8

 今日も、花帆かほは旧図書館の床に座りこんでいる。

 場所はカウンターの内側。いつも日向ひなたが寝転がっていたところだ。

 そこ俺の場所。

 ひょっこりと顔を見せた日向がそう言ってくれるのを期待している。


「死んじゃったり、してないですよね……?」


 花帆が知る日向は絶対に〝高校生〟だった。何年もこの場にとどまっている存在には見えなかった。それとも幽霊とはそういうものなのだろうか。


「どうしてわたしだけここに入れるの? 何か理由があって、入れてくれてるの?」


 今度は建物と、整然と並ぶ本たちに向かってたずねてみる。

 花帆には旧図書館と、旧図書館に納められた本たちへの共感がある。


「わたしが寂しかったから? あなたたちも寂しかったの?」


 そのとき、ぐらりと、建物全体が波打つようにしてきしんだ。近くから遠くへと、さざ波のように、本たちの跳ねるコトコトとした音が遠ざかっていく。

 咄嗟とっさに疑ったのは怪奇現象だった。けれど花帆はこの場所の心地よさを知っている。人を慰めるような優しい雰囲気を知っている。悪いことに巻きこまれるはずがない。

 ぱん!

 書架の奥から響いた落下音に、導かれるようにして花帆は立ちあがった。


「……この本」


 落ちていたのは花帆が昨日読み終えたばかりの星座の本だった。長く触れていた一冊だけが、床の上で、まるで道標みちしるべのように窓からのにぶい光を受けている。

 本を拾いあげた花帆は、きらり、と光の反射を受けた気がして窓の外に目を向けた。

 ガラスの向こう、曖昧あいまいに見える景色に覚えたのはわずかな違和感。

 腕に抱いた本の確かさに背を押され、花帆は旧図書館の外に出る。



 外廊下から教室棟きょうしつとうへ、注意しながら移動する。違和感は消えないものの、その正体がつかめない。

 とりあえずいちばん慣れている自分の教室に向かってみた花帆は、そこにぽつぽつと残っている面々めんめんを見て息を呑んだ。

 クラス表示板ひょうじばんを確かめる。教室に間違いはない。でも、いる生徒たちが違う。

 花帆が立ち尽くしていると、


「見ない顔だけど、どうかした?」


 中から声をかけられた。

 花帆は大きく首を振り、もと来た廊下を急いで走る。

 旧図書館に駆け戻ろうとして、廊下の向こうに園村そのむら先生の後ろ姿を見つけた。

 知っている人物に、半ば叫ぶように名前を呼びかけ、気づく。


(……若い)


 お団子は相変わらずだけれど、遠目でもわかるほど、先生の髪は黒々くろぐろとしていた。

 花帆の中で、これまでのあれこれが組みあわさっていく。


(ここってもしかして、五年前の……。だったら!)


 勇気を出して階段を駆けあがった。


(きっとわたしも、旧図書館に消える幽霊になる――)


 2-Bの教室を覗きこむ。一人だけ女子生徒がいた。


「あの! 坊城ぼうじょう先輩、ご存じありませんか!」


「え、あなた誰?」


 誰、と問われたのは花帆だった。日向ではなかった。


「坊城ならちょっと前に転校したよ。家の都合だって、聞いてない?」


 花帆はその場に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえる。

 不思議そうにする女子生徒に身を折るようにして頭を下げ、今度こそ旧図書館へ走りこむ。

 館内の中央に立った花帆は本を抱く腕に力を込め、隅々にまで届かせるように声を張りあげた。


「ありがとう、先輩のこと教えてくれて。ありがとう、どうしようもなかったわたしを、先輩と会わせてくれて」


 今度は遠くから近くへと、本たちの立てる音が近づいてくる。それはまるでひそやかな笑い声のようだった。

 先ほども感じた揺らぎが旧図書館を包みこむ。

 長いめまいのようなそれが終わったとき、辺りは静けさで満ちていた。



 日向は幽霊ではなかった。ただし現在の高校生でもなかった。現れなくなったのは転校して、旧図書館に来られなくなったから。そしてそれは、五年前のできごと。

 こんな話、信じてくれるのは実鈴みすず野川のがわ先輩くらいだろう。

 実鈴に続いて野川先輩の顔も浮かんだことに花帆ははっとする。もしかしたら、気負きおうことなく二人と接することができるようになる日も近いのかもしれない。


(それから、もう一人)


 星座の本をあるべき場所に戻した花帆は扉の前で深く一礼し、職員室へと向かった。

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