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 それからどのくらい経ったのか。

 扉が開く重たい音にはっとして花帆かほは顔を上げた。誰かが館内に入ってくる。

 悪いことをしているわけでもないのに息をひそめる。

 誰かの足は離れた場所で止まった。次に聞こえてきたのはどさ、という音が続けて二回。


(……かばんを置いて、上に座った?)


 先にいた花帆がいうのも何だけれど、こんな場所にやってくるなんて何者だろう。

 読んでいた本をそっと置いて、身を低くした花帆は書棚の陰から様子をうかがう。

 少しずつ膝を伸ばし、ついにはつま先立ちになったけれど、そこには誰の姿もない。

 ――〝旧図書館には幽霊が〟

 にわかに噂話が信憑性しんぴょうせいを帯びてきて、心臓が早鐘を打ち始める。

 倒れてしまいそうな恐怖に耐えきれず花帆は声を張りあげた。


「お、お化けとか、怖くないから!」


 直後、どご、と木の板にぶつかるような音が響き、


「痛」


 聞こえてきたのは、幽霊にしてはあまりにもはっきりとした、男の子の声だった。

 館内の中央に近い壁際、貸出しカウンターの内側で男子生徒が立ちあがる。

 完全な死角だ。見つけられるわけがなかった。

 驚きと子どもっぽい台詞を聞かれてしまった恥ずかしさで、花帆は固まる。

 くしゃくしゃと波打つ髪を撫でながら、男子生徒が花帆を見た。

 見慣れた制服に、見たことのないすっきりとした顔立ち。シャツの第一ボタンを外しているところに余裕がうかがえる。先輩だろうか。


「ごめん、怖がらせたみたいだけど俺も驚いた」


 言葉とは裏腹に喋り方は落ちついている。


「ここに俺以外の人間がいたのって……えっと」


宮本みやもとです。宮本花帆」


「宮本さんが初めてでさ」


 そこまで言うと彼はひじをさすり、顔をしかめた。痛みをこらえているのだろうに、唇はもともとそういう造作ぞうさくなのか、笑みの形を保っているのが印象的だ。

 近寄って見ると、先ほどカウンターで打ったらしく、肘は赤くなっていた。

 それと一緒に、シャツの胸もとに留められたピンも目に入る。2-B。やはり上級生だった。


「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったんです」


 小さくなる花帆に男子生徒は、


「こっちこそごめん、そういえば怪談話の舞台だっけ」


 逆にちょこんと頭をさげた。

 どうやら通い慣れているらしい。


「わたし、園村そのむら先生に掃除を頼まれて。でも、そんなに汚れてないし。お邪魔だったら……」 


 失礼します、と礼をしかけた花帆に、彼はわずかだけ首を傾げる。


「掃除、してた?」


「……本、読んでました」


「真面目なのか不真面目なのか。別に構わないよ。俺、昼寝してるけど気にしないで」


 あっさりと言われ、花帆は拍子抜けした。そうか、鞄は椅子ではなく枕だったのか。

 本当は、もうしばらくここにいたいと思っていた。


「だったら、あと少し」


「うん。じゃあ」

 

 ひらりと手を振って、彼はカウンターの内側に消える。

 詮索せんさくするでも突き放すでもないマイペースさに、自由にしていいと許されたようで、花帆の呼吸は楽になる。

 壁際で再び本を開く。古ぼけた空間で静けさに身をひたすと、ページをるごとに心が安らいでいくのがわかる。

 寂しい場所のはずなのに不思議だった。いや、だからこそ、か。


(わたしも、寂しい)


 だから、似たものに励まされる。

 実鈴みすずはまだ、野川のがわ先輩と一緒だろうか。


(でも、応援しないと)


 薄暗さに文字を追うのが難しくなったころ、鞄を手に立ちあがった花帆は、思いきってカウンターの中を覗きこんだ。


「帰り?」


 寝ているものと思っていた男子生徒は、けれど目を開けていた。寝転んだ姿勢のまま花帆を見あげてくる。


「はい。それで。これからも本読みに来てもいいですか。お昼寝の邪魔はしないので」


「いいも何も、学校の施設でしょ」


 ふわりと浮かんだ笑みは、猫のあくびのようだった。


「名前聞いたのに名乗ってなかった。俺、坊城ぼうじょう日向ひなたといいます」


「……棒状?」


 聞きなれない響きに咄嗟とっさに浮かんだのは、図書館の扉についている取っ手だ。


「違う、坊さんの坊に城で坊城」


 間違えられる、あるいは聞き返されるのに慣れている人の口調だった。

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