4.猫殺しの叫び
雨上がりの下校。冬の曇り空は朝焼けのようで、夜の陰鬱さも持ち合わせていて、それでいてどっちにも当てはまらない景色を作り出す。たいていの人は憂鬱な気分に染め上げられてしまうものだ。俺もその内の一人。
気づけば湿った地面を睨みながら歩いている。下を向いているから最近いいことがないのか、はたまた良いことがないから下を向いてしまうのか。
まぁ、前を見ていると良いことしか起こらないなんてことはない。要は考えすぎないのが丁度いいのだろう。
そんなことを考えながら意識的に前を向く。
「はぁ?」
こんなものを目にしてしまうなら、ずっと下を向いていた方がよかったと思った。
それは、首を吊った猫だった。いや、人間が自殺をするように猫が木にロープを巻いて首を吊るわけはない。きっと誰かが悪意または無邪気な心をもってこのオブジェクトを作り上げたのだろう。
俺がそのオブジェに対して抱いた感情は、『なんて酷いことを』と、『わかる』だった。その二つの感情を否定する。
『なんて酷いことを』。どの口をもってその言葉を紡げようか。心の中で抱いたことすら可笑しくなる。俺は小学生のころ、近所の人懐っこい猫を石で殴り殺したことがあった。理由なんてあの頃の俺は見つけることはできなかった。今もまだそうだ。
そんな経験があるから否定した。
「たっくん! 何てことしてるの!」
大きな声が聞こえて振り返ると、近所のおばちゃんが立っていた。俺が殺した猫を一番かわいがっていた人で、あの時は一生思い出したくもないくらい怖かった。
最近の印象は優しいおばちゃんだったが、今の顔はあの頃を思い出させて少し不快感を抱かせてくる。その不快感には、俺がこの猫を吊るしたみたいな言い方をされたことも含まれていると思う。
「俺じゃないよ。もうそんなことするガキじゃないし」
そうだ。俺はもうガキじゃない。猫を殺すなんて意味不明なことはしない。これが『わかる』を否定した理由だ。
「いーや、こんなことをする子なんてたっくん以外見たことがない! お母さん呼んできぃ!」
この怒鳴り方……浸りたくない懐かしさだ。
「いや、本当に俺じゃないから」
「また、そんなこと言って!」
どうしたものか。前科があるからあまり威張ったことも言えない。でも、本当に俺じゃないし。
「わかったよ。ひとまず母さんを連れてくるから。でも、本当に俺じゃないからさ。おばちゃんもその間に、頭冷やしといてよ」
「ほら、やっぱりあんたじゃないか! さっさと連れてきなさい!」
なんでこうも、都合のいいことしか受け入れられない耳と脳なのか。俺はおばちゃんの怒鳴り声を背中に浴びながら、早足で帰宅した。その間、無意識のうちに下を向き続けていた。
「ただいま」
「あら、おかえりなさい。良かったわね、雨降っていなくて。明日も降るらしいから、今日みたいに傘を忘れちゃだめよ」
「そんなことよりも、聞いて欲しいんだけどさ……」
部屋にカバンを置いて、母の声が聞こえるリビングに入った。殺猫の容疑者になっていることを伝えようとしたけど、リビングにいた見ない顔を映して固まってしまう。気を抜いてしまう家の中で現れる見知らぬ顔。見るからに年下なのに緊張に縛られてしまう。
「誰?」
「あんたの従弟よ。姉さんが事故で入院してしまってね。急遽預かることになったの」
「お母さん一人っ子じゃなかったっけ? お父さんの方?」
「私の方。まぁ、いろいろあるのよ。ささ、自己紹介して」
母に肩をたたかれても、そいつは俺の顔を見ようとしなかった。足を組んでずっと地面を見つめている。
「秋宮ハルト」
ぼそりとそう呟いた声は堂々としているようにも聞こえ、怯えているようにも聞こえた。なんだろう、昔の俺を見ているような気分になる。そして、なぜか確信してしまった。否定的な思想は浮かび上がってこない。
俺を縛っていた緊張は消え。寧ろ、さっきよりも軽くなった気がした。
ハルトの肩に手を置く。
「俺はタクヤ。お前か? 猫殺したの」
「えっ?」
あほみたいな声を漏らしたのは母だった。ハルトは振り向いて、大きな瞳で俺を見上げていた。鏡がなくて確認はできないけど俺は多分笑顔を向けているんだと思う。
ハルトは瞳を大きくさせた状態で頷いた。
結局、おばちゃんから一番叱られたのは母だった。でも、死んだ猫は完全な野良だった。俺の時みたいにおばちゃんがかわいがっていたわけでもないようだし。何でこの人が怒っているんだと、この人に叱る権利はあるのだろうかと思わずにはいられなかった。
よくよく思い出せば、俺の時も一番怒られていたのは母だった。理不尽に思わないのだろうか。我が子の時はまだしも、いきなり世話を押し付けられた他人の子供なのに。なぜあそこまで頭を下げ続けることができるだろうか。
リビングでハルトが母から怒られている間、俺は自分の部屋で考え続けた。
「ごめんなさい」
急に、ハルトが部屋の扉を開けて言ってきた。
「どうして俺に?」
「わからない」
思わず笑ってしまった。立ち上がって、ハルトの頭を撫でる。よくわからないがかわいい奴だ。抵抗もせずに撫でさせてくれるし。
「そうだよな。わからないよな」
「うん、わからない」
「まぁ、許してやるよ。母さんに許してもらえたって報告してこい。説教はまだまだ続くはずだから」
「うん。よくわからないけど、ありがとう」
「どういたしまして」
俺が頭から手を離すと同時にハルトは動き出す。
なんだか弟ができたみたいだな。
「兄弟そろって猫殺しか……笑えないな」
言葉とは裏腹に俺は微笑みを崩せなかった。
「ハルトのママはね。ずっと音信不通だったの」
ハルトが寝た後、お酒の力を借りて母が話し始めた。
「高校中退して、変な男と結婚しようとして、反対されて、そのまま音信不通になった。まぁ、逃亡劇に成功して二人は見ず知らずの土地で真実の愛を……なんてことにはならなかったみたいだけどね。あっ、ちなみにハルトの父親はその変な男じゃないみたい。また別の男。その男からも捨てられたみたいだけどね」
リアクションに困る。母は身振り手振りを入れながら少々大袈裟に思える言い方で話してきたが、顔は真剣だった。笑っていいのやら悪いのやら。そもそも、そんな話を俺にしてなんだというのだろうか。
「ハルトのママは、ハルトを大切に育ててきたと思う?」
「俺も、小学生の頃はあんな感じだったと思うし大丈夫なんじゃない?」
「でも、猫を吊って殺すなんて変よ。絶対心が病んでいるわ。私がいくら真摯に説教しても全く響いてなかったみたいだし。また殺したりしたら、お母さんもう外に出られないわ」
「母さんは、お姉さんのことが嫌いなの?」
「大っ嫌い!」
「じゃ、ハルトは?」
ビール缶を口につけようとしていた母の動きが止まる。そのまま飲まずに缶をテーブルに置いてため息をついた。
「大丈夫。責任は持つから。さぁ、そろそろお父さんが帰るわ。こんな時間まで起きていたら怒られるわよ」
もう高校生なんだけどなぁ。でも、今はこの場から離れたかったから出かけた言葉を飲み込んで、素直に従い部屋に戻ることにした。
次の日、学校から帰るとハルトが泣いていた。子供らしくない、静かで堪えようとしても止まらないといった感じの泣き方。母は外出中か。
静かなリビングの中。机に伏せて泣くハルトを俺は立ったままずっと見ていた。
「ただいま」
ようやく一言。でも、ハルトは何の変化も見せない。まるで、俺はこの場にいないみたいだ。映像を見せられているような。そんなふうに錯覚してしまう。
昨日の母の話を思い出す。ハルトはずっと一人だったのだろうか。ずっと一人で泣いてきたのだろうか。人に迷惑の掛からない泣き方を覚えてきたのだろうか。
俺はハルトの横に座って昨日のように頭を撫でた。
ヒック、ヒックと痙攣を起こしていた体はだいぶ落ち着いてきている。気が付けば鼻をすする音は寝息に変わっていた。
「さてと」
立ち上がり、リビングの端に投げ捨てられた藍色のランドセルのもとに向かう。これはハルトが家から持ってきたものだ。どうやらおばさんはちゃんと義務教育を受けさせていたようだ。母のせいで、変な想像をしすぎていたのかもしれない。
ランドセルを開けて、中身を調べる。自分が使っていたものとは違うボロボロの教科書。シンプルなデザインが売りなのに、目が痛くなるほど前衛的なアートで汚されたノート。その両方とも、シンプルながらも鋭利な言葉の凶器で満ち溢れていた。
「まぁ、そういうことだよな……。あれ、でも」
ランドセルの中にはきれいな教科書が何冊かあった。これは俺が使っていたものと同じ奴だ。迷路が描かれた算数の教科書なんて懐かしさで笑みがこぼれてしまう。新品同然のノートも一冊ある。
「なるほど。汚れていた奴は前の学校の……」
じゃあ、何で泣いているのだろうか。喧嘩?
「なにしてるの?」
振り返るとハルトがこっちを見ていた。顔は綺麗なままだし、殴られたとかじゃなさそうだ。泣いたせいで腫れた目はまだ潤っている。声も少し震えていた。
「学校どうだった?」
俺は何もなかったかのように、ランドセルを閉じる。立ち上がってハルトの方に行き横に座った。
「別に」
何か言いたげな目で俺を見つめたまま淡々とハルトは答える。
「そうか」
それ以上会話は続かなかった。ハルトは相変わらず下を見つめ始めているし。
仕方なく、立ち上がり冷蔵庫から炭酸飲料を取り出す。コップを二つ用意して、一つをハルトの前に置く。
中身が半分を切っていても、蓋を開けた時は炭酸が弾ける軽快な音を奏でてくれた。飲む側としても気分がいいものだ。コップに注ぐと、しゅわしゅわとこれまた元気よく音を立てている。
俺が一気に飲み干すと、ハルトはゆっくり口をつけて半分くらい飲んで机に置いた。
再び自分のコップに注ぎ。それをまた飲み干した。
「俺もさ、猫を殺したことがあるんだよ」
「おばさんから聞いた」
「そうか……。でもな、今でもなんで殺したのかわからないんだよな」
「……そうなんだ」
「お前は、理由があったのか?」
コップに残った炭酸飲料を飲み干して、ハルトは頷いた。
「なんか、僕に似ていたから……」
その言葉を聞いた瞬間、自分の記憶に焼きついた首を吊った猫がハルトと重なった。そして、首を吊ったハルトというオブジェクトがくっきりと脳内で完成した。そのあまりの完成度に思わず身震いをしてしまう。
「楽にしてやりたかったってことか?」
「ううん。代わりに一回死んでもらった」
……やっぱり、『わかる』を否定して正解だった。ハルトの言葉はあの頃の俺でも理解はできない。
「でも、やっぱりよくわからないや」
ハルトは、ほぼ空になったコップを掴み口につけた。
それから数日の間。ハルトがいきなり泣き始める現象は頻繁に起きた。学校から母のもとに電話がくることもあったようだ。その理由を聞いてもハルトはわからないしか言わない。母と父はそれを放置し続けた。俺はハルトの頭を撫でてやることしかできなかった。それ以上のことはできなかったし、両親のように放置することもできなかった。
父は「ああいうのは無理に干渉しない方がいい」といった。でもやっぱり俺はハルトの傍にいることを辞められなかった。
一匹の猫が、足に擦り寄ってきた。真っ白な毛で丸々太った野良猫。餌でもねだっているのだろうか。
可愛らしい鳴き声で擦り寄ってくる猫に、俺は酷く怯えていた。猫にというより、どうすることもできない現状に。
「ない。ないから! 何もないから!」
ズボンのポケットを裏返し、両手をヒラヒラさせても、猫はねちっこい鳴き声を止めなかった。
覚えているのはそこまで。後は、鳴き続ける猫の声が消えるまで必死だった。近くの大きな石を持って頭を潰したらしい。なぜ、そんな行動をしたのか。逃げずに、殺そうとしたのか。
――わからない。
日曜日、俺はハルトと一緒におばさんの入院している病院に行くことになった。母はおばさんのことが嫌いみたいだし、父もあまり乗り気になってくれなかった。
【秋宮ミキ】と名札がかけられている病室の前。俺がこの病室のドアを開けていいのか迷ってしまう。
「入るか」
そっと吐き出した呟きを受け止め、ハルトは静かに頷くと、自らの力でそのドアを開いた。
――あぁ、そういうことか。
母の言った『責任は持つ』。ハルトの涙。
知らなかったのは俺だけだった。
俺は、一瞬その人を人として見ることができなかった。まるで、あの首を吊った猫を見たときのように、ただのオブジェクトとしてこの目に写してしまった。
包帯で隠された顔に、無数の管に群がられている体。寝台の周りで彼女を看取ろうとする機会の数々の微々たる音が重なって耳に入ってくる。
ハルトの母【秋宮ミキ】の状態は最悪だった。
「お母さん……」
その人のもとにゆっくりと近づき、ハルトは手を握った。それでも、前は向かず下を向いたままだ。
「ハル……。よかった。お母さん、ハルにも見捨てられたら、どうしていいかわからないから。でも、ハルはお母さんを見捨てたりしないもんね。ほんと、優しい子」
空気が抜けるような音と共に紡がれるその言葉の中に、悲しみと少しの怖さを俺は感じてしまった。ハルトは「大丈夫。大丈夫」と台本を読んでいるかのように、淡々と呟き続けている。
「お母さんね。前にも言ったけど、もうすぐ死んじゃうの。また、一人になっちゃうの」
「大丈夫。大丈夫」
「ハル。お母さんを一人にしないで」
「……大丈夫」
ゆっくりと手を離し、ハルトはただ立ってその様子を見ていることしかできていなかった俺のもとに戻ってきた。
「大丈夫か?」
何も答えずにハルトは病室から出て行った。
「おい、待てよ。ちょっと」
ミキさんに一礼してハルトの後を追った。
「もう、良かったのか」
「……っ」
「おうっ!」
急にハルトが俺に抱き着いてきた。服を引っ張って痙攣し始めた。鼻をすすり、身体も震えている。
なんて声を掛ければいいのかわからない。廊下の真ん中で邪魔になるだろうから抱き上げて病院を後にした。
「もう、大丈夫か?」
胸に顔をうずめながらハルトは顔を左右に振った。
やっぱり、母親のあんな姿を見たのが毒だったのか。こんなに甘えてくるハルトは初めて見た。俺は、心許せる存在になれたってことなのだろうか。
だとしても、今は喜んでいられない。どうしようか。
「……よし」
受付の女性から変な顔をされたが、難なく部屋を取ることに成功した。会員になってないせいでいつも行くところよりかは高いが、我ながら面白い発想にたどりついたと思う。
「いったん、離れろ」
そう言って、ハルトを引き剥がそうとすると、意外にも簡単に離れてくれた。
まだ泣き止んではいないようだ。ヒックヒックと痙攣しながら不格好に泣いている。
「ハルト。ここならどんだけ泣いてもいいぞ。まぁ、2時間限定だけどな」
ハルトは、いつも我慢するように泣いている。子供らしくないどこかませた泣き方。でも、やっぱりよくないんだと思う。子供は弱いんだ。それなのにハルトは背負いすぎている。父親から逃げられ、母親を失いそうになっている。
昔いじめられていたことによる、新たな環境での不安と恐怖。そして、母親から言われた「一人にしないで」という呪い。
ミキさんが死んでしまったら、ハルトは一生この言葉にしばられてしまう。
だから、すべてを吐き出してほしい。喉が枯れるくらい叫んで欲しい。
マイクを握って。息を吸い込む。こういうのはハッキリ言って得意じゃない。手本を見せるように叫んでやった。
「いえぇぇぇぇーーーいぃぃ」
狭い室内に俺の声が響き渡る。場を盛り上げるというより、自棄になったような必死の叫び。そんな俺の叫びを聞いて、呆気にとられたようにハルトは俺の顔を見上げた。
「ハルト。叫べ!」
「えっ?」
俺が差し出したマイクをハルトは握ったが、よくわかっていないようだ。マイクと俺を交互に見ながら泣き続けている。
もう一本のマイクを握ってもう一回叫ぶ。
「いえぇぇぇぇーーい」
「……ぃぇーぃ」
ハルトが弱弱しく俺に合わせて掛け声を上げる。
「いいぞ! いえええええぇぇい」
「いっ……いえーっゴッホげっほ」
「その調子だ! いえぇぇぇぇーーーいぃぃ」
まだせき込んでいたハルトは俺の叫びに続かなかった。でも、覚悟を決めたのか。マイクを両手でがっちりと握り、息を吸い込んだ。
「……すぅー」
「いえええぇぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーーーーーいいいいいいいいいいいいーーーーーーー」
大声を出した勢いによってハルトに中に押し込まれていたものが一気に解放されていく。今までの泣き方が嘘に思えるくらいの大声。
「あああああああああー。あああああああー」
喉から絞り出したガラガラの鳴き声。鼻は垂れて、顔はぐちゃぐちゃだ。でも、これでいいんだ。
「じにだくない!」
『死にたくない』ハルトは叫びながら大声で泣き喚いた。つらいもの、怖いもの、不安なもの。それらに囲まれたハルトの葛藤は大きく複雑なものだったのだろう。その葛藤が行き着いた先は生と死。
俺の脳裏に浮かび続けていた首を吊ったハルトのオブジェクト。その叫び声によって、縄が切れて消えていく。
それから直ぐにハルトは眠りについた。
ハルトが寝息を立てる横で俺は静かに笑っていた。
「そういうことだったんだな」
あの時、俺が野良猫を殺してしまったのは、単に叫び方を知らなかっただけなんだ。助けてと泣き叫ぶことができなかった。何でも一人でやろうとしていた。善悪の判らないガキが、頭真っ白で選んだ選択なんて大体間違いなんだ。
俺の場合、その間違えが取り返しのつかないものだっただけ。
「お前も多分そうなんだろ」
病室での様子を思い出す。まるで、安い劇の一幕を見ているように繰り広げられていたハルトと母親の会話。あれは事故に会う前にも繰り返されてきたんだろう。
そして、母親が事故にあって死んでしまいそうになった瞬間。ハルトに葛藤が生まれた。母親を一人にして生きるか。一緒に死ぬか。
長い葛藤の果てにハルトが見つけた選択が身代わりだった。自分と似た野良猫を自分の代わりに死んでもらう。
それでも、葛藤は消えなかったのだろう。寧ろ大きくなっていたのかもしれない。だからこそ叫んだんだ「死にたくない」って。
たった一回大声出して泣いたぐらいで、ハルトの中にあるもの全てが消えてなくなるわけじゃない。だからこそ、支えてやらなければいけない。数日後、ミキさんが亡くなったという知らせが来たとき、俺は強くそれを誓った。
「暇ー。暇すぎるー」
俺の部屋のベットの上で猫のようにごろごろ転がる弟。ハルトは今となってはすっかり小生意気でかわいいガキになりやがった。
小学校の友達とよくヤンチャして父や母に叱られているけど、猫を殺したりなんかはもうしないだろう。
「仕方ないな。どこか行くか」
「カラオケ行きたい!」
「またか。お前声ばかりでかくて音痴なのに、ほんと好きだよな」
「いいじゃん。そういうところでしょ、カラオケって」
「まぁ、そうだな」
大学に入って、車の免許を取ってから俺は完全にハルトの足になっていた。暇なときは一緒にカラオケに行ったり、習い事の送り向かい。たまに、登下校でも車に乗せることもある。少し甘えさせすぎているかなって思うけど。まぁ、いいか。
受付を済ませて、指定された部屋まで行く途中。はしゃいでいたハルトが滑って転んだ。
「いった! なにここ、濡れてるじゃん」
「申し訳ございません!」
どうやら、店員が飲み物をこぼして布巾を取りに行っていた最中だったようだ。
「足元を見てないお前が悪い」
あの頃と比べて随分と高くなったハルトの頭を撫でながら、俺は悪くない気分に満たされていた。
指定された部屋に入ると我先にとハルトがマイクを握った。マイクは二つあるから、急ぐ必要なんてないのに。
曲も選択せず、ハルトはマイクの電源を入れる。大袈裟に思えるほど大きく息を吸い込み、ハルトはそれを一気に吐き出す。
「いええええぇぇぇぇえーーーーいいい!」
それは冬の寒さも、曇りの陰鬱さも跳ね飛ばすくらい気持ちのいい叫びだった。
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