二話 その男、指名手配犯につき


「おい! 起きろ!」

 耳元で劈くように響いた少年の声にエルピースの意識は半ば強制的に覚醒した。跳ね起きて周囲を見れば、先程の三人が自分を囲んで立っている。

「出るぞ!」

 少年がそう告げると、まずレイブンが地下水脈を奥へと歩き出した。足場も悪いその天然の洞窟を驚くほど軽やかに進んでいく、何という身体能力だろう。

「ほら、行くぞ!」

 少年はそう言ってエルピースの背中を押した。すでに少女はレイブンの後に続いてたどたどしく洞窟を進んでいる。それに続けということだろう、どうやら少年が殿を務めるつもりらしい。

 とりあえず言われた通りに少女の後を追うと、少しの傾斜を歩くだけでも苦しそうにぜいぜいと息を切らしているようだった。

 と、少女が足を滑らせたのでエルピースは咄嗟に少女の腕を掴む。

「あ、ありがとう……」

 自分より幼い少女は、一瞬戸惑ったようだったがすぐに凛とした様子で笑った。そういう教育を受けて来たのが分かる、育ちの良さそうな笑顔である。それを見て何を思ったのか、エルピースは満面の笑みを浮かべるとピッと少女のスカートを指差した。

「それじゃ歩きにくいでしょ、結んだ方が良い。貸して」

 エルピースは手慣れた様子で少女のヒラヒラと長いスカートを束ねて短くまとめてやった。

「私はエルピース、あなたは?」

 少女は目をパチクリさせて、けれども直後何とも嬉しそうにあどけない笑顔を見せた。

「私はシエル!」

「よし、シエル! 一緒に頑張ろう!」

 エルピースは言うとシエルの手を取って自分もやや危なっかしい足取りで歩き出した。

 一連の様子を眺めていたシーザーは、シエルの笑顔を見て柔らかく微笑むと、「危なっかしいなお前も」と二人の後に続く。

「少年は少しは慣れてるみたいだね」

「少年じゃねぇ、シーザーって立派な名前があるんだ」

「じゃあ、シーザー!」

 屈託もなく笑ったエルピースにシーザーは呆気に取られたようだったが、レイブンが遠くでこちらを振り返っているのに気付くと、慌てて「急ぐぞ」と二人をせっつく。

「それで、これからどこへ行くの? 何か急いでるみたいだけど……やっぱり見つかるとヤバイとこなの?」

 せっせと歩きながらエルピースが尋ねる。

 しかし、シーザーは何やら言い淀んでいるようで返事がない。不思議に思いシーザーを振り返ったところで、前を行っていた筈のレイブンの背中にぶつかった。

「いったた、急に止まらないで欲しいなぁ……」

 見ればレイブンの前方には出口らしき光が見えていた。それに気付いて思わず向かおうとしたエルピースをレイブンが片手で制す。不穏な空気を感じ取ってか、レイブンの背後でシエルもシーザーにそっと寄り添う。

 エルピースは光の向こうに目を凝らした。

「いらっしゃーい、待ってたわよぉ」

 その光の中から響いた声に、エルピースは思わず眉をしかめる。その声は、口調に反して明らかに低く、男の声色だったのだ。

「レイブン!」

 シーザーが引き返そうと振り返ったが、いつの間に居たのかそこには既に帝国の兵士が数名、行く手を塞いでいた。

「レイブン~? 誰のことかしら、ねぇ? まあいいわ、ここで会ったが百年目、国宝シュヴェルトライテを返してもらいましょうか?」

 少しずつ光に目が慣れて、エルピースはようやくその洞窟の出口から自分たち……いや、レイブンに話しかけているであろう人物を見た。

 とても既視感がある。エルピースは目を細くしてその男であろう人物を凝視する。

 長い薄茶の髪を一つに束ね、少し切れ長の茶色い瞳。男にしては線が細く、涼しげで鼻筋の通った顔は美形と言っても良いだろう。そうか、この女のような男は先ほど遺跡で見かけた兵士と一緒に居た人物ではないか。

 見つめられているのに気がついたのか、その男とエルピースの視線が合う。瞬間、何故か男はエルピースに向かってバチコンとでも音がしそうなウインクを繰り出した。

 その瞬間、言いようもない寒気がエルピースを襲った。

 そして思う、何だこのオカマは、と。

「何か訳分かって無さそうなお嬢さんねぇ? でもごめんなさい、この場所に居るってこと自体が、申し訳ないけど……罪なのよ?」

 ぞくり、今度は別の意味で寒気のするドスの効いた声だった。そしてその声と同時に兵士たちに取り囲まれ、三人は同時に縋るようにレイブンを見つめる。

 レイブンの瞳は真っ直ぐに例のオカマを見つめていたが、やがて静かにその両手を挙げた。

「な………レイブン! 何でだよ!?」

 怯えるシエルを庇うように立っていたシーザーが責めるようにそう叫んだ。

「あんたならこんな奴らすぐ片付くだろ!?」

 しかしレイブンは何も答えない。エルピースはそんな二人のやりとりを訳が分からずオロオロ見つめるしかなかった。

「はーい、とりあえず全員縛っちゃって?」

 そんなエルピース達の様子など気にも止めず、オカマの鶴の一声で取り囲んでいた兵士が一斉に飛び掛かってきた。

 兵士は全部で六人、それからオカマを入れれば計七人。悲しいかなエルピースにどうにか出来る人数でもなく、一同はろくな抵抗も出来ぬまま、気がつけば全員縄で腕を拘束されてしまった。

「くそ! 離せよ、離せっつーの!」

 シーザーだけは最後まで抵抗していたけれど、レイブンは不気味な程に静かで無抵抗だ。シエルは諦めたように俯きその表情は暗い。

 未だに混乱して状況が飲み込めないエルピースは、引かれるまま兵士達の後に着いて行った。

 洞窟の外に出ると、眩しすぎる太陽に目が眩む。ぎゅっと目を瞑ってから本当に少しずつ少しずつ目を開くと。

「……滝……!!」

 目の前に現れたのは、まさしく滝であった。更に辺りを見渡せば、どうやら滝の向こうには渓谷が広がっている。その渓谷には見覚えがあった、港町に着く前に確か自分が橋を渡って通り抜けた、渓谷である。

 まさか海辺のパイプからこんなところにまで繋がっているなんて、エルピースは呆然と滝を見つめた。

「とりあえず谷から出ましょう」

 皆、沈黙していた。兵士たちも無駄口ひとつ叩くこと無くエルピース達をテキパキと渓谷からすぐの草原に連行する。

「さて、じゃあしっかり全員縛り上げておいてくれる? 二人見張りに残って、他四人はこっち」

 それからオカマの指示通り、エルピースたちはひとまとめに縄で縛り上げられ、兵士たちは崖から滝の方を見ながら何やら話し合っているようだ。

『みんな、よく聞いて!』

 と、不意に耳元で聞きなれない何とも言えない人のようなそうでないような、とにかく違和感のある発音の可愛らしい声が聞こえて、エルピースは思わず顔を上げた。

『僕が今から縄を切るから、三人は街の方へ走るんだよ! 街は人で溢れてるから何とかやり過ごせば逃げ切れるからね!』

 もしかしてレイブンが裏声で話しているのだろうか、だとしたら申し訳ないが気持ち悪い。そう思いながら声の方に目を向けたエルピースはさらに驚いて目をひん剥いた。

 そこには小さなリスザル、のような物体がシーザーの頭の上で何やら可愛らしく毛繕いしていた。毛繕い、と言ったがこのリスザルは毛が生えていない。リスザル、の形に似ているが素材は全く違う。

 エルピースの頭はこれが何なのか考えることを放棄した。とにかくそれは、何だか見たこともない石のような銀のようなそんなもので出来ていて、まるで物のようなのだ。けれどそれは本物のリスザルのような形をしていて、動き、そして人間の言葉を喋っている。

 シーザーとシエルもそれを見たことがなかったのか、エルピースと同じように理解を超えた呆気の表情をしていた。

「おい、お前」

 そんな中、再び響いた聞き慣れない声にエルピースは慌てて声の主を振り返った。

 この状況でやけに落ち着いた低い声。

 エルピースはその人物を見ながら、そう言えば今初めてこの男の声を聞いたな、などと場違いな事を思った。

「二人を連れて逃げられるか?」

 真後ろに縛られたエルピースにだけ聞こえるほどの声。

 その台詞に少しだけ驚いて目を僅かに拡げたが、エルピースはすぐにどこか擽ったそうに破顔した。

「あんた、会ったばかりの私を使おうなんて………見る目あるね」

 レイブンは何も言わなかった。だからエルピースは言葉を続ける。

「お前じゃない、エルピースだよ、レイブン」

 ハッキリと、凛とした声。

 その言葉に、その声に、レイブンは僅かに目を見開く。

『さあ、行くよ!!』

 直後リスザルが叫び、瞬間閃光と共にズバリと縄が引きちぎられる音が響いた。

『振り返らず走って!!』

 その声と同時三人は立ち上がるとがむしゃらに街に向かって走り出す。

 背後で兵士のしまったという声が響くが、三人は言われた通り振り返らずに走り続けた。シエルが苦しそうに息をするのを、シーザーが必死に手を引いて走る。まだ追っては無いようだ、エルピースも二人と背後の様子を伺いながら走った。そしてやっとのことで渓谷に架かる街への橋へ辿り着く。

「シエル、落ち着いて渡れば大丈夫。呼吸を整えて、追ってはまだ無いからね」

「エルピース、ありがとう……」

 苦しげなシエルの背に手を添えて、優しく微笑みかけながらエルピースはまずシエルとシーザーを先に行かせた。

 二人が橋を渡り切り、エルピースを振り返る。けれど何故かエルピースは橋の向こうに立ち尽くし、にっこり笑って手を振りかざした。その手には、短剣が握られている。

「エルピース!?」

 幸い、立派な橋ではなかった。幅は大きいしあまり揺れないように頑丈に作られてはいたが、そこはメインストリートでは無かったため縄で作られた吊り橋だったのだ。その縄を、エルピースは短剣で断ち切った。

 無残にも橋は谷底へと落ちて行く。

 エルピースは笑顔で、シエルとシーザーは悲痛な顔でそれを見つめた。

「これで少しは時間も稼げるでしょ! あ、あとあんたの懐に入れた財布、それはあげるから二人で大事に使いなさい!」

 エルピースは橋の向こうから大声で言った。

「エルピース!? どうして……!?」

 シエルも叫ぶが、直後ゲホゲホと激しく咳き込んだ。

 シーザーはエルピースを見つめた。エルピースは笑顔で手を振っている。懐には、いつ入れたのか確かにエルピースの財布があった。

 彼が妹の治療費のために盗んだであろう、あの財布が。

「何も……なにも知らない癖に、何で……!?」

「いいから早く行きなさい!! これだってどれくらい時間が稼げるか分かんないのよ!?」

 エルピースが叫んだ、そして「じゃあね!」とだけ言うと走って来た道のりを引き返して行った。

 シエルはそれに思わず手を伸ばしたが、シーザーがその手を力強く掴む。

「お兄ちゃんっ」

「行こう」

 強く、強く握りしめる。その兄の手の力強さにシエルは涙が出そうになるのを必死に堪えた。

 シーザーの目尻に、微かに涙が滲んでいたから。

 二人の兄弟は、振り返らず街へ向かって駆け出した。

「行ったかな……」

 その様子を遠目で確認してから、エルピースは再びレイブンのもとへと走り出した。

 彼を全面的に信用する訳ではないが、あの兄妹を疑うことはしたくなかった。だから二人だけでも逃げられるよう、今自分ができる最善を尽くした。

 昔自分もそうだったから分かる、シエルはそれほど体が丈夫では無いのだろう。ちなみに自分自身、まだそんなに体力がある訳ではない。そんな三人で走った所で、街まで辿り着けるかどうか……身体能力の高いレイブンが思うようには行かないだろう。

 二人を逃がし、自分は戻る、それが最善。

 後のことは、考えないようにした。

 考えなかったからここまで来られたのだ。エルピースが見つめるのは、ただ理想に満ちた未来だけ。それだけ見つめていれば、絶対にいつか辿り着ける。そう信じてここまで来た。

 先刻の場所が見えるところまで戻って来たエルピースは、目に飛び込んで来た光景に表情を険しくし、気を引き締める。

 そこには大剣を構えたレイブンが、兵士六人と対峙している姿があった。

「レイブン!!」

 声を掛けると、レイブンは心底信じられないといった表情で振り返り、直後今までで一番の剣幕でエルピースを睨み付けた。

「何故戻った!?」

「ひぃっ、そんなに怒る!?」

 言うとエルピースは鞄から短刀を取り出した。この旅を何とか続けて来られた護身用の相棒だ。

「お嬢さん、抵抗するなら本当に罪人になるわよ?」

 その様子に間髪入れずオカマがエルピースを牽制したが、エルピースは取り出した短刀を戸惑いもなく構え、レイブンの隣に並んだ。

「まあ、いいわ。逃げたお子様も捕まえなきゃだし……さっさとやっちゃいましょう」

 その言葉を合図に、兵士達が一斉にエルピースとレイブンに襲いかかる。

 直後、激しい紫色の閃光が轟音と共に瞬いた。

 あまりの眩しさに咄嗟に目を瞑ったエルピースは、恐る恐るゆっくりと瞼を開く。

「す、凄い……」

 そして視界に飛び込んできた光景に、思わず感嘆の声が漏れた。

 レイブンは今の一瞬で兵士六人を全て倒していたのだ。しかも大剣を鞘から抜くことなく、全員殺さず気絶させている。

「すっごい!! 余裕じゃん! レイブン強い!!」

 こんなに強いなら、問題なく逃げられるじゃないか!

 エルピースは安心して喜びのあまり万歳しようとしたのだが、気が付けば誰かの腕に囚われ首元にナイフを突きつけられていた。

「全く、アンタも実は強いのかと思って焦っちゃったわぁ、でもその短刀は護身用の飾りってとこだったみたいねぇ、お嬢さん」

 頭上から聞こえて来たのは、オカマのどこか間の伸びた声。

 そして目の前に居るレイブンは、真剣な顔でエルピースの頭上を睨みつけていた。

「さあ、大人しく来てもらいましょうか? こんな所で雲隠れしてたアンタを見つけられるなんてラッキーというかなんというか」

 レイブンはその言葉に構えていた大剣を静かに下ろす。それから淡い光に包まれたかと思うと先ほどのリスザルの姿に戻り、レイブンの腕を登って肩に腰を下ろした。

「それが………ワルキューレか。その謎の閃光といい、今の変形といい、私達の技術では考えられない、魔法のようだわ」

「ねぇ、オカマ! 私達ってあの遺跡への不法侵入で捕まるんだよねぇ!?」

 叫んだ瞬間、後頭部の髪を掴まれ乱暴に下に引っ張られ真上を向かされる。首からゴキリと嫌な音がしたが、目の前にあるオカマの笑顔の方が百倍恐ろしくエルピースは口を噤んだ。

「口の利き方ってもんを覚えなさい、お嬢さん? まぁいいわ、私はアリス。一応国軍の幹部なんだけど……まぁ、私を見てピンと来ないんだから知らないんでしょうね、世間知らずさん」

 アリスのナイフがペシペシとエルピースの頬を叩く。その間もピクリとも動かないレイブンの様子からして、このアリスという男がかなりの手練れということは分かった。この人はこんなに余裕たっぷりなのに、あれだけ強かったレイブンが微動だにしない程に、隙がないということか。

「少しはお利口になったみたいね、それじゃあ良い子のお嬢さんに教えてあげる」

 再びナイフが首元に戻り、アリスの顔がエルピースを覗き込む。寒気がするほど、代わり映えの無い普通の笑顔だった。こんな状況なのに、この男は平常心なのだ。

「あんたは不法侵入よ、でもその男は国宝を盗んだ重罪人。それに……五年前のヴァンガード家の惨劇の重要参考人として招致もかかってる。自分で分かるわよね?」

 アリスは目を細めレイブンを見つめる。レイブンは無表情のまま何も語らなかった。エルピースは困惑する。自分を助けてくれた青年が、まさかそんな犯罪者だなどと思いもしなかった。しかも惨劇の重要参考人、などと穏やかではない響きだ。

 嘘だと言ってほしい、縋るようにレイブンを見つめたが、決して目が合う事は無かった。

「そろそろ起きなさい!! お前達!!」

 アリスの地を這うような怒号が響き、倒れていた兵士達がびくりと跳ねて、慌てて起き上がる。

「さて、そろそろ竣工式が始まっちゃうわね……お前達は先に街に戻りなさい。このお嬢さんは牢へ、残りの子供二人もさっさと見つけて捕まえちゃってくれる?」

 見ればレイブンは再び縄を掛けられていた。

 エルピースも兵士の一人に引き渡され、再び縄で縛られる。

「レイブン、お前は私と行くぞ」

 それから、アリスはレイブンの縄を引くと肩に乗っていたリスザルを掴もうとした、が、リスザルは器用にもレイブンの肩から飛び降りて逃げ出してしまった。

「お前達捕まえなさい!!」

 アリスの号令で兵士達はチョロチョロ逃げ回るリスザルを追いかける。いかしお互いに頭をぶつけ合ったり転んだり、良い様に踊らされている。その上手く捕まえられない様子にエルピースは思わず吹き出してしまった。

『エルピース!』

 そして気付けばリスザルは、エルピースの肩に乗っていた。

 それを兵士がふん捕まえようとしたが、リスザルがエルピースの首に掴まる力は凄まじく、大の大人が本気で引っ張ってもびくともしない。

「いっだだだだだだ!!」

 何なら先にエルピースの首の肉が剥がれそうである。

「やめて!! 首がもげるー!!」

 エルピースが泣き叫んだのを見て、さすがの兵士も手を離しアリスの方を窺い見る。

 その一連を見ていたアリスは、心底面倒臭そうに大きな溜息を吐いてから、心底嫌そうな顔をしてエルピースに歩み寄り、その縄の端をむんずと掴んだ。

「私は今からこの二人を連れて例の場所へ行く、お前達は街で子供の捜索。分かったら駆け足」

 兵士達は、アリスの言葉に敬礼だけすると逃げるように街へ走って行ってしまった。少し心配だったが、一番近い橋は壊したのだからかなり遠回りになるだろうし、後は二人が上手く逃げてくれることを祈るのみである。

 エルピースがレイブンの方に視線をやると、レイブンもこちらを見ていたようで目が合った。

「レイブン、聞きたいことがたくさんあるんだけどさぁ、とりあえず貴方って悪い人……?」

「………」

「……言い訳とか、そういうのは無いの?」

 レイブンは少しだけ黙り込んだが、すぐに「別に」とそっぽを向いてしまった。その代わりのように、アリスが「教えてあげなさいよ~? レイブンちゃん」とからかったが、レイブンはそれには表情ひとつ変えなかった。

「つまんない子ねぇ? お嬢ちゃん、まぁ放っておいてあげなさいな、誰にでも秘密はあるでしょう?」

 アリスの含んだような言い方は少し引っかかったが、「そうなの? レイブン」と問いかけると無言だったので、エルピースはそれを肯定と捉えそれ以上の追求は控えることにした。

「ヴァン・ヴァンガード」

 急にレイブンが呟き、エルピースを振り返る。その言葉の意味が分からず首を傾げれば、レイブンは驚いたように僅かに目を見開いた。

「お前、知らないのか……?」

「私ね、ずっと山で育ったからさ。世間知らずなんだよね」

 エルピースは照れたように舌を出して笑って見せた。その様子にレイブンは毒気が抜かれたようにひとつ息を吐くとそっぽを向く。

「いずれ分かる……」

 しかし最後にそう呟いたレイブンは、どこか寂し気に遠くを見ているようだった。

 会話が切れた頃、一行は先程の滝の裏に辿り着いた。それから再度洞窟に入り、先刻とは別の細い横道へと連れて行かれる。そこを抜けるとやはり地下水道に出て、迷宮のようなその道を迷いなく進んでいく。道中、レイブンはエルピースが何を聞いても、それ以上は何も答えてはくれなかった。アリスもまた、先ほどまでとは違いちゃちゃを入れてくることもなかった。

 地下水道をかなり進んだ頃にはエルピースも諦めて、小さく溜息を吐いたところで、道の終わりはやって来た。

 そこは先程の、古代遺跡であった。

 エルピースがいたバルコニーでは無く、そこから見えた左の出入口のようだ。

「文献によれば、ここに国宝級の古代遺物が眠ってるって話なのよ。でもそれが眠る場所に行くには共鳴の力が必要、てのがさっき分かったのよね」

 頼まれてもいないのに説明しながら、アリスは軽々と島を渡っていく。レイブンも涼しい顔で渡っているが、エルピースの足の長さと運動能力では正直かなりきつい。毎回必死で飛び越えて、扉の前に着いた頃には一人だけ息切れをしていた。

 そこはやはり見上げると首が痛くなるほどの巨大な扉で、よく見れば翼が描かれている他につらつらと文字が描かれている。

 するとエルピースは急に扉に駆け寄ると、まじまじと描かれた文字を見始めた。

「ちょっと、なぁに?」

 アリスは繋いでいた縄で逆に引っ張られる形になり、不満そうな顔をしてエルピースを見やる。

「共鳴せよ、扉は開き、二つの羽ばたきは同時に目覚める……」

「そうそう、共鳴とかなんとか……って、は?」

「ワルキューレは九つでひとつ、全て集めよ……願いを叶えたいのなら」

「な、これ古代文字よ? まだ解明もされてない……私だってまだ齧りしか理解出来てないのに……」

「エルピース……?」

 アリスは驚愕した、彼の言う通りそこに描かれているのは古代文字、まだ誰も解き明かしてはいない文字。

 レイブンも驚愕した、けれど彼はアリスとは違う理由である。

 エルピースは他の文字と違い一か所だけナイフで掘られたような文字の前に立ち、瞳から音もなくポロポロと涙を流していたのだ。

「我、西で待つ……希望を信じて……サンジェルマン」

 そこまで読み上げて、エルピースはただハラハラと涙を流し続けた。これにはさすがのアリスも何も言えずその姿を閉口してただ眺めている。

 しかしその彼女の肩に居たリスザルが、少しずつ輝き出しているのを見留め、アリスは真剣な表情に立ち変わると遺跡の扉を見つめた。

 地響きが唸りだす。地面全てが激しく揺れて危なく立って居られないほどの地響きが。

 直後出入口側の天井が落下し水飛沫が舞う。天井の倒壊はその侭まるで仕組まれた様に順々に一行の居る扉の方へ向かってくる。

「エルピース!」

 未だ涙を流し立ち尽くすエルピースにレイブンが咄嗟に大声を上げた。

「まずい、天井が崩れる!!」

 アリスは叫びながらナイフを懐から取り出すと、レイブンとエルピース二人の縄を迷いなく切った。しかし二人を自由にしたところでどう脱出するものか、エルピースは周りの様子など意にも介さぬようにいまだに泣き崩れており、レイブンはそれを庇うように覆いかぶさる。

「シュヴェルトライテ!!」

『えぇぇ、とりあえず、ここに眠ってるっていうワルキューレを目覚めさすしかないと思うけど』

「どこにいる!?」

『それが、確かに起動した反応はあったんだけど……何でかこの辺りにはいないんだよね……』

 レイブンは未だに泣いているエルピースの両肩を勢いよく掴む。

「エルピース!! 何が書いてある!?」

 レイブンが、そしてアリスもエルピースを見つめる。その間も天井の倒壊は進み扉へと迫る、すべて崩れ去るのも時間の問題だ。

「エルピース!!」

 レイブンが再び叫んだ言下、肩に置かれたレイブンの手をエルピースの手が掴む。そして立ち上がり、エルピースは扉を見つめた。

「比翼の鳥よ、共に羽ばたけ、光に進め」

「……どういうこと?」

「その扉の上に書いてある文字だよ」

 アリスの問いかけにエルピースは堂々と答えた。先程まで泣き崩れていたとは思えないほど落ち着いている。

 レイブンから離れ、エルピースは肩に居たリスザル……シュヴェルトライテをレイブンにそっと手渡した。

「行こう、レイブン!」

 シュヴェルトライテがレイブンの肩に戻ったところで、エルピースはニカッと笑う。それから彼の手を引いて、右の翼の前に立たせる。

「アリスさんもついでにどうぞ」

「ついでとは言ってくれるわね? まあ、でも今はお嬢さんを信じるしかないものね」

 エルピースは二人をそこに残すと、自分は左の翼へと移動する。

「二人とも、翼に手を当てて!」

 言われる侭に、アリスとレイブンが手を翳す。

 それを確認して、エルピースが左の翼に触れた途端、急に翼が真っ白に発光する。

「ハァ!?」

 アリスは咄嗟に手を離してしまった、その様子を見たエルピースも咄嗟に手を離す。

 やがて光が消えると、そこにレイブンの姿は無かった。

「なっっ……嘘でしょう?」

「アリス! 私を信じてもう一度やって、お願い!」

 いよいよ天井の倒壊が目前まで迫っていた、時間が無い。必死で語り掛けるエルピースに、今度こそ覚悟を決めアリスは翼に手を触れた。 

 瞬間、やはり真っ白な光に体を包まれる。

 やがて光が消えて、目を開けたそこは自分は一歩も動いていないのに見たことも無い場所へ移動していた。呆然と立ち尽くし自分の体を思わず眺める。特に何も変わりはないようでほっとする。

「良かった、助かったみたいだね」

 その声の方をアリスが見れば、エルピースは嬉しそうに、レイブンは辺りを訝しげに眺めながら立っていた。

 そこは、岩でもない、石でもない、甲冑の素材に近いだろうか? なんとも言えないツルツルピカピカの壁に、小さな色とりどりの光が点滅するあまり広くは無いドーム型の空間だった。

「な、によ、ここは………」

「凄いねぇ」

 エルピースは言いながら壁をやたらと見つめている。

 レイブンはというと、何故だか落ち着いた様子でそんなエルピースを眺めている。

「あんた、驚かないのね?」

 その様子を怪しそうに見つめるアリスに一瞥をくれることもなく、レイブンは涼しい顔で自分に擦り寄るシュヴェルトライテを撫で始めた。それはまるで動物のように動いているが、その体はこの部屋を構成するものにとても似ていた。

「これも、古代遺物ということか……」

 感嘆の声を漏らすアリスをよそに、エルピースはピカピカと光る壁を飽きずにまだ見つめている。

「綺麗な壁~」

 しかし、発せられたそのいかにも間の抜けた声に、アリスとレイブンの視線が一斉にエルピースへと向けられた。

「えーと……あんたさ、何か知ってるのよね?」

 アリスの問いかけにエルピースは笑顔になると、そのままゆっくりと首を傾げてみせた。

 その様子にアリスは硬直し、その背後ではレイブンが呆れたように手で顔を覆った。

「え? 何で? アリスとかレイブンの方が詳しいんじゃないの?」

「あんな自信満々に私たちをここに連れてきたじゃない!」

「あ、あれはね、昔おじいちゃんが寝る前に話してくれたお伽話にそっくりだったから、その通りにやってみたの」

「はぁ?」

 そんなお伽話があっただろうか、アリスは明らか疑わしそうに目を細めてみせる。

「だ、だって本当だよ!」

「いや、あんたに期待した私が馬鹿だったわ。何で古代文字が読めるのだとか、そのおじいちゃんの夢物語とか、色々聞きたいこともあるけど………」

 じとりとした目で見つめられ、エルピースは思わず縮こまる。

「シュウ、何か分かるか?」

『え? 僕?』

 と、レイブンが肩で寛いでいたシュヴェルトライテに声をかけた。どうやら普段は呼びやすくシュウと呼んでいるらしい。

 シュヴェルトライテはレイブンの肩からエルピースの肩に飛び移ると、エルピースの目の前の壁をじっと見つめくんくんと鼻を動かした。

『正直僕もこういうの詳しくないんだよねぇ……』

「さっきの扉には共鳴して扉が開いたら二つの羽ばたきが目覚めるとか書いてあったよ?」

『共鳴はもう止まっちゃったなぁ』

「よく考えたら私たち、この空間に閉じ込められちゃってるのよね? どうやって出ればいいのかしら」

 ぽつり、アリスの呟きにエルピースはたらり冷や汗をかく。

 沈黙が降りた。

 アリス、レイブン、エルピースの三人はそれぞれ距離を取って佇んで、お互いに出方を観察しているようだ。その間も不思議な部屋の無数の光は点滅する。

「あ、そ、そうだー!」

 業とらしくエルピースが手を叩きながら大声を出すと、レイブンとアリスを交互に見ながら「二人は知り合いみたいだけど、どこで知り合ったの?」と笑顔を作り場を和ませようと試みる。

「そりゃ私は軍人だもの。指名手配犯くらい知ってるわよ」

 しかしバッサリとアリスに切られ、笑顔のまま固まる。

「あ、じゃあレイブンはアリスを知ってるみたいだったけど!」

 しかし懲りずに今度はレイブンに話を振る。

「何度か捕まりかけた」

 不穏である。

 分かってはいた、こうなることは目に見えていた。しかし沈黙に耐えきれずつい余計な事をしてしまったエルピースは更に二人の空気が張り詰めてしまったことに嘆息しながら壁に手を付き寄り掛かった、瞬間だった。

 ピピ、そんな笛のような無機質な音が鳴った。

「な、何!?」

 エルピースが叫ぶ。

 三人を囲んでいた壁の光が、急に赤と白交互に点滅し、とても高いピーという音が高らかに響いた瞬間、真っ白い光に包まれた。

 レイブンとアリスも何が起こるかと黙って身構える。

 直後、光が消えたかと思うと三人の目の前に巨大な鮫が大きな口を開けて眼前まで迫って来ていた。

「ひぃぃ!!」

 思わずエルピースがレイブンに飛びつき、アリスも思わずレイブンの後ろに隠れる。しかしその鮫はみるみる足元に沈んで行き、上を見ればキラキラと水面が揺れているのが見えた。

「何、これ……?」

「海、の中?」

 エルピースの疑問にアリスが答える。自分たちのいる場所には水はないのに、周りは全て水で、いや……海で囲まれている。恐る恐る手を伸ばせば、壁があった場所は固い感触があり水まで手が届かなかった。見えないのに、そこに、壁があるような。

 けたたましい音を立て、その空間は水面を割り海面へと浮上した。

 見えない壁を水が落ちて行く。

 全ての水が落ち、辺りに広がった景色に三人は思わず息を呑んだ。

 青い空、青い海、そして今日竣工式を迎えたであろう巨大な帆船が眼前に聳えていた。

「すごい、ここ……海の上だ!」

 エルピースが興奮してレイブンの腕をブンブン振り回している。

 アリスはと言えば、目の前にある豪華絢爛な帆船を呆然と見上げていた。

「ん、あれ?」

 アリスの目線に倣うように空を見上げたエルピースは、その空に黒く小さい影を見つけた。その形に、何やら既視感を覚えて目を細める。太陽の光で眩んだ目では、あまり良く見えず限界まで目を細めていると、その影はどんどんこちらに近付いているように見える。

「ねぇ、ねぇレイブン、あれ」

 手を引かれ、レイブンはエルピースが指差す方を見上げる。

 レイブンはそれをカモメだと思った、だがそのカモメがどんどんこちらに向かって来る。

「ねえ、ねえレイブン!」

 エルピースは怯えたようにレイブンの腕を激しく引く。しかしレイブンは表情ひとつ変えず警戒するように身を構えた。

 物凄いスピードで、その鳥は真っ直ぐにこちらを目指して下降している。このままでは確実に激突する!

「……あれは……!!」

 しかし、あと少しで激突というところでエルピースはその既視感を唐突に思い出した。

「ホーク!?」

 高らかに、ホークと呼ばれた鳥の鳴き声が響き三人の居る空間の直前でバサリと優雅に羽ばたく。

 ホークとは、エルピースがかつて飼っていた伝書鳩の名であった。

 黒い影から色を取り戻し間近に迫るホークの姿形は、しかしエルピースが知るホークとは似ても似つかない容姿をしていた。

 それはそう、まるでシュヴェルトライテのように形は鳥なのに、まるで物のような容貌なのだ。

「……ブリュンヒルデ様っ!」

 ホークが優雅な仕草でこの空間の屋根に舞い降りたのと同時、今まで沈黙していたアリスが急にその場で跪く。その顔には先程とは比べ物にならないほどの冷や汗が浮かんでいる。

「ブリュンヒルデ!?」

 そして次にエルピースが叫ぶ。アリスが口走ったその名に激しく動揺した様子で壁に張り付くと必死の形相で頭上を見上げた。

「アリス!! どこ!? ブリュンヒルデはどこなの!?」

 しかしどこを見てもエルピースの知るブリュンヒルデの姿は無い。そのエルピースの必死の姿に、アリスとレイブンは困惑したように顔を顰めた。

『ブリュンヒルデを探してるのね、エルピース』

 と、急に聞いたこともない女性の声のような、けれどもシュウのようにどこか抑揚に違和感のある不思議な声が響いた。

『私が探して来てあげる、だから安心して、エルピース!』

 そしてその声と共に、頭上に居たホーク……と思われる鳥の形をしたものが大空へと羽ばたいた。

「エルピース! あんたブリュンヒルデ様とどういう関係よ?」

 アリスは一連の流れに呆気にとられていたが、湧いて出た疑問に即座にエルピースを問い質す。

 ブリュンヒルデは《神の子》と呼ばれ、五年前突如現れると、数々の奇跡を起こし、遂には暗黒時代と呼ばれた大恐慌から短期間でこの国を救ってみせた偉大なお方だ。確かに一目でも会いたがる熱心な信者は数多いが、それならば呼び捨てにするのは違和感がある。

 しかしブリュンヒルデに夢中なのか、エルピースはホークの姿を必死に目で追ってまるでアリスの声など届いていないようだ。アリスは諦めて溜息を吐く。

「さっきの鳥みたいなの、あれもシュヴェルトライテと同じような姿をしてたわよね? てことはあれがワルキューレってことでいいのよね?」

 今度はレイブンとシュウの方を向いてそう問いかける。

『うーん、僕の知らない奴だったなぁ……』

 アリスの試すような視線を嫌うように、シュウはマントの中に隠れた。

『そんな事よりアンタこそ、ブリュンヒルデってのがそんなに怖いの?』

 それからひょっこりと顔だけ出して、未だに少し汗をかいているアリスの様子を珍しそうに問うた。

「……眼が合ったのよ」

 アリスは少し怯えるように自分の手で自分の逆の腕を握り締める。

「普通こんなとこ、気付かないでしょ? どういう訳か港の人たちだって誰一人私達に気付かない……きっと何か見えない魔法がかかってるんでしょうね、この部屋は」

 言いながらアリスは港に溢れる人に手を振ってみせたが、確かに誰一人気づく様子は無い。

「それなのに、眼が合った。明確に……私を見てた」

 だから怖いのよ、と。ともすれば聞き逃してしまうくらいの小声で言うと、アリスは目を閉じて沈黙してしまった。

 その様子を神妙な様子で見つめながら、レイブンは次にエルピースに視線を移す。エルピースはまだ、ホークの行方を一生懸命に追いかけているようだった。

「ブリュンヒルデ!! ヒルデ!!」

 必死に大声で呼び掛けている。ホークは船体に消えて行き、ブリュンヒルデの姿はやはりどこにも無い。

 エルピースは無我夢中だった、この5年間探し続けて来たブリュンヒルデが今そこに居るのだ。

 気付けば両手で拳を握りしめていた。

 今すぐにあそこに行きたいのに、自分はあそこに行く手段が無い。

「ブリュンヒルデ……」

 ブリュンヒルデなら、自分の存在に気づいてくれるのではないか、ホークが行ってくれた、そしてホークに気付けば、きっとブリュンヒルデはここへ自分を助けに来てくれる筈だ。

 期待を込めた眼差しを帆船に向ける。

 まだか、まだか?

 やっと会えた、辿り着いた。

「私の旅、ようやく終わる……」

 その呟きをレイブンだけが聞いていた。そして彼女の握り締めた両手が震えているのに気付く。

 レイブンも噂で聞いたことがある。《神の子》ブリュンヒルデ、またたいそうな名が付いているものだ。

 しかしだからこそ、レイブンもこの二人の接点がまるで分からなかった。

 エルピースは心の底から会いたがっている。

 けれどもブリュンヒルデはどうだろうか。同じ気持ちならば権力者になった時点でエルピースを探し出すことは容易だっただろう。

 それなのに、彼女は……こんなボロボロな姿になるまでそのブリュンヒルデという奴を探すために旅をしていたのだ。

 つまりは、そういうことなのだろう。

「!? ホーク……?」

 震える声でエルピースが呟いた。ハッとしてレイブンが見上げると、そこにはよろよろと船体から飛んでくるホークの姿があった。

「……っっブリュンヒルデ!!」

 エルピースの絶叫が響く。そこには形容しがたいほどに美しい、けれどもとても中性的で不思議な雰囲気の青年……であろうか? とにかく恐らく彼、或いは彼女がブリュンヒルデであろう人物がホークの羽をまさに今掴んでいるところだった。

「ヒルデ……?」

 エルピースの震えた声が響く。その不穏な空気に気付いたのか、レイブンが咄嗟にエルピースの両目をマントで覆い隠した。

 直後、ホークの片翼はもがれた。

 ブリュンヒルデの手によって……無理矢理に。

 そしてもう片方の翼にも手を伸ばした瞬間、どこからか湧いて来ていた雷雲から轟音と閃光がホークの体を貫いた。

 そして片翼のまま、ホークはエルピース達の頭上に転落、と思ったのだが、不思議なことに天井を抜けてレイブン達の足元に堕ちたのである。これも古代の技術であろうか。

「レイブン、離して!!」

 ホークが足元に堕ちたと同時、エルピースはレイブンのマントを振り払った。その直後、急速にその空間は再び海へと潜っていき、周囲も再びただの壁に戻ってしまった。

「ホーク!?」

 そしてエルピースは無残にも片翼となって地面に倒れているホークを見つけると、急いで駆け寄ってその体にそっと触れる。

「ホーク……っ死なないで……! 私嫌だよ……っ嫌だよホークっ」

 ポロポロと涙をこぼしながらホークを抱きしめるエルピースを、レイブンとアリスはただ見つめるしか出来なかった。

 何が起こったのか、どうなっているのか、正直彼らにも説明など出来なかったのだから。

『大丈夫よ、エルピース。自己再生プログラムを作動させたわ、およそ15分で翼以外は治るから』

 エルピースの腕の中で、ホークの声が響いた。その言葉にエルピースは縋るように「本当!?」と叫ぶ。

『えぇ、大丈夫よ。けれど片翼を奪われてしまったわ……これでは私、本当の力が出せないの……あなたの役に立ちたかったのに……』

「いいの!! そんなのっ、力なんてそんなのいらないよっっ、ホークが生きててくれただけで、私……」

 エルピースは、本当に嬉しそうに微笑んだ。

 それからホークの治癒が終わるまで沈黙が続いたが、『自己再生、完了しました』というホークの何とも言えない無感情な声と共に、ホークは片翼を広げエルピースの頭の上に飛び乗った。

「ちょっ、ホーク!」

『エルピース、この方達は?』

 ホークはまるで二人からエルピースを守るように片翼を広げている。

『お二人とも、下手なことは考えないで頂きたい。この部屋は私の管理下にある、下手なことをしたらあなた方だけ一生海の底ですよ?』

 アリスとレイブンはその迫力に一瞬生唾を呑み込んだが、その空気を割るようにいつの間にかレイブンのマントに隠れていたシュウがひょっこりと顔を出した。

『やぁ、僕はシュヴェルトライテ。君の先輩だよ! 君は?』

 何となく先輩風を全面に吹かせているのが感じ取れるシュウの挨拶に、ホークは無反応のまま妙な沈黙が降りる。

「ホ、ホーク」

 戸惑ったエルピースがそう施すと、ホークは翼を閉じて『私はホークです』と名乗った。

「あなたはワルキューレではないの?」

 アリスがそう問うたが、またしてもホークは答えず沈黙が降りる。

 エルピースは再び「ホーク、会話してあげて」とフォローを入れる。

『分かったわエルピース……ワルキューレね、確かにそうよ。ジークルーネ……かつてはそう呼ばれていた。でもさっきジークは奪われてしまったし……残った私はホークとしてエルピースと一緒に暮らしていたから、その名は捨てたわ。私はホークよ』

 アリスとレイブンはその答えに沈黙するほか無かった。一度咀嚼しなければ、なかなかすぐに理解出来る内容ではなかったのだ。

「ホークはやっぱりホークなの? あの頃は喋らなかったしもっと普通の鳥だったよ?」

『あれはサンジェルマンがジークルーネの内、私だけを起動した時に、今の世の中で私のこの姿は目立つからと擬態してくれたのよ』

「なるほど!?」

『ホークちゃん、君はどんな力があるの?』

 エルピースとホークの会話に、レイブンの肩に居たシュウが何やらウキウキした様子で割り込んできた。

『ジークが居ない今……私はただの幸運のお守りのようなもの……』

「お話中のところ悪いけど……」

 不意にアリスが低い声を出した。それにいち早く気が付いたレイブンがエルピースを守るように背中に隠す。

「シュヴェルトライテ及びジークルーネ、それは皇帝令で収集保護している古代遺物、それもS級遺物よ。私物化するとなれば極刑も免れない重罪。私は皇帝の命でこの件を預かっている、私の言葉は皇帝の言葉と思って頂いて結構。今すぐにそれをこちらへ引き渡し、この部屋から私を地上へ戻すことを命じるわ」

 そう言ってアリスが取り出したのは皇帝の紋章が刻まれた金銀宝石で彩られたコンタクトであった。エルピースは首を傾げて居たが、レイブンはそれを見て舌打ちをする。それはまさしく勅令で動いている証拠、どんな行為もその命令遂行の為なら許される最強の免罪符だ。

「うん、そうだね! 早くみんなで地上に戻ろう!」

 しかし、そんな張り詰めた緊張感など意にも介さず、エルピースの何ともお気楽な声が響いた。思わずアリスもその空気の読めなさにズッコケそうになる。

「あのねぇ、お嬢さん?」

「アリスはブリュンヒルデのこと知ってるんだよね? お願い、ブリュンヒルデの所に私も連れて行って!」

「エルピース!」

 レイブンを押し退けアリスに詰め寄ろうとしたエルピースを、レイブンが無理矢理その手を引いて自分の後ろに連れ戻す。

「よく見ろ」

 そして一言だけそう告げた。

 レイブンの背中越しにアリスの表情が見える。その表情を見つめて、エルピースはそこで初めて彼が放つ空気にぞわり寒気を覚えた。

 表情はどこか少し微笑んでいるようにも見える、けれど隙が無い。何を考えているか、まるで読み取れない。

 レイブンの背を見つめた。

 気が付けば、何の義理もないであろう自分を守るようにこちらに背を向けて立っている。その背中に守られていると思うだけで、先ほどアリスから受けた恐怖が不思議と和らぎ少しずつ頭が冷めて行く。

 ずっと会いたくて、会いたくて探し続けたブリュンヒルデを見つけて、死んだと思って居たホークが見た目は変わったが生きていてくれた。

 あの時感じた絶望……そう、急に目の前の全てが空洞になって、世界から自分だけが切り取られてしまったような孤独と不安。暗い海の底で水面を目指し、呼吸も出来ずにずっともがき続けていたような……そこにようやく光が差して、水面に出て、息をした。その喜びに、知れず気持ちが高ぶってしまっていたかもしれない。

 レイブンの背を見つめながら、エルピースまるで太陽に眩んだ視界が晴れていくような気持ちになった。

 そしてようやく、自分が置かれた状況を理解する。

「……っごめん、レイブン……どうすればいい?」

 アリスに聞こえないくらいの小声で囁いた。レイブンはそれを聞いて一瞬エルピースと目を合わせたが、すぐに真剣な表情でアリスを見据える。

「皇帝令が、ここで通じると思うか?」

 静かで落ち着いた声だった。

 アリスの瞳が鋭くなる。その殺気にたじろぎもせずレイブンはアリスを見ている。

『把握しました、ここでの主導権はこちらにあります。この者だけをここに永久に閉じ込めておくことも可能です』

 そしてそれに追い打つようにホークが続けると、アリスは先ほどまでの殺気が嘘のように急に「は~あ」と表情を崩してみせた。

「そうよね~最初っから分かってるわよそんなこと。でも仕事だからさぁ、一応格好つけとかなきゃ私も体裁ってのがあるでしょう?」

 言いながら、エルピースに向けて急にウインクをする。エルピースはそれに苦い顔をしてみせた。

「あんた達の要求は何? ただしひとつだけにして頂戴。取引よ、その代わりに私をここから出してもらう」

 アリスは言うと持っていたナイフを懐から取り出しレイブンの足元へと投げた。

 そのナイフを持ち上げ、エルピースに渡しながらレイブンはエルピースを見つめた。

「お前が決めろ」

 エルピースは目を見開く。

 たったひとつ。アリスに要求したいことは山程あるのに。レイブンにだってその状況を鑑みれば切実に何かあるだろう。エルピースにも、ブリュンヒルデに会わせてほしいという願いがある。

 けれどもたったひとつだけ。

 沈黙が降りる。エルピースは俯いてぐるぐると考える。

「お前の好きにしていい」

 けれどもレイブンのその言葉に、エルピースは静かに顔を上げるとアリスの瞳をじっと見つめた。アリスもまた、その瞳を見つめ返す。

「決めたよ」

 エルピースがにっこり笑う。

「シエルとシーザーを……街に逃げた二人を無罪放免にしてほしい」

 アリスは少しだけ驚いたように目を見開いたが、すぐに「本気なの?」と失笑した。

「あ、じゃあやっぱり全員!」

「それは無理ね、罪状が違いすぎるもの。無罪放免というならあんたか、あの兄妹かの二択よ。私も万能じゃないの、悪いけど出来ることと出来ないことがある」

「……ここから出してあげないよ!」

「それはそれで仕方無いわ、取引を諦める」

 アリスは表情を変えなかった。本気なのだろう。エルピースは緊張していたのかそこで大きく息を吐くと、再度アリスを強い瞳で見つめた。

「じゃあ、あの二人を無罪放免にして」

 束の間の沈黙の後、アリスは小さく溜息を吐いた。

「馬鹿な子ね、取引成立よ」

 アリスは微笑んでいた。それを見て、エルピースもにっこり笑う。それから恐る恐るレイブンの顔色を伺うと、その大きな手がぽすりと、エルピースの頭に乗った。

「レイブン………?」

 それは一瞬のことで、すぐに手は離れ見上げたレイブンの表情は無表情だった。その様子にエルピースは少しだけ不満そうに唇を尖らせる。

「レイブンはズルい」

 しかし返事はなく、レイブンはやなり無表情でそっぽを見ていた。

『話はまとまったみたいね』

 エルピースの頭の上でホークは片翼を広げた。

『では、地上へ』

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