三話 奴隷達の追奏曲(カノン)


「おい、おい」

 耳元で声がする。気のせいか揺すられている気もする。エルピースは眠い目をこすりながら、まだぼんやりとした視界に目を凝らす。

 凝らした視界には、ボロボロのマント。少し上を見上げれば、そこには子供たちではない、見慣れたような顔が自分を見つめていた。

「おじいちゃん……?」

 言下、片手で思い切り両頬を潰され、エルピースは強制的に覚醒した。

「起きたか?」

「ヘ、ヘヒブン……」

 空気が漏れるような発音でその名を呟いて、瞬間エルピースは跳ね起きた。

 周りを見ればそこは牢獄、子供たちもまだすやすやと眠っている。

 そこに、何故かレイブンが居るのだ。

 見れば錠前は破壊されていた。

 驚きで声が出ず魚のように口だけパクパクしているエルピースに対し、レイブンは至極冷静に人差し指を唇に当てた。それから周囲の子ども達に目配せをする。

 起きるから静かにしろ、そう言っているのだろう。

「レイブン、何でここに居るの?」

「お前が呼んだんだろう」

 エルピースは首を傾げた、しかし直ぐに思い当たって手を叩く。

「ホークが呼んでくれたのね」

『そうだよ~連絡が来た時はびっくりしちゃったよ~』

 と、レイブンのマントの中から久しぶりにシュウが顔を出した。エルピースはそれだけで少し嬉しくなって笑顔を浮かべる。

 何故だろう、レイブンが居ると安心する。それはこの人がとても強くて優しいと知っているからだろう。けれど同時に、そんな自分を情けなく思い少しだけ力なく笑う。

 その様子をレイブンはただじっと見つめていた、のだが。

「!」

 ほんの一瞬、レイブンが微笑んだように見えた。

 恐らく初めて見るであろうその優しげな笑顔にエルピースは目玉が飛び出そうなくらいに目を見開き口もあんぐり開けて驚いた。それに気付いたレイブンはすぐに真顔に戻ったが、僅かにその顔は赤く、隠すように手を口元に当てた。

「兎に角、行くぞ」

 それからぐいとエルピースの手を引いた。

 しかしどういう訳かエルピースはしゃがみ込んだまま動こうとしない。

 レイブンが眉を潜めると、エルピースは無言のまま首を振った。その意図を読み取ったか、レイブンは周囲の子ども達の人数を確認した。

「……今は無理だ」

「私、見捨てないって決めたんだ」

 エルピースは少しだけ情けなさそうに眉を下げて微笑んだ。その表情をレイブンはしばし見つめていたが、やがてエルピースを掴んでいた腕を離すと、突然エルピースの横に腰を下ろした。

 その行動に、驚いたのはエルピースだ。信じられないような表情でレイブンを見つめる。

「レイブン……?」

 レイブンは何も言わなかった、その代わりのように首から下をじっと見つめられ、エルピースは首を傾げる。しかし直ぐに己の首に科せられた首輪と今の自分の恰好を思い出し、渋い顔をした。

「これはアリスに無理矢理やられちゃって………」

 と、言い終わらないうちにエルピースは再度真剣な眼差しでレイブンを見つめた。

「あのね、レイブンにお願いがあって……」

「シュウ」

 言いかけたところで先手を打つようにレイブンが言うと、シュウが元気よくレイブンの肩から地面へ飛び降りる。

『ホークなら僕が助けて来てあげるから任せてよ~』

「シュウくん、いいの?」

 シュウはその呼び名に少しだけ擽ったそうに顔を両手でくるくる洗う。

『どうせ誰かは外に出てここの入り口を閉めないとだからさ、中からは開け閉め出来ないみたいなんだよ~』

 言いながらシュウは螺旋階段に駈け出すと、『まぁ任せてよ~』と緩い口調でとっとこ歩いて行ってしまった。

「大丈夫かな、シュウくん。そもそも十字架回せる?」

「問題ない」

 言われエルピースは自分の首をもげるかと思う程掴まれたことを思い出し、得心する。確かに力はかなりあった。

 そんなエルピースをよそに、レイブンはゴロリと寝転がるとフードを顔まで被って寝始めてしまった。

 それに習うようにエルピースもレイブンの隣で再び寝転がり、目を閉じる。誰も話す者がいなくなった牢獄は、すっかり静かになった。

 そしてその様子を、何人かの子どもたちはこっそりと見ていたようだった。



 エルピースは夢を見た。祖父が居て、ブリュンヒルデが居る。故郷の青空と芝生の中を駆け回る幼き日々、 けれどもすぐに咳が出てブリュンヒルデにベッドに運ばれてしまうのだ。そうすると必ずブリュンヒルデは暖かいミルクを持ってきてくれて、祖父が退屈だろうと世界中を旅した思い出話を聞かせてくれた。

 いつかその、祖父の冒険譚に出てくるような素晴らしい世界を旅するのが夢だった。

 世界は輝いていて、素敵なものがたくさんあって、まるで宝石箱のようだった、少なくともあの頃は。

 けれども待てど暮らせど祖父は旅路から帰って来なくなり、遂にはブリュンヒルデがいなくなったあの日、エルピースの世界から色が消えた。思い切って飛び出した世界は、只ひたすらに辛く厳しく不安ばかりが広がっていた。ブリュンヒルデを探す旅、ただそれだけだったから、何かを楽しむなんて余裕はなく、何を見ても何をしてもいつだって胸にあるのは焦燥感のみ。夢の中、灰色の世界をただ只管に歩く。

 気が付けば暗闇の中に身を投じていた。そこは暗く深い沼のようで、突然息が苦しくなる。ぼこぼこと自分の口から出た空気の粒が空へ登って消えていく。頭上には微かに光りが揺れる水面がある。けれどエルピースの手はそこには届かない。

 沈んでいく、どこまでも。

 さらに光の届かない暗闇に、体が引き摺り込まれていく。

 その水底に見える無数の視線。

 子供たちの目。



 がばり、起き上がったエルピースは全身汗でびしょ濡れだった。嫌な夢を見た、目覚めたというのに喉がからからに枯れていて、息苦しいほどだった。

 地下室に光など届かない為、今がいったい何時なのか、まだ夜なのか朝なのかも分からなかったが、変わらず部屋を照らし出す灯りはゆらゆらと揺れている。

「大丈夫か?」

 ふいに横から声をかけられエルピースはびくりと体を震わせる。レイブンが片目を開けていた。

 他の子ども達は皆まだ眠っているようだ。

「大丈夫……ちょっと、嫌な夢を見ただけ」

 エルピースは俯いた。

 ふいに灯りが揺れる。途端、レイブンは立ち上がると無言のまま牢屋から出て錠を形だけ元に戻すと入り口の死角に立った。不思議に思っていたが、階段から足音が響いて来てエルピースも慌てて寝たふりをする。

「なんだ、まだ寝てるのか? 朝食だ……」

 鮮やかだった。気づかれる前に相手の首筋に手刀を落とし一瞬で気絶させてしまった。

 途端、寝ていたと思っていた子ども達がわっと起き上がり牢屋から飛び出して兵が持って来たパンに群がりガツガツと脇目も振らず食べ始める。

 その様子にエルピースが呆気にとられていると、レイブンは兵士の身ぐるみを慣れた手つきで脱がせ、今度はそれを装着し始めた。

 エルピースはその様子にハッとしてから慌てて自分も牢の外に出てレイブンに駆け寄る。

「レイブンって本当に何者……? 手馴れすぎてて怖い……」

 やはり返事はないまま、レイブンは最後に兵士の仮面を被る。これでもう、誰だか分からなくなってしまった。

 子ども達はパンを取り合いながら食べている。その中でひとつも食べられていない子どもを見つけて、エルピースはパンをひとつ取り上げるとその子に渡してやった。すると子供はお礼も言わずそのパンにがっつき始める。

 エルピースはそれを見て嬉しそうに笑った。

「レイブンは、やっぱりずるい」

 それからエルピースはレイブンを見上げ、花が咲くように笑った。

 仮面で全く表情は見えなかったが、レイブンが一瞬自分を見つめた気がして、エルピースは答えるように少し首輪傾げる。

 レイブンは、そんなエルピースに人知れず眉を潜めた。

 それから二人はしばらく無言で子供たちを見ていた。無心でパンを食べ続ける子どもたちが、そろそろ食べ終わると言う頃だ。

「少し出て来る」

「え? レイブン行っちゃうの?」

 エルピースが不安そうにレイブンのマントを引いた。けれどすぐにハッとしたように離すと、「分かった、行ってらっしゃい」と笑顔を作る。

「………すぐ戻る」

「うん、待ってる!」

 仮面の奥で微かな声、けれどエルピースはきっちりそれを聞き取ると力強く頷いた。

 レイブンは身ぐるみを剥いだ兵士を引き摺って階段を登っていく、その背を見送り、エルピースは心臓に手を当てて深呼吸をひとつ。

 ここからは、自分が子ども達を守らなくては。

「じゃあ、みんな牢に戻りましょう!」

 エルピースの言葉に子ども達は顔を見合わせる。その戸惑った様子にエルピースはあくまで笑顔を崩さずに続ける。

「みんなの事、私が必ず守る。だから今は私の言うことを聞いて欲しいんだ」

 ハッキリと言った。けれど自信など微塵もなかった。それでも今は強がりでもブラフでも、そう言うしかない。ハッタリだって時には必要だ。

 子ども達は少しだけ沈黙したが、一人、また一人と牢に戻ってくれた。けれど最後に一人、少年が残る。昨日から唯一、エルピースに話しかけてくれる少年だ。

「あのさぁ」

 その少年が、とても冷めた瞳でエルピースを見つめていた。

「なぁに?」

 エルピースはなるべく優しい声を出し、少年の前にしゃがみ込んだ。

「 アンタの言うこと聞いて牢に戻る訳じゃないから。てか守るとか諦めないとかさ、自己満足で俺たち巻き込むのやめて欲しいんだけど」

 息を呑んだ、けれどエルピースにとってその言葉は予想していた言葉ではあった。

 昨日の夜からずっと覚悟していた。少年の言う通り、自分には彼ら全員を幸せにする力は無い。今こうしていることは、自分自身が彼らを見捨てることが出来ないからだ、それは自己満足でしか無い。

 エルピースは眉を下げて微笑んだ。その表情に、少年は少しだけ躊躇したように眉を寄せる。

「俺は! 俺たちは……! 親に捨てられたから、今更自由になったって行くとこも帰るとこも無い! だったら出来るだけ優しそうな人に買ってもらうしか無いだろ!? だからアンタは邪魔するな! シエルさえ居れば俺たちはこのままオークションに出られる、あのおっさんがそう言ってた! だから」

「それは違うよ」

 少年はその言葉にビクリとして言葉を切った。少しだけ低く重く響いた声。エルピースは少し俯いており表情が確認出来ない。

「あの男の気が変われば、あなた達みんな死ぬんだよ? シエルが君達を守るために何をされてるか、ねぇ知ってる?」

 顔を上げたエルピースは無表情だった。けれど眼差しは強く少年を見つめている。

「そんなのっ……知ってたって俺たちに何が出来るっていうんだ? 反抗した奴だって居た、逃げようとした奴だって居たよ!! なぁ、そいつらさ、どうなったと思う?」

 少年に胸倉を掴まれ、エルピースの表情が歪む。

 胸倉を掴む手は震えていた。

 少年の瞳は恐怖で歪み、けれども口は楽しげに弧を描き口角が不気味にせり上がる。

 まるで泣きながら笑う道化師のような小さな瞳。

「殺されたよ、あんたの言う通りあいつの一声で呆気なく殺されちまった。なぁ、どうやって死んだと思う?」

 エルピースの瞳孔が開く。胸倉を掴む手が更にエルピースの首を強く締めて、息苦しさに目眩がする。

 視界が歪み少年の表情がぐにゃりと揺れる。弧を描く口元だけが視界に映る。

「俺たちの目の前で生きながら腹を掻っ捌かれた!」

 牢屋の中に甲高い悲鳴が響く、子ども達の数人がその光景を思い出したのか発狂し泣き出した。

 ただ震える子も、耳を塞ぎ怯える子も居る。

「俺は忘れない、俺の親友だったんだ……痛いやめて、助けて、痛い……絶叫して死んだんだ!!」

 静寂に嗚咽だけが響く中、少年の手が力なくエルピースの胸倉から離れ落ちた。

 少年は俯きただそこに立ち尽くして居る。

 エルピースは少年を、子ども達を見回した。

 かける言葉がある筈もなく、けれどもエルピースは一度目を閉じて、そして開く。

「それで、諦めるの?」

 少年は顔を上げた。目を瞠り直後その表情は怒りに変わる。

「親友を殺されて、怖いから諦めて、それでどうするの? 親友を殺した奴らの奴隷になってへこへこするの?」

「黙れ!!」

 少年の絶叫はその喉を焼くほどに強く空気を震わした。それでもエルピースは微動だもせず少年を見つめた。その瞳にさらに少年が逆上する。

「てめぇ!!」

 鈍い音が響いた。エルピースの頬を少年は拳で殴り付けたのだ。その衝撃で横を向き髪が乱れたエルピースの表情は見えなかったが、ゆっくりと赤く腫れ始めた頬に、不気味な程に白い手が伸びて少年は思わず後退った。

「痛いね」

 呟いた。じんじんと熱を持ち始めた頬は確かに痛く熱く表情が思わず歪む。エルピースは少年を見た。少年は途端驚いたように目を見開きながら眉間に皺を寄せる。

「その拳を、向ける相手は私じゃない」

 エルピースはただ真っ直ぐに少年を見つめていた。

 いつの間にか子ども達の嗚咽も消え、牢屋には静寂が広がっている。

 少年の瞳が揺れる。やがてぺたりと力なく膝をついた。

 子ども達はその様子をただじっと見ている。呼吸をも潜めエルピースと少年を見ている。

「私は私の目的のために動く。その為にあなた達を犠牲にしたとしても、私は諦めない」

 少年がエルピースを睨んだ。けれどエルピースも表情を変えることなく少年を見つめ返す。

「ふざけるな!! 偽善者ぶって、結局お前も俺達を犠牲にするんじゃねぇか!! 結局お前も……あいつらと一緒だ!!」

「そうだよ……!!」

 空気が震えた。今度はエルピースが喉が痛くなるほど叫んだ。

「私も、あいつらも、みんなも、何も違わない! だからこそ、私は誰かの言いなりになんかなりたくない!」

 抗わなければ他人の思惑に流されて終わるのだ。そんなのは嫌だ、どうせ流されるなら奇跡を信じてもがき苦しんだ方が良い。

 ここが深い深い水底ならば、水面を目指してただひたすらにもがくしか無いのだ。

「私は脱走する、シエルを助ける為に君達も自由にしてみせる。それが嫌ならいつでも私を殺せばいい。でも、そう簡単に私も殺されたりはしないよ?」

 子ども達に、少年に視線を投げかける。

 皆、何も言わずにエルピースをただ眉を寄せ見つめている。推し測られている。けれどエルピースはもう虚勢を張るしかなかった。

「でもね」

 苦笑する、自分でも思う、無茶苦茶だと。

 本当は死ぬほど怖い、自分のせいでこの子達を殺すかもしれない、上手くいかないかもしれない、上手くいったとして、この子達が、シエルが、幸せになれるなんて保障もない。

 震えそうになる手で拳を握る。

 息を深く、肺の奥まで吸い込んで………ゆっくりと吐き出せば、ほんの少しだけ心が静まる。

 顔を上げた。皆を見つめた。

「出来る事なら、どうか力を貸して欲しい。そうしたら私も、みんなに全力で応える。殺された子達が血を流してまで掴もうとした未来を……無残にも奪われた未来を、みんなの運命を、必ずその手に取り戻してみせる……!!」

 覚悟は決まった。あとはやるしかない。

 少年は黙り込み、俯いた。牢の中の子ども達は皆少年を見つめている。

 やがて少年は顔を上げ、エルピースとは目も合わせずに、けれど黙って立ち上がると牢屋の扉に手をかける。

「お前を信じたわけじゃねぇ、俺は……親友の為にやるんだ」

 言いながら少年は扉をくぐり牢に戻る。

 そして子ども達の視線はいつの間にかエルピースに集中する。何対もの瞳に映り込む自分の姿に、エルピースは息を呑み、身震いした。

 今ここで、自分の双肩にこの子ども達の命が掛かった、その事に、心臓が震える。

「ありがとう、みんな」

 自分も牢に戻り、錠前をさも付いているように誤魔化してから、エルピースは出来るだけ明るく微笑んだ。

 やるしかない、やってみせる。

 エルピースの思考が始まる。

 あらゆる手段、あらゆる方法を、ありったけ出来るだけ、考え続けろ。

 その様子を、子ども達は黙って見つめていた。

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