第308話 愛する人を守るために


「ほら、立てよ天童」


 言われた俺は、ゆっくりと立ち上がる。

体が悲鳴をあげている。

喧嘩なんてしたことが無い、したいとも思わない。


「僕は姫川さんの事がずっとずっと好きでね。振られたとき、一度は諦めようと思った。でもな、諦められなくなった。彼女と式を挙げたくなったんだ」


 その吐き気がするような言葉を口にするな。


「この長い髪。んー、今日も素晴らしい、いい香りだ。世界中探してもこの美しい髪を持った女性はいないだろう」


 それは同感してやる。

杏里の髪は長く、サラサラでいい匂いがして、触っているだけで幸せになれる。


「ほら、天童良く見てみろ。この髪、素晴らしいと思わないか?」


「やめて、触らないで!」


 萩原の手が杏里の髪を撫でる。


「おい、いい加減にしろ。杏里が嫌がっているだろ?」


「何でもすると言ったぞ? 髪を触る位なんでもないだろ?」


 杏里の髪を手に取り、自分の顔に近づける。

やめろ! それ以上杏里の髪を、杏里を触るな!


「んー、いい香りだ。今日からこの髪も、姫川さんも僕の物だね」


 萩原は俺の目の前に額縁を投げつけてきた。

俺と杏里の書いた結婚証明書。


「天童、君の手でその紙を処分してくれないか?」


 萩原は祭壇にあったライターを手に取り、俺に投げつけてきた。

これを燃やせと?


「やめて! それは世界で一つしかないの! お願い!」


「だからだろ? 姫川さんの名前が入った結婚証明書は世界に一つしか必要ない。これから僕と書くんだ、だったら前に書いた証明書は不要だよね?」


「そ、そんな……」


 杏里の頬に涙が流れる。


「杏里……」


「萩原さん、私の髪が好きなの?」


 杏里が萩原に問いかける。


「あぁ、大好きだね。その長い髪がとても素敵だよ……」


 杏里の目つきが変わる。

この目を俺は知っている、決意の目だ。

杏里、何をしようとしている?


 杏里は萩原の手に持っていたはさみを奪い取り、俺と萩原から距離を取った。

あん、り? 何を……。


「司君、ごめん!」


 杏里ははさみで自分の髪を、今日の為に編み込まれたその長い髪を。


 自分の手で切り落とした。


 そして、杏里の手から編み込まれた髪がするりと床に落ちる。


「ごめん、ごめんね……」


 杏里の瞼に涙がたまり、そして流れ落ちる。


「ひ、姫川さん……。なぜ、何故そんな事を!」


 萩原が取り乱し始めた。


「私は髪じゃない! 私は私! これであなたの好きな姫川はもういないわ!」


 萩原は杏里の腕をつかみ、杏里からはさみを奪い取る。


「髪が、美しい髪が……。天童、お前のせいだ。お前が……。早く燃やせよ。その証明書、早く燃やせよ! 姫川さんがどうなってもいいのかぁ!」


 杏里の頬にはさみの刃が当たる。


「やめろ! 俺はどうなってもいい、杏里を傷つけるな!」


「だったら燃やせ! お前たちの証明書を、今、この場で!」


 俺は額縁から証明書を取り出し半分に折る。


「司君やめて、それは私と司君のっ!」


「黙れ! 姫川、お前は黙っていろ! 今この場でその顔に、一生消えない傷をつけてもいいんだぞ!」


 萩原の口調も目つきも変わった。

こっちが本性なんだろう。


「杏里、また書けばいいよ。紙よりも、俺は杏里の事が大切だよ」


 手に持った紙を、また半分に折る。

そして、何度か折りたたみ、手のひらサイズになる。

反対の手で持ったライター。


「天童、これでお前と姫川の証明書はなくなるな。ははっ! あーっはっはっは!」


 甲高い声で笑う萩原。


「司君、やめて……」


「杏里、ごめん」


 俺は手に持った、小さく折り畳まれた紙に火をつけた。

ゆっくりと燃え広がる炎。

そしてやがて火は消え、その場には灰だけが残った。

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