三話 ア・ポステリオリ


 アリスは未だ無表情でこちらを見下ろすブリュンヒルデにごくり、喉を鳴らす。

 アリスにすらその行動は読めなかった。確かに先刻エルピースを助けたのはブリュンヒルデだ。けれどもう、あの時の優し気な雰囲気から普段アリスが知るいつもの雰囲気へと戻ってしまっている。

 一体あれは何だったのか、あの時ジークルーネが輝いたのならば、あれがワルキューレの力だったのか。

 やはりいくら考えてもアリスに答えは無い。

「アリス!」

 エルピースの声にハっと我に返った。

 いつの間にか子爵の雇った衛兵に囲まれていたようだ。

「ふん、アルセーヌの馬鹿息子が……面倒な事をしてくれたな」

 衛兵の後ろで、子爵が冷たくアリスを睨んでいる。その様子を見てアリスは負けじと鼻で笑ってみせると、「往生際も悪いようですね、豚野郎は」とあからさまに挑発してみせた。

「所詮、お前が独断でやったことだろう? 死んでしまえば分からない」

「やあよ、ここまで来るのに珍しく頭も足も使ったのよ? あんたんとこの下っ端捕らえて尋問までしちゃったし? ここまで来たら意地でも勝つ、それが私の美学よ」

「それが青二才の美学なら、どんな手段を使おうと復讐を果たす、それが私の宿願なのだ。こんな所で邪魔はさせん……お前達!」

「あ~らおっさんがはしゃいじゃって見苦しい~」

 どれだけ雇っていたのか、衛兵がどんどん集まり出す。アリスとエルピースだけでなく、ブリュンヒルデ達も衛兵に囲まれたようだったが、助けに行く余裕はない。

 口では強気に言っているが、これほど圧倒的な人数でこられてはさすがのアリスも本気を出してどうにか出来るかどうかである。

 アリスはその手に数本の細長い針のような物を構える。

 エルピースもまた、ホークを武器に変えアリスと背中合わせに構えた。

「ど、どうしよう……!」

「あんた本当に駄目ね! 適当に逃げてなさい!」

 衛兵達が一斉に襲い掛かった。しかしアリスはそれを鮮やかにいなすと甲冑の隙からその細い針を刺し、正確に相手の手足を仕留め、動きを封じていく。

 エルピースはその踊るような動きに感嘆しつつ自分にも襲い掛かって来た衛兵の凶刃から必死で逃げ続けた。

 しかし、半分も倒さないうちに突如アリスがエルピースに凭れ掛かる。

 驚いてアリスを見やれば、苦しげに息をしているその太ももには血が滲み出していた。

 そして気付く、あの時の傷だと。

 エルピースは理解したと同時、ほぼ反射的に地面をホークで殴りつけていた。

「……何!?」

 地面がエルピースの拳を中心に沈み込む。そしてひび割れたそこから勢い良く海水が噴き出した。

 一挙に足元を埋め尽くすその水に兵士達の足がもつれ一同騒然とする。

 確かにこれで衛兵達に隙を突いていっきに飛びかかられる心配はなくなった、なくなった、が―――

 アリスは真っ青になる。

「浸水する……!!」

 そう、水は溜まっていく。急がなければこの洞窟は水で溢れかえることになる、そうなれば溺死一択しかない。衛兵たちもそれを理解したのかほとんどの兵が慌てて逃げ始める。

 洞窟は大混乱である。

「こら! 逃げるな! 貴様ら!」

 金で雇った兵士である。どんどん浸水していく洞窟を見て金より命を取るのは当然だろう。誰一人残る者は居らず我先にと船の方へ逃げ出していく。

「くそ、役立たずどもが!!」

 子爵は逃げ出そうとする兵士を一人捕まえ剣を奪うと、その兵士の腹をエルピース達の目の前で串刺しにした。

 鈍い声を上げ、衛兵は真っ赤な血を流し倒れる。足元の海水に真っ赤な血が滲みだし、エルピースの頭は真っ白になる。

 けれどそんなエルピースの目をすぐに片手で塞ぐと、アリスは子爵を今までで一番侮蔑を込めた瞳で見据えた。

「お前、俺に殺されたいのか?」

 その声は、誰の声だ。エルピースがそう思う程に、それは怒りを食んだ重く低い声だった。今まで一度も聞いたことがない、いつもふざけたアリスの摯実な声。

 直後エルピースの頭にアリスの上着が被せられ、視界が塞がる。

「……っっアリス!! やめて!!」

 その服を必死で払いエルピースは叫んだ。アリスに人を殺して欲しくない、例えそれが、ピエール子爵であっても。

 アリスは子爵の眼球と喉元の微かに触れる位置に針を突き立てていたが、寸での所で止めていたのか無傷なまま、子爵はへたり込んだ。

「な~んてね、冗談よ」

 そして振り返ったアリスはそう言って笑ってみせると、恐怖で腰が抜けた子爵をてきぱきと縛り上げた。その光景にエルピースは心底嬉しそうな顔をする。

 それから水に浮かぶ倒れた衛兵に歩み寄ると、静かにその両手を合わせた。

「さあ! 私たちも逃げるわよ!!」

 アリスが叫ぶ、その言葉にエルピースはハっとしてブリュンヒルデを探した。

 彼は先ほどと同じ横穴の前に立っていた。無事だったこと、まだ居てくれたことにホッとしつつ、エルピースはブリュンヒルデに駆け寄った。

「ヒルデ! 一緒に逃げよう!」

 エルピースはいつもの調子で言った。

 けれども振り返ったその表情は、無表情なのに、とても冷たく褪めた瞳でこちらを見つめている。それは、エルピースの知らない顔。

 その表情を見た途端、何故かぞくりと寒気が走りエルピースは困惑する。

 目の前に居るのはブリュンヒルデの筈なのに、何故だろう、まるで別人を眺めているようで不安になる。

 見つめ合ったまま、気が付けばエルピースは動けなくなっていた。ただ本当に映しているだけだと言うような、感情の無い瞳に囚われる。

「忌々しいね、本当に……その容姿……まるで」

 そしてそう呟いたブリュンヒルデの手が、エルピースの首筋に向かって伸びて来る。

 その指先が、エルピースの白い肌に触れ、その爪が、柔らかな皮膚に微かに食い込んだ。

「ヒルデ……?」

 体が動かない。首に絡みつく手の感触だけが、生々しくエルピースの意識を占めた。

 刹那。

 何が起こったのか一瞬理解が出来なかった。自分を包むように背後からボロボロのマントが翻ったと思うと、エルピースの体は強引に抱き寄せられそのまま浸水した舞台上へと跳躍し、ブリュンヒルデが遠ざかる。

「アンタ、どっから……!?」

 アリスが心底驚愕しながら叫ぶ。

 エルピースは声も出ず、けれど導かれるように抱えられた頭上を見上げる。そこにはレイブンの真剣な顔があった。その表情には冷や汗が浮かび、ピクリとも動かずブリュンヒルデと対峙している。

 エルピースには、その光景が理解出来なかった。今自分が置かれた状況に思考が付いていかず、けれど不安が胸を内側からどんどんと叩いて息苦しい。

 両者の間には張り詰めた緊張感が走っていた。レイブンの表情に、いつもの余裕が無い。

 そしてブリュンヒルデは、冷めた表情でこちらを見下していた。

「……あぁ、君か」

 ブリュンヒルデが呟く。

「シュヴェルトライテを返してもらおうか」

 双肩に控えていた近衛兵が剣を構え、まるでシンクロしているかのような寸分違わぬ動作でレイブンに切りかかる。それを見てレイブンも瞬時にシュヴェルトライテを剣に変え構えた。

 そうこうしている間にも水はどんどん吹き出して、アリスやレイブンの膝下まで水は溜まっている。

「こんな事してる場合じゃありません! ブリュンヒルデ様、兎に角今は避難を!!」

「アリス、君だけ先に逃げなよ」

 アリスは困惑した。そんなこと出来る訳がない、それにこのままでは本当に全員死んでしまう。

 その予想が当たってか、地面以外の岩壁にも皹が入り始め、埋まっていた骨がぼとぼとと崩れ落ち海水に沈み、抜け落ちたそこからも海水が漏れ始める。

「くそっっ」

 迷っている暇はなかった、アリスはみるみるうちに腰の位置まで溜まり始めた水をかき分け自分たちが入って来た横穴へ向かうべく斜面を登ろうとする。

 あの横穴の先には海に続く洞窟の出口がある。そこに船を停め自分も含め貴族たちはこの会場にやって来た。そこまで行けば逃げられる。

 しかしいつの間にか気絶してしまった子爵を抱えているせいで、思ったより上手く水の中を進むことが出来ず舌打ちをする。

「エルピース! レイブンも! 早く逃げるのよ!」

 しかし、アリスのそんな言葉は御構い無しに近衛兵二人はレイブンに襲いかかる。

「レイブン!!」

 エルピースが叫ぶ。レイブンはシュヴェルトライテでその凶刃を受け止めたが、その尋常じゃない力に跳ね除けることが出来ず構えた手をギリギリと押し戻される。その一瞬の隙にもう一人がレイブンの腹部めがけて切り掛かった。

 しかしその剣先の前にほぼ条件反射でエルピースが飛び出す。

「エルピース!?」

 アリスが叫び、レイブンが目を瞠る。

 しかし瞬間、新たに骨の壁を割って吹き出した滝のような海水にちょうど良く近衛兵が吹き飛ばされ、岩肌に頭を打って水に浮かんだ。

「……っ」

 その光景にエルピースの表情が悲痛に歪む。

 直後金属音が高らかに響き、シュヴェルトライテが天高く舞った。押し負けて弾かれたのだ。しかし瞬時に猿の姿に戻ると、そのまま壁を蹴ってレイブンのもとへと舞い戻りながら再び剣化する。それを視線もやらずに受け止めて、レイブンは振り下ろされた近衛兵の刃を水飛沫を上げながら見事弾いた。

「はぁ……厄介だね、主人を決めたワルキューレは」

 まだ水の及ばない上部に居たブリュンヒルデは心底面倒臭そうに無表情のまま呟いた。

 その言葉を聞いてエルピースは、バシャバシャと必死で水を掻き分けブリュンヒルデの元へと向かう。

「エルピース! やめろ!」

 レイブンは残り一人の近衛兵の刃を受け止めながらそう叫んだが、制止も虚しくエルピースはブリュンヒルデの元へと駆け上がった。

「やめさせて! ヒルデ! レイブンは悪い人じゃないよ!? お願いだから今はみんなで一緒に逃げよう!?」

 エルピースは必死でブリュンヒルデを見つめた。

 レイブンを見つめていたその瞳が、急にぎょろりと、エルピースを見やる。

 その瞳に一瞬喉が詰まったが、すぐに気を取り直してもう一度見つめなおす。

 ブリュンヒルデはエルピースの方へ体を向けると、突然にっこりと微笑んでみせた。

 エルピースはそれに嬉しそうに笑顔を浮かべる。

 けれど。


「邪 魔 だ な ぁ 」


 それは声だったのか、まるで直接脳に叩き込まれたようだった。

 エルピースは笑顔を凍らせて、その言葉がまだ理解出来ずブリュンヒルデを見やる。ブリュンヒルデは無表情で目の前のエルピースを見つめていた。

 視界がぼやけ、周囲から音が消える。心臓の音が耳に纏わりついて頭がズキズキする。

 気が付けばどこからかくる恐怖にエルピースの手は震えていた。

 そんなエルピースの様子を何てことは無いように見つめていたブリュンヒルデは、急に何か小さな用事でも思い出した風に手を叩くと、目を細め、エルピースに歩み寄る。

「そうだ、二人とも殺してしまえば良い」

 耳元で囁いた。それから目の前で、口角を三日月のように上げて笑う。その表情にぞくり全身が粟立って、恐怖からかショックからか、気が付けば腰の力が抜けてエルピースはその場にへたり込んだ。

『エルピース!』

 咄嗟にホークが鳥に戻るとエルピースの目の前で守るように片翼を広げる。しかし無情にもブリュンヒルデに片手で首を掴まれると、そのまま思い切り骸骨の埋まる岩壁に投げつけられる。

「ホーッ……ク……ッ」

 喉が震えて声が出ない。ホークはズルリ、骨と一緒に崩れ落ちるとそのまま水に沈んでしまった。

 助けなければ、早くこの場を動かなければ、思うのに恐怖で震えて体が上手く動かない。

 目の前にはブリュンヒルデが居る。何処からか吹く風に靡く銀の髪、中性的で端正な顔立ち、けれどもその表情は優しい笑顔なんかじゃなくて、その双眸は底知れぬ穴のように深い闇を宿している。

「ブリュンヒルデ……っどうし、て……?」

 ブリュンヒルデの顔が近付く。

 その指がエルピースの白く細い首に触れる、二本、また三本と巻き付いて、ゆっくりと、ゆっくりと力が強くなる。親指が首筋にみしみしとめり込んで、喉から自分のものではないような空気の抜ける音がした。

「………エルピース!! 逃げろっっ!!」

「ブリュンヒルデ様、何をっっ!?」

 レイブンとアリスの絶叫が響く。

 気が付けばもうエルピースの体は宙に浮き、鈍く低い呻き声が響き始める。

 苦しさに足をばたつかせ、絡みつく指を両手で離そうともがくが、まるで歯が立たない。

 レイブンは渾身の力を込めて近衛兵の刃を押し返しその腹部を思い切り蹴り飛ばすと、急ぎエルピースの元へ駆け寄ろうとした。しかし再び背後から起き上がった近衛兵に切りかかられ寸でのところでそれを受け止める。

「くそっっ!!」

 苛立ちと焦燥感でレイブンが叫ぶ。おかしい、この近衛兵の動きは明らかに常人のそれではない。尋常ならざる力、まるで痛みを感じていないかのような動き、速さ。これだけ闘っているのに微塵も感情の乱れのない正確無比な動作。

 どうすれば倒せる? どうすれば……?

 まるでブリュンヒルデの為だけに動く人形のようだ。感情も痛覚も凡そ人間らしいものは全て感じられない。敵を殺す為だけの、兵器のような。

 レイブンは五感を研ぎ澄ます……もっと、もっとだ。でなければ倒せはしない。懐かしい感覚だった、レイブンにも覚えがある。ただ敵を倒す為だけに、己で己を殺し目的の為だけに人間らしいものは全て捨てる。それはまるで自分が自分ではないような、恍惚。

 激しく打ち合いながら、微かにレイブンの口角が上がり始めた。

「エルピースっ!!」

 悲鳴にも似たアリスの声が響き、レイブンは闘いに陶酔しかけた意識を急速に取り戻すとハっとしてエルピースを仰ぎ見る。

 そこには手足を力無くぶら下げたエルピースの姿があった。


「エルピースっ!!」

 遠くアリスの声が聞こえる。けれどももう、エルピースの意識はとうに薄れてまるで深い海の底に居るような感覚だった。

 何もかもが遠くなる。

 声も、感覚も、苦しみさえも、遠くなる。


 罰が当たったんだ。

 暗闇の中で蹲りながらエルピースは思った。

 ブリュンヒルデに会えた、助けに来てくれた。まるで夢の様だった。嬉しくて嬉しくて、もうそれだけでいいと、なんて幸せなんだろうとそう思った。

 シエルやシーザーや奴隷にされた子ども達、全部全部もうどうでもいい、ブリュンヒルデに会えたなら、他の事はどうだっていい。

 一瞬でもそう思ってしまったから。

 だから死ぬのだろうか?

 暗闇が揺れる、あれは水面だろうか。

 意識はどんどんと闇に堕ちていく。

 けれど、ブリュンヒルデの手に掛かって死ぬのなら……それはそれで、運命なのかもしれない。

 だってあの日、独り残されたあの日、エルピースの中で全ては終わったのだ。

 全て当たり前だと思っていた。注がれる愛情も庇護も、何もかも全て当たり前だと、その事に不満すら覚えていた。

 外の世界に憧れて、過保護なブリュンヒルデに疎ましさすら感じて、与えられた小さな世界の、あんなに大きな幸せに、気付きもせずに、ずっと、ずっと。


 なんてちっぽけで愚かだったろう。


 苦しいよ、もう嫌だよ、エルピースは暗闇の中で耳を塞ぐ。

 だってもう、このまま目を閉じて沈んでしまいたいんだ。闇に溶けて、何も考えられなくなって、消えてしまえたらどれだけ楽だろうか。

 だってもうこれでいいんだ。

 ブリュンヒルデに会えた、その為に旅に出た。だからもう、大好きなブリュンヒルデの手で、全て終わらせてくれるなら、もうこの漠々とした孤独に苛まれなくても良いのなら、もう。


「エルピースッッ!!」


 レイブンの叫び声と同時、洞窟の中に轟音が響き渡り、紫の巨大な雷光が近衛兵を貫いた。

 シュヴェルトライテの雷だ。

 やがて近衛兵はピクリとも動かなくなり、レイブンは僅かに眉を顰める。

「………すまない」

 誰にも聞こえない声で呟いた。

 けれども悔いている時間は無い。水が大挙に押し寄せてみるみるうちに水面が上がる。レイブンの居る斜面の中程も、膝下まで水に沈み始めた。

 レイブンはエルピースとブリュンヒルデを睨む。駆け寄っていては間に合わない。

 思うや否や、力の限りシュヴェルトライテをブリュンヒルデの顔面目掛けてぶん投げた。

 ブリュンヒルデはそれを目視し、ひらり難なく躱して見せた。しかしその一瞬僅かにエルピースを掴む力が緩み、エルピースの指が微かに動く。

「聞け、エルピース! お前が逃した子供たちは、全員シャルロッテという貴族が身柄を引き受けた!」




 エルピース達と別れた後、子供たちを乗せた馬車はシャルロッテの取り計らいで彼女の屋敷へと辿り着いた。

 これで仕事も終わりだ、後のことは自分の預かり知るところではない、レイブンは面倒なことになる前に退散しようと御者の席からひらり飛び降りる。

「ちょっと、あなた!」

 しかし、そうは問屋が許さないもとい、シャルロッテが許さなかった。

「説明をして頂戴!」

 荷台から降りてきたシャルロッテは、高圧的な物言いとは裏腹に随分と離れた位置からレイブンに話し掛けている。

 しばし無言でその距離を見ていたレイブンだったが、僅かに震えながらこちらを睨むシャルロッテにぴくりとも反応せぬまま黙って背を向けて歩き出した。

「あ、ま、待ちなさい!」

 そう言われて待つ指名手配犯はいない。

「………っ、仕方ありませんわ、この子達は奴隷でしょう!?」

 遠ざかっていくレイブンの背に向けてシャルロッテはなおも叫ぶ。

「これも天命………私、こういうのは許せませんの。この子達は私が責任を持って助けますわ!」

 レイブンの足がぴたりと止まる。

「実家を放逐されてずっと悩んでいましたの………私に何が出来るのか、私はなんの役に立つのか………これはきっと私に課せられた運命なのでしょう」

 凛とした声だった。そこに嘘があるようには思えない。

「………たいそうなことだな」

 レイブンはそれだけ呟くと、また歩き出す。

「待ちなさい! あなたはこれからどうしますの!?」

 シャルロッテの声に誘われるように、荷台に居た子供たちがぞろぞろと降りてくる。

 そこにはエルピースに最後まで憎まれ口を叩いたあの少年も居た。

「おい! あんた!」

 その少年が叫ぶ。

「戻るなら俺も連れて行ってくれ! あいつが、あの馬鹿女がまだあそこに居るんだろ!?」

 駆け寄って、腕を引かれるままに振り返る。

 レイブンを見詰める少年の瞳は夕焼けで燃えるように赤かった。

 絶望に沈み、運命に従属し、闇に塗れた少年の瞳は、もうそこには存在しない。

「なぁ、頼む! あいつも、エルピースも助けたいんだ!」

 今、こんなにも意思を持って輝いている。

 レイブンはその腕を振り払うと、何も言わずに彼らに背を向けた。

「あ、おい! お前、まさか………!」

 気が付けば子供たちに取り囲まれていた。皆睨むような期待を孕むような複雑な瞳でレイブンを見つめている。

「………足手まといだ、来なくていい」

 だが、レイブンがそう告げた途端子供たちの瞳は爛々と輝いた。

 そして「ありがとう」「絶対に助けてあげて」「感謝を伝えて」と矢継ぎ早に口にする。

 そんな彼らの声を背にレイブンはマントを翻し歩き出した。

 太陽が海に沈む。

 その最後に真っ赤に燃え盛る灼熱の炎を宿すように、レイブンに背負われたシュヴェルトライテは紅く怪しく輝いた。

「これも償いか……」

 夕闇にまるで溶けるように、レイブンの呟きを風が攫った。




「皆お前が救ったんだ、エルピース!」

 エルピースの目尻から涙が溢れる。それは苦しさからか、それとも別の感情か、頬を伝ってポトリと地面に落ちて、弾ける。

 その直後、今までで一番大きな地響きと共に至る所から一挙に海水がなだれ込み、壁に埋め込まれた骨もガラガラと崩れ水に沈む。そして天井の巨大な鍾乳石が落下して、激しい衝撃と振動が洞窟中を襲う。

 その瞬間、ブリュンヒルデの手がエルピースの首から離れ、エルピースの体はゆっくりと、大挙して渦を巻く海水へと落ちていく。

「エルピース!!」

 水の中に体が沈んだ。刹那、その冷水に急速にエルピースの意識は覚醒し、同時に口から大量の空気が溢れ出す。苦しい、そう思い無我夢中で揺れる水面へ手を伸ばした。息が出来ない、空気が欲しい、届かない手を必死で伸ばす。

 その手を、誰かの手が掴んだ。

 それから水中で抱き寄せられ、急激に水面へと浮上していく。

「っっはぁ!」

 水面から顔が出て、エルピースは空気を吸ったと同時に激しく咳き込み、水を吐く。

 そのまま誰かに抱え上げられて、エルピースの体は無事海水から引き上げられた。

「あ、りが……っレイブ……っっ」

「……」

 霞む視界でも分かる。黒い髪、黒い瞳……いいや、掴んだ手で、自分を呼ぶ声で、分かっていた。だからエルピースはくしゃくしゃの顔で笑う。

 レイブンはそんなエルピースの表情を少しだけ眉間に皺をよせ、見つめた。

 不意に影が掛かった。見上げれば、斜面の一番上からブリュンヒルデがエルピースと彼女を横抱きにしたレイブンを見下げていた。その瞳は気怠げで、どうでも良さそうな表情を浮かべている。

 あの時、竣工式の船上でホークの翼をもぎ取った、あの瞳だ。感情は無い、ただ目的の手段として人を殺す、踏み付ける、利用する。それは人を人とは思っていない嫌悪の瞳。

 その瞳を、レイブンは知っている。

「化け物め………」

「……それは自分のことかな? ヴァン・ヴァンガード」

 その名にレイブンの眉が動く。平静を装ってはいるが睨み付ける瞳は黒く冷たく、見たことの無い鋭さでブリュンヒルデを睨み付ける。

「知ってるよ、五年前の事は。君がそのシュヴェルトライテを一瞬でも起動してくれたお陰で世界に絶望が撒き散らされた。君はあの場の惨劇だけがその呪われたワルキューレの悲劇だと思っているだろう?」

 レイブンの瞳が揺れる。エルピースはまだ少しぼんやりとした意識の中、強張るレイブンの表情だけを見つめた。怯えている? まるで子供のような瞳。黒く深い、絶望の色。

「違うよ、君は君の絶望をそのシュヴェルトライテの力を持ってこの世界中にばら撒いたのさ。自分でも気付いているだろう? 世界の異変は全て五年前のあの日に起こっていると。まぁ、そのお陰で私は目覚めることが出来たんだ。《救済》の時は近い……全ての絶望を振り払う為、ワルキューレが必要なんだよ。九つのワルキューレが」

 ブリュンヒルデは微笑んでいる。

 エルピースはブリュンヒルデを見つめた。その微笑みはエルピースの知るブリュンヒルデでは無い。五年前、覚えている。ブリュンヒルデがいなくなった、あの日を。

 あの瞬間、世界の何かが変わってしまったとでも言うのだろうか。

「その子の絶望も、君が撒き散らした種のひとつさ」

 ブリュンヒルデはエルピースを指さした。レイブンはピクリとも動かない。その瞳はブリュンヒルデを見つめているのか、それとも何か別のものを見つめているのか。

 ブリュンヒルデはその様子を一瞥すると、くるり背を向けて貴族たちが逃げていった横穴へと歩き出す。

「だからアリス、早くワルキューレを全て回収しておいで」

 最後にそれだけを言い残し、ブリュンヒルデは立ち去った。

 エルピースが未だ呆然としているレイブンの頬に触れれば、怯えたようにびくりと揺れる。けれども気にせずエルピースは両手でレイブンの頬を包むと、その顔を強引に自分の顔へと引き寄せた。

 額が当り、鈍く痛む。

「違うよ、レイブン」

 エルピースは微笑んでいた。

「私はもう、絶望してない」

 レイブンとエルピースの瞳が合う。覗き込んだその赤い瞳は確かにキラキラと輝いて見えた。それは暗闇の中に差し込んだ一縷の光のようで、レイブンは眩しさに目がくらんだようになる。

「アンタ達!! とりあえず早く逃げるわよ!」

 言いながらアリスは先程ブリュンヒルデに弾き飛ばされたホークを探す。ホークは自己修復中なのか、かろうじて水面まで浮上しもがいていた。それを片手で救出し、エルピースとレイブンの方を見やる。

「エルピース、大丈夫!?」

「あり、がとう……っもう大丈夫、逃げよう」

 アリスの問いに、エルピースはまだ少しだけ苦しげに首を押さえていたが、そう言って涙の乾いた瞳で笑う。その様子にレイブンは眉を顰めたが、感傷に浸っている暇は無い。

「アンタも、さぁ早く!」

 アリスがいつの間にか目覚めて呆然としていた子爵の縄を引く。

 しかし直後、崩れ落ちた鍾乳石が唯一の抜け道である横穴を、塞いだ。

「……!」

 アリスとエルピースは唖然とした。逃げ道が塞がれてしまっては、もう死ぬしかない。

 しかしレイブンは涼しい顔でそれを見つめている。

 それにアリスはハっとする。そうだ、この男はあの横穴ではない何処からか現れた。

「レイブン! あんたどこからここへ来たの!?」

 アリスの叫び声に、レイブンは水に沈んだ舞台を指さす。

「は?」

「あそこにあった穴から飛び降りて来たんだ。そこから牢獄へ抜けられる」

 アリスは言葉を止め、海水渦巻く舞台上を見つめる。その間も濁流は流れ込み洞窟の倒壊は進んでいる。悩んでいる暇などない、首を激しく降ると、アリスは子爵の縄を切った。

「助かりたかったら死ぬ気で泳ぐわよ! レイブン、案内して!」

 言うとアリスはホークを懐に入れ、水に潜る。

 レイブンもまた、エルピースを背負い猿の姿で戻ってきたシュヴェルトライテを剣にして腰に刺した。

「いくぞ」

「うん」

 大きく息を吸って、飛び込んだ。幸い水の中はそれ程流れは激しくはない場所もあり、何とか舞台まで潜れそうだ。

 しかしエルピースはそこで気が付いた、子爵が着いて来ていない。

 振り向いた。ほとんど水没した赤い緞帳や赤い絨毯が悲しく水中で揺らめき、骸骨がそこら中に散らばって虚しく浮かんでいる。けれども対照的に、その水は果て無く青く透き通っていた。その水面から、子爵がこちらを覗き込んでいる気がして、エルピースは手を伸ばす。けれどその影はするりと消える。

 音の無い、静かな世界に打算と欲望の世界が沈んでいく。



「プハァッ!」

 アリスとレイブン、エルピースは水面から顔を出した。そこはエルピースがオークション会場へ向かった時の小部屋があった場所で、小部屋の天井を外した頭上は遥か牢獄まで繋がる四角い空洞だったのだ。鎖や滑車、不思議なものが途中たくさんあるその空洞にも水は押し寄せており、あと少しで牢獄というところまで水面は上がっていた。

「助かった……の?」

「ってアンタ何て格好してんの……」

 エルピースを見れば、ドレスを脱ぎ捨て下着姿になっていた。レイブンは無言でそっぽを向き、アリスはあからさまに呆れ顔だ。

「だってドレスじゃ泳ぎの邪魔だと思って」

「まぁそうだけど……」

「エルピース! レイブン!」

 と、ふいに頭上から声がして見上げれば、上の方でシエルがどこからかひょっこりと顔を出し、こちらを心配そうに見つめていた。

「シエル!」

 恐らくあそこが牢獄であろう。しかしそこへはまだ高さが割にあり、エルピースではとても届きそうにない。

「レイブン!」

 どうしよう、という懇願の瞳を向けられレイブンは無表情のまま頭上まで伸びるかなり頑丈なロープのようなものに掴まり、手の力でそこを登り始めた。

 続いてアリスもそれに続き、扉の開いたそこに飛び込む。

「待って待って待って! 無理だから! 普通は無理だからそれ!」

 ロープにしがみ付きながらエルピースは必死で叫ぶ。しかし直後上からロープが投げ込まれ、「体を結べ、引き上げてやる」とレイブンの声がする。

「レイブン~!」

「いいから早くしろ」

 レイブンは心底呆れた顔をしたが、何とか無事にエルピースも牢獄まで引き上げることが出来た。

「エルピース!」

 ほっとしてエルピースが縄を解いていると、不意に名を呼ばれ顔を上げる。

 そこにはシエルが泣きそうな顔で自分を見つめている姿があった。

 そのどこか不安そうな顔に、エルピースは何も言わず、シエルを抱きしめた。

「エルピースっ、無事で良かった……地響きはするし兵達は大勢逃げて行くし、エルピースに何かあったんじゃって……」

「ありがとう、私は大丈夫だよ」

 エルピースは微笑んだ。それから体を離しシエルの背後が目に入る。

 そこにはまだ目覚めないのか、シーザーが壁にもたれて眠っていた。そしてそれをアリスがしゃがみこんで見ている。

 エルピースの視線がシーザーに移ったのを見て、シエルは少しだけ目を伏せたがすぐに笑ってみせた。

「さっきはごめんね、エルピースの所為じゃないのに……大丈夫、お兄ちゃんきっと目覚めるわ!」

 その姿に、エルピースは眉間に皺を寄せる。

「ねぇ、この子状況は?」

 不意にアリスが問いかけた。

「あ、あの、屋根から落ちて……手当は受けたんですけど」

「この怪我、あんたがここで手当てしたの?」

 たどたどしく答えるシエルに被せるようにアリスが問う。

「あ、いいえ。治療はこの屋敷の医者がしました……でも、まだ目が覚めなくて……」

 シエルは言いながら所在無げに手を握りしめた。エルピースが苦しげなその背に手を添える。

「あの騒ぎの中、レイブンがこの屋敷に戻って来て……地下への入り口を私は知っていましたから、案内する時に兄もここへ連れて来てもらったんです」

 シエルの瞳には涙が滲んでいた。アリスはそれを横目にシーザーの傷の具合や目の裏などを確認すると、急にその頭に思い切り拳を振り下ろした。

「ちょっ、アリス!?」

「……ってぇ……何だぁ……?」

 エルピースがその行動を叱責しようとした直後だ。

 シーザーは緩慢な動作で目を開くと、訳が分からない様子で殴られた頭を摩り出した。

 それから辺りを見渡すと、ガバリと起き上がり「シエル……!!」と叫ぶ。

「お兄ちゃん……っ!?」

 シエルの瞳から、みるみるうちに涙が溢れ出す。シーザーは目の前で泣いているシエルを見つけると、よろけながらも焦ったように立ち上がりその体を強く抱き寄せた。

「シエル……っ」

「お兄ちゃんっっ、お兄ちゃん……っお兄ちゃん……!」

 まるで幼い子どものように泣きじゃくるシエルの頭を、シーザーの掌が優しく撫ぜる。

 その光景を見ていたエルピースも思わず涙ぐんでしまうほど、兄妹は強く強く抱きしめ合った。

「良かったね、良かったねシエル……っ」

 その光景にエルピースが心底嬉しそうに言う。

 ひとしきり抱きしめ合い、シーザーは顔を上げる。そこにはアリスが居て、レイブンが居て、涙で顔を濡らした下着姿のエルピースが居た。

「………っまえ、なんで下着なんだよ!?」

 シーザーは顔を真っ赤にして下を向いた。

 それを見ていたアリスが颯爽と自分の上着をエルピースに被せ、そのボタンをエルピースがもたもたと閉じてから、失礼致しましたと再度所定の位置に着く。

 その一連に大きなため息を吐いてから、シーザーはひとつ咳払いをして、言った。

「……俺たち、やったのか?」

 その言葉にアリスは微笑み、エルピースは激しく頷く。

 まだ信じられずレイブンの方を見れば、表情こそ変わらなかったが、一回り大きな手がシーザーの頭に伸びて来て、くしゃりと撫ぜた。


 それは、死神の手。

 この世界で唯一、少年の手を取った、神様。


 頭に掌の重みを感じながら、シーザーの胸に万感の想いが去来した。それは胸にどんどん溢れて、遂には零れ出してしまいそうなほどいっぱいに広がる。

 息を吸って、深く深くレイブンに頭を下げた。

 そして俯いたまま嗚咽が響きだし、床に涙が落ちるほど、シーザーは泣いていた。

「全く、情けないわねぇ。妹泣かせて自分まで泣いてたら世話無いわよ」

 そんなシーザーの頭をアリスがはたく。それでも泣きじゃくったまま止まらないので、アリスは困ったように目を眇めて口を噤む。

「いや、ていうかアリスは謝ろうよ。殴っちゃ駄目でしょ殴っちゃ!」

 が、そんなアリスに先程まで泣いていたはずのエルピースが眉を釣り上げながら詰め寄った。

「何よ、目覚めたんだから文句ないでしょ」

「頭ぶつけた人の頭殴るとか、駄目に決まってるでしょ!? 確かに結果起きたけどさぁ……!」

 必死に抗議するエルピースに詰め寄られ、アリスは面倒臭そうに息を漏らすと懐に入れていたホークを取り出しエルピースに差し出した。

「ホーク!」

『現在99%修復しています』

 機械的な簡素な声が鳴り、エルピースは少し不安そうにホークを抱きしめながらアリスを見上げた。

「大丈夫よ、そいつ自分で回復するんでしょ?」

 言下、『自己再生完了しました』という声がして、ホークの片翼がばさり、開いた。

『エルピース、心配かけてごめんね。自己再生にエネルギーを集中していたの』

「ホーク!」

 エルピースはホークを抱きしめる。しかし体良く誤魔化されたことに気付いてまたすぐにアリスを睨みつける。

「いいの! 一時的に気絶してるだけみたいだったし。でもまぁ……ラッキーだったかもね」

 言いながらアリスがホークを見つめると、ホークは片翼を閉じてどこか誇らしげに背筋を伸ばしてみせた。

「幸運か、けっこう凄い力かもしれないわね」

 どこからどこまでがそうなのかは分からない。けれど様々な事柄が重なって、結局全てエルピースの願い通りの結果を迎えている。

 その事実にアリスは僅かにぞくりとする。

 幸運に選ばれた少女は、何も知らず目の前できょとんと首を傾げるだけだ。

 レイブンもまた、その様子を神妙な面持ちで見つめているようだった。

「さて……子爵の件やら何やら、ここの駐在に引き継いだり、色々後片付けしなきゃねぇ……」

 アリスは面倒臭そうに呟いた。その表情はどこか怒っているようで、エルピースも結局あの洞窟に留まった子爵を思い出す。

「まぁ、あいつのことだからどっか別の所から逃げてるかもだし、その辺も含めて調査してもらわないとね」

 言いながら、アリスはそそくさとレイブンとエルピースの背後に回る。

 そしてカチャリと何か嫌な音がして二人は一斉に振り返る。

「油断したわねレイブン。エルピースはいつも通り隙だらけね」

「なっ! なに!?」

「毎度おなじみ、従属の首輪で〜す」

 気が付けば二人の首には例のA級遺産である首輪が付けられていた。

「こ、これ!」

「いや、なんであんたは嬉しそうなのよ」

 それに気づいた瞬間、エルピースは何故だかうきうきと目を輝かせ満面の笑みを浮かべた。

「だって、これを外された時は本気で見捨てられたって思ったんだよ!」

「あぁ、まぁねぇ。付けっぱなしにしといたら十中八九あの子爵に気付かれて売り捌かれてただろうからねぇ」

「アンタが思ってるより貴重なのよ、これ」とアリスはぼやくように言う。

 その様子を黙って見ていたレイブンも、視線だけはしっかりと不服を訴えていた。

「あんたらさ、私がワルキューレを回収して周ってるっていう初期設定はお忘れ? 私は国家に忠実な軍人なの、どんな事があろうとそれは変わらないの」

 アリスはニッコリと微笑んでいる。レイブンは目を瞠り警戒したようにアリスを睨み付け、エルピースは困惑したような不安そうな表情でアリスを見やる。

「だから、ワルキューレ探し……しっかり手伝ってもらうわよ」

 しかし、アリスから飛び出したその言葉に、エルピースとレイブンは驚きの表情を浮かべた。

「で、でも私…!」

「エルピース、この傷をご覧」

 何か気にするように声を上げたエルピースだが、言下アリスは言いながら自身の血の滲んだ太ももをわざとらしく向ける。それを見てエルピースは「うっ」と言葉に詰まるとバツが悪そうな顔で縮こまった。

「この任務は私に一任されてるの。回収の為なら何しようが誰を使おうが文句は言われない、言わせない。まぁ、集めた後の事は……その時考えるわよ」

 アリスは心底面倒くさそうで、最後の方は溜息交じりだった。けれどもその言葉にエルピースは嬉しそうにコクリと頷く。

 次いで不遜な様子でそっぽを向いているレイブンに視線を向けると、こちらも負けじと不遜な笑顔を浮かべて言った。

「あんたも、協力してもらうわよ? ヴァンガード家のことはまぁ、今はもう私の直接の管轄じゃないし、訳ありっぽいし? 当分は不問にしてあげる」

 アリスはそう言ってウインクをする、最初からそうだが、やはり食えない奴だとレイブンは溜息を吐いた。

「シュヴェルトライテもアンタに懐いちゃってるしねぇ……言っとくけど逃げたって無駄よ? エルピースとホークが居る限り地平線の果てまで追いかけますからね?」

 レイブンはエルピースをジロリと睨む。しかしエルピースは全力で顔を背ける。

 その様子を見ながらアリスは更に続ける。

「それに知らないかもしれないけど? 私ってばこの国では結構な地位にいるのよね~? もしもの時、少しは口添えしてあげられるかもしれないな~? 恩は売っておいて損はないと思うな~?」

 レイブンは沈黙する。その様子をエルピースは心配そうに覗き込み、そしてレイブンと目が合った。

「何だ……」

「ブリュンヒルデの言っていた救済とかは、よく分からないけど……でもワルキューレを集めれば願いが叶うって、遺跡に書いてあったよね」

 エルピースの言葉にレイブンは沈黙している。

「願い、叶えてもらおうよ」

 エルピースは悪戯に笑った。その笑顔に、レイブンは毒気が抜かれたようにふっとひと息つくと「そうだな」と呟いた。

「じゃあ!」

「隙を見てホークのプログラムを書き換える」

 エルピースの眉間に皺が寄った。

「それまでは……仕方ないから着いて行く」

 けれど、レイブンがそう続けると一瞬にしてその表情は嬉しそうに「ありがとう!」と満面の笑みを咲かせてみせた。

「良かったね、エルピース」

「うん!」

 嬉しそうなエルピースにシエルも嬉しそうにニコニコしている。

 と、その雰囲気をぶち壊す大きなくしゃみの音が響いた。エルピースである。

「さ、寒い……」

「そうね……とりあえず着替えましょうか」

 そして一行はこれからの計画も含めアリスの館に向かうことにした。

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