感情タマゴ

天乃 彗

第1話

 タマゴから孵るものは、雛鳥だけではない。

 人は誰しも、心の中にタマゴを宿している。日々を生きる上で感じた感情でタマゴを温めている。そのタマゴは人の心の中で、孵るその時を今か今かと待っているのだ。



 * * *



「結婚してほしい」


 その日のデートの帰り、家の前まで送ってくれた彼からの突然のプロポーズだった。予想だにしなかったその言葉に、私は息を飲んだ。彼はポケットの中から小さな箱を取り出して、パカリと開けて私へ向けた。小さな宝石がついた可愛らしいリング。私はそれを見つめながら、何も言えずにいた。


「……っあ、急すぎたよね、ごめん」


 彼は緊張からかこわばっていた表情をへにゃりと和らげ、困ったように笑った。私が何も言わなかったのが不安だったようで、やけに早口になって私へと言葉を繋げる。


「何も今すぐに答えを出してほしいとは言わない。君は君なりにじっくり考えてくれればいいし、君が考えて出した結果なら僕は受け入れる。でも、僕は本気で君と結婚したいと考えてるよ」


 彼の目は真剣そのもので、本当に私のことを考えてくれているのがよく分かる。付き合って5年。お互い結婚適齢期だし、周りの人たちもどんどん結婚している。何より、私は彼のことが大好きで、それはきっと彼も同じだろう。なら、答えはひとつ、と思うだろうけど。


「ごめんね……少し、考えさせて」


 私は差し出された指輪の箱をやんわりと彼に突き返した。こんな気持ちでこれを受け取るのは失礼だと思ったから。でも、彼は突き返したその力より強く私に箱を押し付けた。


「どんな答えを出すことにしても、これは君に持っていてほしい。君のために選んだんだ。わがままだけど、許して」


 そんなことを言われたら、突き返すことなんてできるわけがない。私は持っていた箱をどうすることもできずに手の中で持て余した。彼は少し寂しそうに笑うと、「じゃあ、僕行くから」と言って車に乗り込んだ。私はそれでも何も言えず、走り行く彼の車をただただ眺めていた。

 完全に彼の車が見えなくなったあと、家に入る前にその箱を開けてみる。悔しいくらいに私好みのリング。そっとはめてみるとサイズもぴったりで、嬉しい反面、申し訳なくてため息が出た。



 * * *



 もらった指輪を箱にしまって、見つからないようにコートのポケットに忍ばせて家の鍵を開ける。その瞬間、玄関までモワッとアルコールの匂いがして私は眉をひそめた。気分が悪い。一直線に台所へと向かい、換気扇のスイッチを入れ、小窓を開けて空気を入れ替える。居間には焼酎の空の瓶が転がっていて、テーブルの上には350mlのビールの缶がいくつも並べられていた。

 私はため息をついた。この光景は初めて見るものではないけれど、何度見ても気分が悪いしやるせなくなる。台所に戻ってゴミ袋を取り出し、その足でまた居間に向かって空の缶や瓶を次々に袋に詰めていく。ガラガラとぶつかり合って缶がやかましい音を立てた。次の資源ごみの日はまだ先だというのに、もうこんなに溜まってしまった。誰がごみを出すと思っているのよ。持ち上げた缶にまだ少し中身が残っていたけれど、私には関係ない。流しに全部流してそれもゴミ袋に捨てた。

 あらかた居間の缶類を片付けたあと、私はようやく居間でイビキをかいて眠りこけている人影に目を落とした。


「こんなところで寝てたら風邪ひくよ──お父さん」


 声をかけたが、起きない。気持ちよさそうにガーガーとイビキをかいている。口なんか開けっ放しで、丸出しのお腹をボリボリ掻いて。タンクトップから伸びた枝のような手。ズボンなんか履いてない、トランクスから伸びる脚も細くてガリガリで、ゾッとする。人影──実の父親であるその男を見下ろしたあと、仕方なく、父の部屋から毛布だけ持って来た。風邪を引かれて勝手に文句をつけられては困るから、せめて毛布くらいはかけておかないと。そう思って準備していると、イビキが止まった。ぎくりとする。その目がそろりそろりと開いて、私の姿を捕らえる。父は寝ぼけた瞳で辺りを見渡した。そこで、テーブルの上の缶がきれいさっぱり無くなっていることに気づいたらしい。私を見る目が睨むように鋭く変わった。


「ここにあった酒はどうした」

「ぬるくなってたし、もう飲まないと思って捨てたよ」

「チッ……勝手なことすんじゃねぇ!」


 父は大きな舌打ちのあと、苛立ちを吐き出すように怒鳴った。私の手から毛布をひったくるように奪うと、私の肩を強く押した。私は受け身を取り損ねて、そのまま倒れてしまう。畳だからそれほどの衝撃はないにせよ、打ちつけたお尻はやはり痛い。

 毛布を奪っていった父は、布団で眠るためかそのまま部屋に向かい、ピシャリと襖を閉じて立てこもった。いつものことだから、言葉もない。明日にはケロリと忘れたようにしているのだ。私がいちいち気にしていてはキリがない。ため息をついて、あ、と思う。私、まだコートを着たままだった。脱ごうとして、ポケットの中の重みを思い出す。コートの上から、その箱を撫でる。冷めていた心がじんわりと温かくなるのを確かに感じた。



 * * *



 中学生の頃、緑の紙を置いて母が出て行ってから、私は父と二人暮らしだ。当時は私を置いていった母に恨みのような感情を抱いていたけれど、今は同情のような気持ちさえある。そりゃ出て行くわよ。当時から父の酒癖は今と変わらず酷いもので、母もよく手を上げられていた。むしろ私が中学生になるまでよく耐えたものだ。

 今でこそ同情しているとはいえ、ほんとうなら、私だって母と一緒に出て行きたかった。その時私は思春期だったし、極力父には近づかないようにしていた。それに、父の姿は一般的な父親像とはかけ離れていることはすでにわかっていたし、この人がその像に近づくことは無理なことは考えればわかることだった。

 母が出て行ったその日、私もこっそり荷物をまとめて母方の祖母の家に行こうかとも思った。場所はあやふやだったけれど、最悪交番で道を聞くなりしてどうにかなるんじゃないかって。父にばれないように行動しようと、そろりそろりと居間を通った時、父は大量にお酒を飲んでテーブルに突っ伏していた。こんな時でもお酒? と、父の神経がわからなかった。やっぱりこんな人とは生活していけない、早く準備をして家を出よう──そう思った矢先、私の気配に気づいたのか、父がこちらを見ずに声を上げた。


幸恵ゆきえ


 ぎくりとした。はっきりと名前を言われて、私がこれからしようとしたことがバレているのかと。私はなるべく平静を装って、不自然にならないように答える。


「……何?」


 父はこちらを見ない。右手に日本酒の小さい瓶を持ったまま、相変わらず突っ伏していて、顔は分からない。見えるのは背中だけで、父が何を考えているのか分からない。その背中は、いつに増して小さく、震えているように見えた。


「俺を置いていったりしないでくれ。俺を、1人にしないでくれ……頼む……」

「……!」


 テーブルの上にあったのは、大量のお酒と母が置いていった離婚届。父はそれを前にして、声を殺して泣いていた。

 初めてだったのだ、父の涙を見たのは。動揺して声が出せないでいたけど、父はそれ以上は何も言わなかった。もしかしたら、独り言だったのかもしれない。酔っていたから、口に出すことべきことと出さないべきことが分からなくなっているのかも。でも、さっき父から漏れ出た、ありのままの弱々しい言葉に嘘はないはずだった。


──そうか。私がいなくなってしまったら、この人は1人になってしまうんだな。


 そんな当たり前のことをぼんやりと思った。思うと同時に、仮に一人ぼっちになったのが私だったら、とぞくりとした。歳をある程度とって放り出されたその恐怖は、中学生だった私にとっては想像の域を出なかったけれど、想像でも怖いと感じた。毎日ああやって、背中を縮こまらせるなんて。

 私はその時、背中を丸めて酒に溺れる父に情のようなものを抱いたのだと思う。どうしようもない人だけど血は繋がっているのだ。私がその繋がりまで絶ってしまったら、この人はきっともっとダメになってしまう。私は父の言葉に返事をせず、そのまま部屋に戻った。なんだか荷物をまとめる気にはならなくて、洋服のまま布団に潜り込む。布団は冷たくて重い。こんなに重く感じたのは初めてだった。早く朝になれと思えば思うほど、ずしりと私にのしかかった。朝になったら、母が帰ってきて朝ごはんを作ってくれている。そんな期待を抱きながら、私は眠りについた。


 そんな期待が現実になるはずもなく。起きたら雨が降っていて、朝だというのに少し薄暗くて。全部嘘だったなんて、そんな都合のいい話があるわけはなかったのだ、と、窓の外を見てぼんやり思う。

 そろりと居間に向かうと、閉め切った部屋に酒の匂いが充満していた。机に突っ伏したまま眠りにつく父。大量の酒瓶。洗い物が溜まってしまった流し台。もちろんそこに母の姿はない。悲しい、という気持ちはもう湧かなかった。でも、ここから逃げよう、という気持ちももう起きない。諦めというほうが正しかったかもしれない。私はため息を一つついて、その朝はまずは換気扇を回すことから始めたのだった。



 * * *

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