5.所詮、僕らは野狗子に喰われたのだから

 暑い五月の後半頃だった。


 少し遅れて転校生がやってきた。田舎の高校は全校生徒二百人で、そのうち七割が電車を使っての登校だった。僕が一年の頃一人で降りていた駅に。その子も、そこで降りた。そして、僕らは出会った。


 学年は同じだがクラスは違う。他のクラスに転校生が来たと騒ぎになっている中、興味すらなかった僕だったが、そこで彼女の姿を始めて見ることになった。


 少し、髪の色が薄い。黒っぽい灰色。ふうわりと、柔らかそうに膨れたショートカットはどこか純情な印象を与えるが、すべてに興味のなさそうな瞳が彼女の存在をよりいっそミステリアスにしていた。


 一緒の駅に降りた。それだけだったけど、彼女は僕に声をかけてくれた。「転校初日だから、いろんな人と仲良くしたいんだ」と、明るくめの声音を出したが、その笑みもどこか薄い。


 彼女の名前は【狗巻いぬまきレイカ】。名前すらもどこか不思議で、彼女自身も親族以外で見たことも聞いたこともないんだよと笑って見せた。


 僕らが降りた無人駅の先には山と田んぼが広がっている。駅から数分離れるだけで家と家の感覚が広くなっていく。山にさしかかり坂道が急になってきたあたりで僕の家があり、彼女の家はさらに坂を上った先にあるようだった。


 僕はそのことに驚いた。それは、この集落に伝わる話であり、山の上に行けば行くほど、昔この地でおきた戦争で死んだ人々の霊が現れるようになるという話。


 どこにでもある、学校の七不思議のような怪談だ。結局は子供たちが山奥に入らないための作り話なのだろうが。幼い頃からそんな話を聞いていた僕たちは心の奥で山の上を恐れ小学校・中学校この場所に住み遊んだ中でも僕の家よりも上には行ったことがなかった。


 小中学校の生徒の中で僕より上に住む生徒はいなかった。


 でも、高校生にもなってそんな馬鹿げた話を信じているとは思われたくなくて僕は、彼女にその話はしなかった。初対面でする話でもないし。

 



 次の日。ゆっくりと学校の準備を進める僕に母が「外で友達が待ってるよ」と不思議そうな声で言ってきた。


 この地域で僕の通う高校に行った人はいないし、そもそも一番山側の僕の家前で誰かが、待ってくれたことなんてない。友達の家の前で待つのはいつだって僕の役目だった。


 だから、早起きが習慣になっていたし、かなり高校から離れているのに教室に着くのは上位に食い込むほど早い僕だ。それなのに。


 とりあえず困惑している母に、ゆっくりと準備をしながら説明していると「そういうことなら待たせたらいかんでしょ!! 女の子なんよ」とせかされたしまった。


 外に出ると、携帯をいじっている狗巻がいた。春終わりの涼しげな朝には彼女のどこか和紙のようなぼやけた淡さが似合っていた。でも、紅葉の秋や、雪降る冬にも合いそうだと思う。


「ごめん、待たせてみたいで」


「ううん、何も言わず来ちゃってごめんね。昨日連絡先聞くの忘れてたから」


 そういうことで流れるように僕は彼女の連絡先を手にしてしまった。それだけで、彼女は自分とは違う生き物のように思えて、彼女に失望される日が怖くなる。


 学校に向かう中で静かに、狗巻は「本当にごめんね」という言葉から入り、語りを始めた。それは、彼女の今までの話だった。


 親の仕事の都合上引っ越しが多く、その行き先のほとんどが田舎。狭い世界で暮らしコミュニティができあがった場所に入るのは難しく、頑張ってもよそ者というレッテルは貼られ続ける。


 孤立しないためにも誰か一人でも頼れる人を作っておけと両親に強くいわれているという。だから、彼女は今は多くの人に話しかけ頑張ってこのコミュニティに入ろうとしているのだという。


「ずる賢く生きなさいって、お母さんたちはいうの。そうじゃないと、大変なことになっちゃう」


 そう、狗巻は悲しげにいった。


 僕がずっと感じているように、他の人たちも狗巻に不思議な印象を抱いているのかもしれない。自分たちと違うというのは、この閉鎖された空間の中ではどうしても浮いてしまうし、彼女のようなよそ者ならばなおさらだろう。


 実は僕も転校生に対してはいい印象を持ってなかった。彼女の姿を見る前は、落ち着いていた学校が女子の転校生と聞いて少し騒ぎ始めて何か大きなことが起きるんじゃないかと。大きないじめとか、トラブルとかもないこの場所によからぬ風が吹くんじゃないかとそんな不安も抱えていた。


 しかし、彼女に会い。その不安も少しは収まっている。それほど、彼女の薄い印象は、驚異としては写らず。時間がたてば、この場に馴染んでくれそうな安心感がある。最初っからいたような。それくらい、受け入れやすい。


 もしそれが、彼女の言っているずる賢く生きるための立ち回りだとすれば、たいしたものだ。


 それから夏休みまでの間。狗巻本当に最初っからいたかのようにこの場に馴染んでいった。浮かず沈まず。出ずぎず、引かず。


 みんなが彼女の存在を気にかけなくなっていく中で、僕は逆に彼女に対するどうかした気持ちが膨らんでいった。強く惹かれていた。「ずる賢く生きる」という言葉もあるが、はやり彼女が僕よりも山奥に住んでいることが強いのかもしれない。


 構内での狗巻との交流は殆どない。携帯での連絡も全くしないままだったが朝と帰りは一緒になのは続いた。なんだかんだ、僕は彼女に支えられている一面もあった。


 いったとおり、この地域からのあの高校に行ったのは僕だけだ。そう、僕だって最初はよそ者だったんだ。狗巻とは違い賢さで立場を手にしたわけじゃない。最初っから君の席だといわんばかりに孤独の席が用意されていた。何もやらないから、何もするな。そんな、圧力がかかった居場所。いるようでいないような。何も考えなくていい、世界。


 僕と似たようで異なる彼女。でも根は同じであり、帰り道も一緒。しかし、どこかそれだけじゃ気持ちがある。そのどうかした気持ちに僕は気づけない。



 さて、夏が来た。僕ら学生には会ってもないような夏休み。学校が半日で終わるだけだ。部活生はその後に部活があるのだから大変だ。僕の趣味といえば、月額制のサイトでみる映画やアニメ。映像系の部活はないし、そもそもあっても家で見ている方が楽しい。


 というわけで、部活は入ってなく。この夏も涼しい部屋の中でゆっくりと過ごす予定だった。


 想像通りの炎天下。学校と家の往復の日々、去年と違うのは隣に狗巻がいることだ。


「狗巻は、家に帰っていつも何しているの?」


「うーん、別に。勉強? お母さんがしろってうるさいし。でも、何もしてないことが多いかな。なんかぼーっとしている」


「そういえば、宿題もう終わったっていってたよね」


「うん、時間はいっぱいあるし。終わらせようとは思ってなかったけど、なんか。終わった」


「もしかしたら、終わり頃に見せてもらうかも」


「いいよ。でも、もう予約は入っているから、必要な時は早めにね」

「あぁ、もしかして。そのために?」


「そう、ずる賢く生きるために・・・・・・ね」


 気だるげにそういって、陽炎の揺れを見つめながら歩いて行く。太陽が真上にある中をほぼ毎日歩いているせいか、彼女はかなり日焼けをしている。こんなこといっているが、この日焼けを見る限り、僕よりかは外に出ているようだった。


 焼けて小麦色になった彼女は、出会ったときほどの薄さはなく。なんだかんだ、田舎娘な雰囲気に染まっている。


 そして、家に着き。僕を置いて彼女はさらに坂道を上っていく。


 シャワーを浴びて汗を流してスッキリすると、昼飯の炒飯をもって二階の自室に行き空調を効かせてPCをつける。こんな田舎でもネットが繋がる時代は本当にありがたい。


 だらだらと一時間、何を見るかぼーっと考えやっと決まりさて見ようとしたそのとき。インターホンが軽快に鳴り響いた。


 窓を開けてならした主を確認すると、僕は急いで階段を駆け下りてドアを開けた。


「どうしたの? 急に」


「いや、お母さんが・・・・・・」


「・・・・・・お母さんが」


 狗巻の母親はなにかと彼女に口を出すようで。最近は、よく「家にばっかいないで外にでなさい」と言ってくるようになったという。そう言われると、彼女は一時間ほど散歩に出て帰るのがいつも通りというのだが、今日は少し雲行きが怪しくなって雨宿りにきたとのことだった。 


 確かに、僕らが下校してきたときとは打って変わって少し空が暗い。


 別段拒否できるような僕ではなく、しかし彼女を家に上げることに抵抗がないわけでもない。いいのかな? いいんだろうけど。と悩みながらもすでに彼女はリビングのソファに座っている。現状だ。


 そして、なんとなしに冷たいお茶でもともてなした頃に、外では急激に雨音が強まり始めた。さらには、雷も。


「夕立だろうね。すぐやむといいんだけど」

 僕が外を見ながら不安を交えてそういうと、「まだお昼だけどね」と彼女は笑った。


「狗巻の家は、親が厳しいの?」


「ううん、別に厳しいわけじゃないの。前から私、何も言わないと何もしない子だったみたいで。両親に、常に何をすればいいか、どうすればいいか一々聞いていたの。その名残っていうか、お母さんはボーッとしている私をみると、ついつい口を出したくなるんだって」


「へぇー。でも、狗巻はそれを一々聞いているんだね」


「うん、理不尽なことを言われることもあるけど。言っていることが正しいなって思うことが多いし。それに、その方が楽だから」


「・・・・・・・・・それは、少しわかるかも」


「ほんと?」


 雨は強く。激しく降り続けている。今頃になって、家に上げずに傘でも貸して帰るように言うべきだったかなと後悔が湧き出ている。そしたら、今頃こんな嫌な緊張をせずに、外の雨なんか気にせずに部屋で過ごせたのに。


 まぁ。最初っからその発想があっても、彼女が雨宿りをさせてほしいと言ったら何も言わずにあげたんだろうな。


 そっか、僕らは。少し似ていたんだ。


「『あんたは、野狗子やくしに脳を食われたのかい?』 今は、言われないけど少し前までそれが僕の母さんの口癖みたいなものだったんだ」


「野狗子?」


「なんか、どっかの妖怪みたい。人の脳みそを食べるんだって。僕も、自分の意思がないっていうか、いっつも受け身でさ。高校を決めたのも周りからの進めを受けいれただけだし。まぁ、母さんはずっと一人で遠くの高校に通うのに不安はないかって言ってたんだけど、僕は何もいえなかったから。よくわかんなかったし。それで、小言を言うように毎日言われていたよ」


 自分の意思なんて持った方がいいに決まっている。夢があった方が明日を行きやすい。目標があった方が日々は充実する。計画性があった方がうまくいく。

 それでも、僕は受け身であり続けた。どうなろうが、それを受けいれればいいだけ。それを続ければいい。なんでそんなことができるのか。


「楽なんだよね」


 僕が笑うと、彼女もどうしようもないように笑って頷いた。そうだ、この思いはどうしようもないんだ。


 一時間もしないうちに雨は上がり、濡れたアスファルトを太陽は照らし当たりはキラキラと光っている、蒸し暑さが鬱陶しい。


「じゃあね、ありがとう」


 玄関先でそういった狗巻は歩き出して、坂を上っていく。


「なぁ、狗巻?」


「ん?」


 なんで、今頃になってそんな気が起きたのか。原因はやっぱり、彼女が僕と似ているように感じたからだろう。


「ここから家近いのか?」


「うん、まぁ。そこそこ歩くけど」


「それなら、送っていくよ。僕も、たまには外に出ないと」


「ほんと?」


 初めてだった。彼女の横に並び、初めて僕は自分の家よりも上へと進んでいく。


 坂を越えた先。なんてこともない。駅から僕の家に近づにつれ、家と家の間が開くのと同じ。その先も、間を広げながら家々がならんで山上へと続いているだけだ。なにも、恐れるようなことはない。


 彼女の言うとおり蒸し暑い中、なかなかの距離を歩くことになったが。そんなことを一々憂鬱に思うことはなかった。特別の色合いもない普通の一軒家の前で彼女と別れ、帰り道。彼女の横について、坂を越えた僕の心の奥では、この蒸し暑さのようなちいさな不安がじめじめと広がっていた。




 僕という人間は常に一人だった。小学校、中学校の下校も、みんなと帰っても最終的には僕一人になる。高校になるといよいよ一人は加速した。


 別に、一人であることに不満を抱くことはなかった。それを受けいれる。それが僕であり、一番楽な方法である。


 そんなある日に、狗巻は現れた。


 僕は、彼女に強く惹かれた。どうしようもない気持ちで一杯になった。それはなぜか?


 単純に、彼女は僕よりも優れているように見えてしまっていたからだ。僕と同じ駅で降り、同じ道を帰る。僕と同じようにあの高校ではよそ者。野狗子に脳を食われたような脳死で孤独を受けいれた僕と違い、彼女はずる賢く頭を使って立ち回り居場所を手に入れた。下校も、僕よりも高い場所に住んでいる。


 僕は彼女のようになりたいとさえ、思っていたかもしれない。僕には狗巻は自分の意思をもち、常に行動する人物に見えていた。脳のない僕と違い、彼女には素晴らしい脳がある。彼女は、野狗子に食われていない。僕も、彼女のような脳がほしい。


 しかし、狗巻が雨宿りに来たあの日。それが幻想だったと気づいた。


 彼女は僕と同じだった。でも、同じだったからこそ、思うことがあった。彼女の話を聞く中で僕は、この子はずっと母親の言うことを聞いて行くつもりなのか? そう、疑問がうかんだ。しかし、次の瞬間その疑問は僕にも返ってきたのだった。


 僕らはこのまま、楽をして生きていくことができるのだろうか。


 その疑問がハッキリと浮かび上がったのは夏休み中期頃だった。




 お盆になればさすがに高校の夏期講義もなく。数種間、狗巻と会うことはなくなるだろう。そんな、ことを考えていた。盆休み前最後の下校。狗巻は同じ電車から降りてこなかった。登校は一緒に行ったし、学校には行っているはずだった。


 買い物でもあって、別の駅に降りたかなと久しぶりに一人で下校した。そう、久しぶり。こんな日はめったになく、どことなく不安になる。彼女のことばかり考えてしまう。


 家に返ってもそれは同じで、いっそ携帯から連絡でも送ろうかと思ってしまう。それほど珍しいことでもあったが、さすがに彼女にとって僕はなんでもない。そんなに心配することでもないはずだ。


 そんな風に落ち着かずに、いると。いつかのごとくインターホンが鳴った。窓から確認することもせず、僕はドアまで急ぎ玄関を開けた。


 予想通りそこには狗巻がいた。家の中に夏の暑さが入ってくる。空は晴天。雨が降る気配なんてない。それに、彼女は制服だった。今、学校帰りということだろう。


 こんなド田舎の駅に快速が止まるはずもなく、そもそも途中で乗り換えが必要になる。だから一度帰りの電車を逃すと、最悪一時間遅くなることがあるのがここだ。だから、いつも連絡もなしに同じ電車で降りることができていた。


 何かしらあって、学校に残っていたのかもしれない。それは、胸に手をおいて不安そうな表情をみせる彼女をみてもハッキリとわかる。その表情はほんのりと朱く。また、出会ったときのような薄さが蘇って、まるで和紙に朱色が広がったような綺麗さがあった。


 その赤さは決して夏の暑さにやられたのもではないのだろう。


「どうしよ、私・・・・・・」


 まるで何かに絶望したよう彼女は言葉を漏らした。


「中に入る? さすがに暑いだろ」


「・・・・・・うん」


 冷たい麦茶を飲み干した彼女は言いにくそうに、空のコップに指を這わす。


「あのね、私。・・・・・・告白されたの」


 彼女の言い方には、それに対しての嬉しさは含まれていないようだった。しかし、彼女の朱色が脳裏に残っている。


 しかし、告白してきた相手の名前を聞いて狗巻の状況に僕は納得した。ウチの学校の中ではかなりモテる男だ。しかも、前に付き合っていた女子がいる。今も、思いを馳せる子もいるはずだ。


 受けいれるも、断るも。決して楽な道ではない。


 狗巻は確かに賢くこの学校の中に収まっていた。最初は多くの生徒と話し、存在を示し。その後は調子に乗ったと思われないように謙虚に落ち着いて過ごしていた。元々、受け身体質の彼女は話を合わせることや、流れに乗ることに抵抗はなく、収まる場所に収まったようだった。


 だが、そこは青春ど真ん中であり、そこに男女がいるなら当たり前にそういうことも起きる。それは、残酷に平等なのだ。だからこそ、こういうことも起きる。


「私はどうすればいいのかわからないの」


「いつも通り、親に聞けばいいんじゃないか?」


「・・・・・・ううん。お母さんには、言えない」


「なんで?」


 狗巻は黙って俯く。ハッキリとはわからないが、彼女の中に何かしらの葛藤があるようだった。でも、その母親に相談できないことを何故僕に言って来たのだろうか。


 そう考えると、自然の納得する答えはでた。


 多分、彼女は答えを出すのが怖いのだろう。母親に言えば、すべてが決まってしまう。狗巻にとって母親が正しくすべてだ。母親が振りなさいといったら、それを受けいれないといけない。いままで、彼女はそうしてきたが今回ばかりはそれができない。


 でも、それは何故だ?


「もしかして・・・・・・前にもこういうことがあったのか?」


 彼女は静かに頷いた。当たってしまったかと僕は頭を掻き、部屋の中に沈黙が広がっていく。


 頭の中で、勝手に彼女の過去を想像し始める。しかし、想像が形になる前に狗巻はゆっくりと答えを語り始めた。


「中学二年の頃。告白されて、私はお母さんに相談したの。でも、そのときは引っ越しは決まっていて。お母さんから辞めないさいっていわれたの。そのとおり、彼にいって断ったんだけど。そこから、引っ越すまでの間いじめにった。どうせ、いなくなるってわかっていたから、本当にひどいいじめだったの」


 結局その、いじめは引っ越すまで終わることなく。狗巻は次の学校に行くのが怖くなった。しかし、母親は不登校は認めなかった。ずる賢く生きれば、大丈夫。そう、彼女に教えた。


 その後彼女は何度も引っ越しを行う。そのたびに、ずる賢く生きるのが上手くなりやっと落ち着く場所の手に入れれるようになった。


「お母さんはここに引っ越すとき言ったの。もう、高校卒業するまではここに住み続けるだろうから上手くやりなさいって。それなのに。どうしよう・・・・・・」


 彼女の言葉を聞いても僕にはやはり、何もできない。それが前提として明確に存在している限り、僕に語るのは間違っているようにも思う。それなのに、彼女は全部話してくれたあ。告白されたことも、過去の傷も。


 かわいそうだとは思う。過去の傷を背負いながら。彼女は今、自分の正しさ。母親という正しさにすがることはできない。大きな葛藤の中で、悩み苦しんでいる。だからこそ、僕には当たり前のことしか言えないんだ。


 狗巻自身が一番わかっていることを。


 彼女はそれを僕に言わせる。


 正しさなんか貫いても、脳が死では救われない。野狗子は僕らを助けない。そもそも、君の脳は野狗子に食われてなんていない。


「自分の【頭】で考えるんだ」


 彼女の朱の表情。既に、答えは出ている。いつまでも、正しさに縋らず。いつまでも、かわいそうに過去の傷を背負わなくてもいい。ただ、少しだけ。自分で考えればいい。気づけばいい。自分の正しさを。




 秋が来る。そんな予感を身に感じ始めたのは。もう十月も中旬の頃だった。


 一人帰る電車の中。孤独はだんだんと、慣れ始めていた。


 今頃になって身にしみてくるは、失恋の痛み。あの日のことを何度も頭で繰り返す。もしあの場面で、僕が正しさを棄てていたら。受けいれるだけの正しさを。


 誰かの正しさは、また誰かの正しさを踏みにじる。


 全部、野狗子のせいだ。僕の脳は死んでいる。野狗子に食べられてしまった。だから、僕は気づけない。救われない。助からない。


 あの時は反響していた疑問が今は僕の中だけにとどまってる。


 このまま楽をして生きていけるか。


 今の僕には、その答えすら出すことができない。彼女がいたあの夏のせいだ。楽をしなかったら、僕はまたあの日々を取り戻せるのだろか。もやはそんな気力もわかない。


 駅に降りると、珍しく彼女も降りていた。それでも、前のように一緒に帰れるわけではない。彼女には既に彼氏がいる。できる限り、一緒にはいない方がいい。それは彼女のためでもあるが、僕のためにもある。


 とりあえず、時間をずらすため。駅の前のコンビニに入り買い物をして出る。


「・・・・・・寒いね」

「・・・・・・何で?」


 何故か、外で狗巻は待っていた。いつもは、前に行ってくれるのに。

 でも、想像以上にそれが嬉しかった。やっぱり、僕にとって彼女は憧れだった。


「彼とは別れたんだ。だから、また一緒に帰ろ」


「大丈夫なのか? それ」


「まぁね、多分大丈夫。別れの秋って言うし。なんとなく、周りは察してくれるかなって・・・・・・。元々、あの人は別れた彼女とかいるし。まぁ、少しは悪く目立つもしれないけど」


「そっか」


 狗巻とまた一緒に登下校を送れるのは嬉しいことだ。だからといって、それだけだ。昔に戻っただけ。いや、彼女は変わった。もはや過去の傷を引きずらず。脳は生き。己の正しさを持っている。それこそ、付き合った相手を振るぐらいの。


 そんな彼女と、並んで歩く。また、振り出しに戻った気分だ。ずる賢く生きて、僕よりも高い場所に住む。そんなことに、劣等感を感じていた夏の前のように。


 受けいれるしかないんだ。もはや、僕らは生きる世界が違うんだから。脳を食われ死にかけの僕と、正しく生きる彼女。


 野狗子のせいだ。僕に、脳があれば。また、彼女を家に送ることができただろうか。


 家にたどり着き。久しぶりに彼女の「また明日ね」を聞いた。


 そして、別れる直前。彼女は僕の名を呼んで、意味深に微笑むと。その言葉を僕に返した。投げかけたあの言葉は今、長い時を得て。反響した。


「自分の【頭】で考えなよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【短編集】ひと世の戯れ Vol.1 岩咲ゼゼ @sinsibou-r

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ