら、ブリュンヒルデは近衛兵に視線をやると、まるで自分の手足であるように近衛兵はすぐに羊皮紙とペンをブリュンヒルデに差し出した。

 それにスラスラとサインをする。

「いずれ《救済》の時は来る。それまではこれも詮無いことさ」

 書き終わった羊皮紙を近衛兵がブリュンヒルデの傍にあったサイドテーブルに置く。

「それでも今、その子を助ける事にどれだけの価値があるのかな?」

「エルピースが居れば、ワルキューレの回収にかかる時間を最大半分まで短縮可能です」

「そのためにこの国で最も有力なピエール商会を潰すのかい?」

「それが今の私の任務かと」

「ふふふ、そうかい」

 ブリュンヒルデはその懐から金印を取り出した。王令と同等の価値を成す印章だ。

 それを押せば勅令書は完成である。

 けれどもブリュンヒルデはそれを羊皮紙の上に転がすと急に立ち上がった。

「あの時殺しておけば良かったな」

 ぞくり、再び寒気が走った。その声は重く低く響きともすれば聞き違いかと思う程だった。けれど確かに言った。それは恐らくエルピースの事ではないか?

「君はとても賢い、だったら僕の答えは分かるよね?」

 ブリュンヒルデの手がアリスの首に伸びる。アリスは動けなかった。そしてその首筋に、人差し指がついと触れた刹那。

 棚に置かれていたホークの片翼が急に強く強く輝き出し、その光はやがてホークと同じ鳥の姿を象った。

『……っジーク!』

 片翼の光る鳥が羽ばたく。同時にその光が波紋のように一瞬で部屋を真っ白に染め上げる。

「あぁ、忌々しい……っ」

 その光の中でブリュンヒルデの呟きが聞こえ、そして一瞬にしてその光は消え去った。

 アリスは呆然としていたが、ハっとしてジークを見やる。もう元に戻ったのか翼が先ほどと同じように棚に置かれているだけだ。次にブリュンヒルデに視線を投げる。

 ブリュンヒルデは虚空を見つめていた。けれど直後、サイドテーブルへ駆け寄ると金印を取る。その動きに合わせて近衛兵は朱肉を差し出し、そしてブリュンヒルデは少しだけ強い音を立てて印章を押印する。

「アリス、行くよ」

 そして羊皮紙とホークの鳥籠を手に有無も言わさず部屋を飛び出したので、アリスは慌ててそれに続いた。近衛兵もその後ろからしっかりと着いて来ている。

「ブリュンヒルデ様……?」

「時間が無い、エルピースを助けに行かなければ」

 アリスは目を瞠る。先ほどまでの雰囲気と全く違う柔らかな空気を纏ったブリュンヒルデに困惑すら覚える。

 しかし時間が無いというのはその通りだった。遅れればもう、彼女は誰かの奴隷に成り下がる。そうなればもう、何処にいるかも分からなくなる可能性がある。そう、生死すらも分からなくなる。

「港に我が家の小型船があります、それに乗ってオークション会場へ向かいましょう」

「分かった、ありがとう」

 振り返り微笑んだブリュンヒルデにアリスはやはり眉間に皺を寄せるしかなかった。それはアリスの知るブリュンヒルデではなかったからだ。

 もしかしたらこれが、エルピースの知る本当のブリュンヒルデなのかもしれない。

 アリスは先頭に躍り出た。今は考えている暇は無い、会場に急がなければ。

 こうしてアリスとブリュンヒルデ、ホークと二人の近衛兵を乗せ小型船は丘の下の洞窟へと向ったのである。

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