最終章 航路
一話 それぞれのディアレクティーク
「来たか」
エルピースが連れて来られたのは先ほどの騒動で無残な姿になった温室だった。
硝子は砕け散り、支柱は歪み、エルピースが倒した椰子の木が横に突き出ている。
中に入ると、床一面に硝子の破片が散りばめられ月光にキラキラと輝いている。
そしてその中で、あの十字架の墓標だけが変わらずそこに在った。
「これを見つけたのは三年前だ。法律が変わり、人身売買が禁止され我が商会は窮地に追いやられた……今まで贔屓にしていた貴族どもも一瞬で掌を返し私を蔑んだ、全く貴族などいつの世も醜悪で下劣な生き物だ」
子爵は十字架を見つめていた。
「そんな折、娘がこの丘から飛び降りた。外道の娘と社交界で散々な目に合っていたらしい……早くに妻を亡くして、男手ひとつであの子を育ててきたが……私はあの子の苦しみに気付いてあげられなかった」
エルピースは目を瞠った。
子爵はただ無表情で、その感情は読み取れずエルピースは困惑する。
「この丘で、私はこの十字架に復讐を誓った。その時に偶然、十字架が回る事に気が付いた。天啓だとすぐに分かった。そしてこの地下で、私は莫大な遺産を手に入れたのだ」
子爵は笑っていた。醜く口角を上げ、目を怖いほどに見開いて。
「これは神が与え給うた私への使命なのだ! 地下で見つけた遺産を元に私は商会の再興を遂げ今やこの国で最も権力と財力を持つ商会の長だ、そしてついにまたこうして人身売買を再開してやったのだ。法律など権力と財力の前ではごみ屑のように無力なものさ! 私の娘を殺したあの蛆虫共、奴らも権力に守られたのだから!!」
兵士が十字架を回し、池の水が消え螺旋階段が現れる。
「復讐の為ならどんな犠牲も私は厭わない。この地下は蛆虫共の巣窟だ、また面白いほど掌を返した奴等が馬鹿面を下げてオークションへやって来る」
興奮していた声色が急に落ち着いて、子爵はいつも通り涼しい顔でエルピースを振り返った。
「安心しろ、お前の犠牲は無駄にはしない。いつか奴等に私が復讐する」
そして真っすぐな瞳でエルピースを見つめる。
ぞくり、寒気がした。まるで人間では無いような、取り憑かれたような瞳だった。
それは本当に、今自分が並べた言葉を正義であると信じて疑わない瞳。
そして子爵は螺旋階段へと歩き出す、エルピースも衛兵に引かれ真っ暗な口を開ける螺旋階段を下って行く。
何故急に子爵はあんな事を言い出したのか、あれは真実なのか、それとも作り話なのか。エルピースは階段を下りながら堂々巡りの思考を繰り返す。
けれどこれだけはハッキリしている。
―――復讐、その為に罪のない子ども達を踏みつけにして良い筈が無い。
「アンタは間違ってる」
螺旋階段を下りながら、エルピースはハッキリと言った。
「復讐は免罪符にはならない、貴方は自分の弱さを子ども達に擦り付けているだけ、許されるはずがないよ!」
子爵は振り返らず、暗闇を進んでいく。
「私はね、この暗い階段を降りる度、いつも思うのだ」
ふいに子爵から見当違いの返事が返ってきたことに、エルピースは眉を潜める。
「我々は犠牲の上に立っている。誰もが皆、何かを踏みつけて生きていく。それは真理だ」
前を向いたままの子爵の表情は見えないが、声は淡々と地下に反響する。
「エルピース、君は自分が食べるパンやミルクに罪悪感を抱いたことがあるかい?」
エルピースは黙っていた。険しい表情は更に険しく眉間に皺を刻む。
「私にとって、彼らの犠牲とはそういうものだ」
エルピースは開きかけた口を思い切り噛み締める事で、怒りを堪える。必死で口が開かないよう奥歯が痛むほど噛み締めた。もう何を言っても無駄だ、分かり合えない。そう理解した。
「少し、話をし過ぎたな……」
そしてその子爵の呟きを最後に、再び沈黙が舞い降りた。
やがて牢がある地下室へと辿り着くと、子爵は壁にかかったランタンの内、ひとつのランタンの火を消した。
するとその横の壁が開く。こんな所にも、隠し扉があったのだ。
「この下がオークション会場だ」
しかし、その壁の向こうは自分達三人が入ったらいっぱいになりそうなただの窮屈な小部屋だった。何を言っているのだろうとエルピースは子爵に困惑の視線を向ける。
けれど構わず子爵と衛兵はその中に入ると、そこは急に昼のように明るくなり、扉が閉まる。その扉の前に、大きく古代語が浮かび上がった。触れることの出来ない幻、そして何故か耳にキーンと違和感を覚える。
ここはやはり、古代遺跡なのだ。エルピースは確信する。
古代語は数字だ、その浮かぶ数字は段々と小さい数に変わる。
「さあ、着いたぞ」
扉が開いた。衛兵に縄を引かれ一歩踏み出したエルピースは驚愕する。
そこは余りに巨大な洞窟だった。ジークルーネが眠っていたあの遺跡よりも遥かに高く広い天然の洞窟。エルピースが立っている舞台から扇状に、周囲は壁面に向かって少しずつ上昇している。
そしてその壁いっぱいに、髑髏が、人の骨が、整然と埋め込まれていた。
「………っ!!」
恐怖で身が竦んだ。しかし子爵は涼しい顔をしている。エルピースは眩暈がした。しかし思い出す、確かにあの十字架にあった。
ここは、墓標なのだ。
しかし墓標の筈のそこは見る影もなくただのオークション会場へと成り果てていた。
赤い絨毯、巨大な赤い緞帳に金のタッセル。そしてまるでシャンデリアのように天井から垂れ下がる鍾乳石。斜面にも赤と金の絨毯が引かれ、そこに仮面を付けた貴族たちがひしめくように立っている。その人数にエルピースは驚愕する、それはあの舞踏会に集まっていた人数とほぼ同じだ。そして今なお、斜面の上の方にある横穴から貴族たちがやって来ているのが見える。
皆談笑しながら、オークションが始まるのを今か今かと待っている。その姿は舞踏会に参加していた時と怖いほどに変わらない。
エルピースは吐き気がした。そしてとても悲しくなる。
これが世界、これが貴族の社会、これが国、これが、人。
「皆様ようこそ起こし下さいました! これよりオークションを始めます!」
子爵の声が洞窟に高らかに響いた。すると騒がしかった会場はしんと一度静まり返る。
いくつも置かれたランタンが照らす舞台で、エルピースは貴族たちを見渡した。
顔が見えない、けれど皆一様に醜く笑ってこちらを見ている。
人を人とも思わずに、誰一人自分を助けようとする者も無く、彼らは傍観している。
「今回のオークションはこの《白雪の乙女》でございます。世にも珍しい純白の肌と髪、ルビーがごとき赤き瞳を持ち、さながらお伽話の姫のような美しさにございます」
表情も険しく貴族たちを睨みつけるエルピースだったが、そんな事は気にも止めず、ピエール子爵の高らかな口上がこだました。
「噂で聞いたキルナの娘はどうした」
どこからか低い声が響いた。子爵は動じることなくそれに答える。
「此度は彼女だけでございます」
「何だつまらぬ、幸運の女神だというから来たのに」
今度は甲高い声が響く。
「だが、見たこともない美しさだ」
「そうだ、あんな真っ白な肌に赤い瞳見たことが無い」
「髪も真っ白だ、信じられん」
次々と、会場中から声がする。その言葉を聞いて子爵がニヤリと笑っているのが見えた。
「1万マリー!」
誰かの声が、響いた。
「1万1千!」
「2万!」
次々と声が上がる。それはエルピースに付けられる命の値段だ。
じわじわと競り上がり、子爵はそれを涼しい顔で見つめている。
エルピースは子爵が、皆が競りに夢中になっているのを静観していた。しかし、誰かが「10万!」と叫んだと同時、エルピースは子爵に向かって駈け出した。
「な!?」
全身全霊で子爵に体当たりをした。それからジロリと貴族たちを睨み上げ、「ふざけるな!」と叫ぶ。
「おぉ、活きが良いことだ」
「調教しがいがありそうだ!」
そんな男どもの下衆な声がその場に響く、エルピースは直ぐに兵に取り押さえられたが、それでも叫んだ。
「私は人間だ! 誰の物にもならない! 私は、私は……今まで奴隷になった子達も、みんなあなた達と同じ人間なんだよ!?」
ざわざわと、僅かに会場が騒ぎ出す。こんな奴隷は見たことが無い、何て生意気な、いやそこが良いと方々から好き勝手に言ってくれたものだ。
エルピースの声は届かない。彼らにとって、それはただのショーなのだ。どんなに声を荒げても、どんなに喉が裂けるほど叫んでも、彼らには届かないし彼らは自分を商品としてしか見ない。
エルピースは、ただ自分を愉快そうに見下ろす貴族たちに力が抜ける。
そうか、これが、あの子たちが、シエルやシーザーが感じていた、諦めなのか。
そんなエルピースをよそに、俄かに会場は盛り上がっている。そして再び数人が値を吊り上げようと手を上げた。
その時である。
「1億マリー」
決して張り上げた声ではなかった、ともすれば埋もれてしまう程の大きさだった。
けれどもざわめくどの言葉よりも凛と、会場中に響き渡る。
その声が響いたと同時に、会場中が静まり返った。
「いいや、足りないな」
エルピースの心臓がドクリ、大きく脈打った。
その声のした方を見ることが出来ない。凛とした、澄んだ声。耳に残るその声は、忘れる筈もない大好きな声。
手が震え、声が出せない。
これは夢なんじゃないか、顔を上げた途端に夢になってしまうのではないか。
喜びと不安の狭間で、エルピースの涙腺が熱くなる。
足音が静まり返った洞窟に反響し、その音はエルピースの目の前で止まる。その間、誰もその歩みを邪魔する者はいなかった。
「君はいくら出したって、誰の物にもなりはしないだろう?」
手が触れた。エルピースの顔を優しく包んだその手に導かれるように、上を向く。
頬を伝った涙が地面に落ちる。ポロポロと、何度も。
「エルピース」
そこには確かに、ブリュンヒルデの笑顔があった。
懐かしい声、冷たい手、けれどもとても優しい微笑み。
ぽろぽろと涙を流すエルピースを、ブリュンヒルデは抱きあげた。
「アリス」
そしてその言葉と同時、会場で他の貴族たちと同じように仮面を被っていた一人が見事な跳躍でブリュンヒルデの横へと舞い降りる。
そして仮面を脱ぎ捨てて現れたのは、いつになく真剣な表情のアリスだった。けれどエルピースと目が合うと、いつもの調子でウインクをしてみせる。
それを見たエルピースは、裏切ったんじゃなかったのだと心底ほっとして喜びに涙腺が熱くなる。
「時間が無い、早く」
そしてアリスはブリュンヒルデに促され、子爵とそこに集まった貴族をぐるりと見渡し、その手に何かが書かれた羊皮紙を広げた。
その途端、貴族たちは一同に騒然とする。
そう、貴族ならば分かる。それは正式な王の印章が押されたこの国で最も効力のある勅令書だ。
「これよりブリュンヒルデ様の名の下に、ピエール子爵を断罪する! 罪状は人身売買による人権侵害、及び国家遺産である古代遺跡の隠匿、私有化である! ピエール子爵、並びに関わった者全て同罪と見做す! 関係の無い者は今すぐにここを立ち去れ!」
アリスのその一声で、一斉に座っていた貴族たちが立ち上がり、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。その間にブリュンヒルデはエルピースの手枷を解いてやり、呆然と立ち尽くすエルピースを正面から優しく、けれどもとても強く、抱きしめる。
「エルピース、一人でよく頑張ったね」
「……ヒルデっ……ヒルデ……! 私、ずっと探してたんだよっ!」
涙の匂いが鼻腔をつく。堪えていたものがふつふつと湧き上がる。
懐かしい匂い、世界で一番、安心出来る腕の中。幼い頃から自分を守ってくれた大好きな温もり、ずっとずっと、もう随分と長い間、求めていたもの。
ある日突然、失った大切なもの。
エルピースの瞳に涙が溢れる、そして零れ落ちてしまえば、もう止まらない。しゃくりあげ、次々と涙と嗚咽が溢れ出す。もう二度と失いたくない、もう二度と、離れたりしない。そう思う程に、強く強くブリュンヒルデに縋りついた。
ブリュンヒルデはそんなエルピースを優し気な微笑みで何度も、何度も撫ぜる。落ち着かせるように、安心させるように、優しく丁寧に髪の毛を撫ぜる手に、エルピースは安心感からかそっと目を瞑る。
「ごめんね、エルピー………」
けれどもその手がふいに止まった。
そのことを不思議に思い顔を上げたエルピースは、ブリュンヒルデの表情に言いようのない不安を感じ、眉を潜める。
見上げたその表情は、先ほどまでとは打って変わってどこか気だるげな無表情に変わっていた。
そして見向きもせずにエルピースの体は離される。
「ヒルデ……?」
「ジークルーネめ……」
エルピースの問いかけには答えずに、それだけ呟くとブリュンヒルデはくるり背を向けて振り返りもせずに行ってしまう。その後ろ姿をエルピースが呆然と見つめていると、ブリュンヒルデは横穴の近くで立ち止まり、いつの間にかその両脇に近衛兵を携えこちらを振り返った。
「後は頼んだよ、アリス。それから、これは最後でいい」
その言葉と同時に、近衛兵が持っていた鳥籠から『エルピース!!』とホークが飛び出した。そしていつも通りに嬉しそうにエルピースの頭に乗ると『エルピース、エルピース!』と片翼を羽ばたかせる。
「ホーク、無事だったんだね!」
『無事じゃないわよ! このオカマにブリュンヒルデのとこまで連れてかれてそれで……』
ホークの言葉に隣に居たアリスをエルピースはじとりと睨む。
「何よ、こうして助けに来てやったんだからそれはもういいじゃないの。まぁ、まさかブリュンヒルデ様まで来るとは思わなかったけど……」
アリスは言いながら、冷めた表情でこちらを見下ろすブリュンヒルデを見やった。
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