第2話

 慣れというのは怖いものだ。そういう生活が始まって十数年、私の生活のサイクルは定まってしまっている。朝仕事に行く前に流し台を片付けて、ゴミを捨てて。仕事をして、仕事から帰ったらまた増えている酒瓶や缶を片付けて。時たま息抜きに出かけたりデートをしたり。その繰り返し。

 私の就職が決まった頃に、父は仕事を辞めてますます呑んだくれるようになった。だから生活費は私が徹底的に管理している。父に渡す金額をきっちり決めて、現金や通帳実印の類は家には置いておかない。その徹底ぶりに父はいつも不服そうにしていて、たまに月の中ごろに(その時だけはへこへこと下手に出て、)小遣いの追加を求めてくる。どうせすべてをお酒やパチンコにつぎ込んでいるのだ。本当に情けなくて恥ずかしい話だ。ただ幸い、父は古臭い頭の持ち主だから、私が女がてらにそこそこ稼いでいることを知らない。この父に舐められている、というのは腹立たしいが、そのおかげで催促される金額はそこまで大きくなく、負担は少ない。

 だからもうどうでもいい。父に関してはもうなんの感情も湧かない。期待もしていない。私に今以上の迷惑をかけないのであれば勝手にやってくれ、と思う。


──でも。


 昨日の彼の言葉を思い出す。結婚してほしい、というあの真剣な瞳。


「……」


 本当のことを言えば、その場で頷いてしまいたかったほど、あの言葉は本当に嬉しかったし、結婚するなら彼しかいないと思っている。

 それでも即答しなかったのは、父のことがあるからだ。私の生活のサイクルは決まってしまっている。父のことは周りには黙っていたけれど、結婚となるとそうはいかない。なんの感情も湧かないけど、実の親である父のことを今更捨て置くわけにもいかない。彼には秘密にはしておけない、でも話したくない。それに──こんな父親がいると知れたら、彼だってよく思わないはずだ。そんな厄介な父親付きの女なんかと一緒になりたいと思うわけがない。

 彼のことは好きだ。私には勿体無いくらいいい人で、そんな彼だからこそ5年も付き合ってこれた。そう考えると、5年の間バレなかったのが不思議なくらいだ。いや、バレてたらそもそも付き合えていないかもしれない。


──結婚、か。


 実の親たちがうまくいかなかったそれについて考える。母は何を思って父と結婚したのだろう。うまくいくという保証はあった? それさえ乗り越えられる愛がその時はあった? 考えれば考えるほどわからなくなる。父と母の血を引いた私は、彼と幸せになれるだろうか。彼は私でいいのだろうか。こんな私で。

 それを決めるのは彼しかいない。私がグダグダ考えていたって仕方がない。全部話そう、父親のことを。それを聞いてもらった上で、どうするか決めてもらおう。今ならあのプロポーズも、なかったことにできるはずだ。


『今日、仕事終わりに会える?』


 しばらくぐるぐると考えていたけれど、私は意を決して彼にメッセージを送った。彼からもすぐに返事が来て、仕事の後に会うことになった。

 全てを話して、拒絶されればそれまでのこと。今まで通り、どうしようもない父と2人で暮らしていくだけ。そう割り切っているはずなのに、拒絶されることが怖くて、胸が苦しくなった。



 * * *



 指定したお店は、二人でよく行くこぢんまりとした居酒屋だ。私のほうが早く着いたため飲み物だけ先に注文して待っていると、お店の入り口の扉が開いた。


「遅れてごめんね」


 開口一番、彼はそう言った。急に呼び出したのは私なので、気にしていないという意味を込めて首を振る。それを見た彼はほっとしたように顔の緊張を緩め、私の向かい側の席に腰を下ろした。顔見知りの店員さんに飲み物を注文すると、まじめな顔になって私を見た。


「それで……話があるから呼んだんだよね。もしかしなくても、この間の返事、かな」


 彼は真剣な顔をしている。私もつられて真剣な顔になってしまって、気まずい沈黙が二人の間に流れた。この間の返事といえばそうだけど、私がこれからする話は直接的な答えではない。それに、この話をしたら振られるのは私かもしれない。そう思うと話が切り出せなくて、嫌に喉が渇いた。何も言わないまま自分の分のグラスをちまちま飲んでいると、彼が頼んだ飲み物が運ばれてきた。

 その時、緊張の糸が店員さんによって切られた。そうだ、何を言われようと、振られようと、ちゃんと話すって決めたじゃないか。私は自分の分のグラスの中の飲み物を一気に飲み干して、彼に向き直った。


「この間の話は、私、本当に嬉しかった。だからね、ぜひその話を受けたいと思ったの」

「……じゃあ……!」

「違うの。今のままじゃ私、あなたと家族にはなれない。私にはずっと隠していたことがあるから」

「隠していたこと……?」


 安堵の表情から、一気に険しい表情に変わる。でも、ここで躊躇していたらいつまでも先に進めない。


「……父のことなの」

「……お父さんの?」


 私の“秘密”とお父さんのことが結びつかなかったようで、険しい顔のまま首を傾げた。彼には、両親の離婚のことも、父と二人暮らしであることも話していなかった。話すことで嫌われたくない一心で、両親のことを聞かれてもなんとなくはぐらかしていた。でも、そんなことを言っていられる状況ではもうないのだ。私はできるだけ事細かに、私の家族のことを話した。

 酒癖が悪い父のせいで、中学の時に母が私のことを置いて出て行ったこと。今は父と2人で暮らしていること。父は今でも酒癖が悪く、働かず家にいること。そんな2人の子供である私が、結婚してうまくやっていけるのか不安に感じていること。

 途中で何度も言葉に詰まって、時には涙もこみあげてきたが、彼は言葉を挟まず、黙って聞いてくれていた。すべて話し終えた後、恐る恐る彼を見る。かける言葉を探すようにいったり来たりしたその瞳は、やがて私の手元で止まった。


「話してくれてありがとう」


 そう言ってまたしばらく黙り込んでしまう。私から何か言わないと、彼は何も言えない。そう思って、私は口を開いた。


「い……今なら遅くないと思う。プロポーズも、今ならなかったことにできるでしょ? 私なら大丈夫だから」

「……何言ってるんだよ」

「……え……」


 ここにきて初めて、怒気をはらんだ声音で言われた。普段温厚でめったに怒らない彼のそんな態度に、心臓に直接太い針が刺さるような感覚になる。嫌な汗がじんわりと滲む。そんな表情、今までしたことなかったじゃない。


「なかったことになんてしないよ。僕は君とだから結婚したいと思ったんだ」

「……!」


 予想していたのとはあまりに違う言葉だったから、動揺してしまう。しどろもどろになりながら、本当は断りたいんじゃないかと思って彼の真意を探る。


「だ、だって、私には、厄介な父親がいるのよ。こんな面倒な話されたら、誰だって……」

「もちろん、君のお父さんの現状はよくないと思うよ。でも、いずれは僕のお父さんになる人なんだ。お父さんのことはどうにかできるよう、2人で考えていこう」

「……どうにか、って」

「アルコール依存症だって立派な病気だ。更生施設や病院を一緒に探そう。それが治ったら職安にだって行けるわけだし」

「……でも、」

「まだ何か不安があるの?」


 こんなに前向きに受け入れてくれるとは思わなかった。でも今はそう言っているけど、やっぱり直前になって嫌になるんじゃないかとか、不安は消えない。視線を机に向けていると、手の甲にぬくもりを感じた。彼が手を握ってくれている。


「君は、自分が結婚して家庭を持つことに不安を感じていると言っていたけど、僕は君なら大丈夫だって確信してる」

「どうして……」

「君は、たった1人の肉親を見捨てなかった。この小さな手で、お父さんを支えたじゃないか」


──っ!


 彼の言葉も、手のひらも、優しくて。洗い物でガサガサの私の手を、いたわるように、いとおしそうに撫でる。その瞬間、体の奥から湧き上がってくるように、大粒の涙が溢れた。私にとってはそれが当たり前で、他にどうしようもなかったってだけだった。それをそんな風に受け取ってくれて、頑張ったねと言ってくれる。

 やっぱり、私、彼と家族になりたい。胸の中が、温かい気持ちで満たされていく──。


「……改めて。僕と結婚してください」

「──……っ、はい……!」


 涙も鼻水も止まらなくて、ぐしゃぐしゃの顔のまま返事をした。こんなかっこ悪いプロポーズの返事なんてないと思ったけど、自分ではどうにもできなかった。


「今度、お父さんにも挨拶させてね」


 あの話を聞いてもそんなことを言ってくれるんだ。嬉しくて仕方がなくて、また涙が滲む。言葉が出てこなったぶん、思い切り首を縦に振り続けた。



 * * *

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