第3話

 気持ちは晴れやかだった。昨日は情けなくて、申し訳なくて、つけることができなかった婚約指輪を、堂々とつけることができる。帰ったら、父に言うんだ。紹介したい人がいること。私の家族になる人のこと。そんな話をしたところで、父の様々な問題が解決するわけではないけど。立ちふさがる壁があっても、彼となら乗り越えていける。

 指輪は、昨日着ていたコートのポケットに入れっぱなしだ。早く箱から出して、この手にはめたい。はやる気持ちを抑えて、玄関の鍵を開けた。相変わらず酒臭いけど、そんなのはもう気にならない。


「ただいま」


 気持ちが浮かれているのもあって、普段は言わないただいまを言った。どうせ帰ってこないけど、と心の中で突っ込みを入れる。


「おう、おかえり!」

「え?」


 それこそ珍しく、父からの返事が返ってきてぎょっとする。声音から察すると、やけに上機嫌だな。パチンコで大当たりでもしたかな、と思いながら居間へと向かう。そこで私が目にしたのは、昨日まではなかったはずの大量の酒と──上機嫌にお札を数える父の姿だった。

 今月は2回目の無心があったから、父の手元にはもうほとんどお金はなかったはずだ。本当にパチンコで儲けたのだろうか。なんだか嫌な予感がする。自分の部屋に向かう前に、父に状況を確認する。


「どうしたの、そのお酒……。そのお金も」


 すると父はこちらを振り返ることもなく、上機嫌なまま答えた。


「おめえ、なかなかいい男と付き合ってんのな」

「……何の話……」


 父に付き合っている人がいることなんて教えてない。確かに彼はいい人だけど、父がそれを知る術なんて──。ハッとして、私はカバンをそのまま床に置き去りにして、自分の部屋に駆けだした。ハンガーにかけてあった昨日のコート。そのポケット。どんなに探っても何の感触もない。机の上、引き出しの中。思い当たるところにはどこにもない。居間まで駆け戻って、期待しないままカバンを逆さにして中身を出す。もちろんない。だって、確実にコートのポケットの中に入れておいたんだもの。

 私の背後で、父の気配が揺れた。


「いやあ、助かったよ。へそくりでもないかと思って部屋ぁ探したんだけどな、あんなところに指輪なんかあるからよ」


 下品にかかかと笑って、手元の酒をぐびりと飲んだ。

 もう、言われなくてもわかる。彼からの婚約指輪がどこにあるのか。どうなってしまったのか。さっきまで浮かれきっていた頭の中が、急激に冷静になっていく。血の気が引く、といったほうが正しいかもしれない。頭がふらふらする。

 彼の。私の。心は。愛の証は。父の酒こんなもののために、消えてしまったのだ。


「あんなとこに入れておくって事は、いらなかったんだろ? 俺が有効活用してやったからよ」


 父は上機嫌だからか、聞いてもいないのにぺらぺらとしゃべっている。


「でもおめえ、指輪なんか必要ないだろ? そんなのあったら、家事なんかできねぇしな!」


 そうか。私には許されなかったのか。幸せな結婚を望むことも、父の呪縛から逃れることも。指輪なんかしてないで、一生父のATM兼家事ロボットでいろと。そういうことか。ああそうか。


 頭が痛い。ガンガンと、無遠慮に頭の中で鐘を鳴らされているような、そんな痛み。そのたびに、ふつふつと、今まで抑え込んでいたものが湧き上がって、溢れ出てくる。ああ──どうして私の人生の邪魔ばかりするの? 憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。こんなやつ死ねばいい。死ねばいいんだ。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。


──殺したい。こんなやつ、殺してやりたい。


 その瞬間、ピキ、と音がした。それは私の心が折れる音だったのか、私の堪忍袋の緒が切れた音だったのか、わからない。気が付いた時には、床に落ちていた電気コードを握りしめて、父の首にかけていた。


「……っ!? ぐっ、ゆ、きえ、何……」

「死ね」


 こいつがいるから私は幸せになれない。こいつがいなければ、私は幸せになれるんだ。なら、こいつが死ねばいい。勝手に死んでくれないなら、私が殺すしかないじゃないか。

 ぎりぎりと、首を絞める力を強める。細身の父の首は絞めやすくて、見る見るうちに顔が真っ赤に染まっていく。


「ぁ……くぁ、たす、け」


 しばらくはじたばたともがきながら、ぐ、とか、かはっ、とか声にならない声を上げていた。それから何分経ったのかはわからない。ようやく父は糸が切れた操り人形のように四肢を投げ出した。そっと顔を覗き込む。白目をむいて泡を吹いている。死んでくれたかな。そう思って脈を測ってみる。止まっている。よかった、ちゃんと死んでいる。

 私はようやく着ていたコートを脱いで、自分の部屋のハンガーにかけた。ぶちまけてしまったカバンの中身も片付け始める。

 あーあ、指輪、どうしよう。こいつの財布に質屋のレシートがないか探してみなきゃ。売れてなければいいけど。

 死体の処理は、後で考えよう。90リットルのゴミ袋ならたぶん入るはずだ。とりあえず入れておけば臭ってこないわよね? 


 私はとりあえず、缶を捨てる用と死体処理用のゴミ袋、2つを台所からとってくることにした。掃除は面倒だけど、うまくいってよかった。鼻歌でも歌い出しそうになるのを必死に抑え込んで、台所へと向かったのだった。



 * * *



 タマゴから孵るものは、雛鳥だけではない。

 人は誰しも、心の中にタマゴを宿している。日々を生きる上で感じた感情でタマゴを温めている。


 もし、よくない感情を胸の内に秘め続けているのなら、今すぐにでも吐き出せ。そのタマゴを叩き割れ。


 負の感情で温まったタマゴから、凶暴な怪物モンスターが孵るその前に──。









 

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感情タマゴ 天乃 彗 @sui_so_saku

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