第229話 母からの依頼
「じゃぁ、母さんは仕事に行ってくるから、あとは適当によろしくね」
先に父さんが出発し、少し時間をおいて母さんも仕事に向かう。
「分かった。家の事、何かしておく?」
実家に帰ってきても二人とも仕事だし、日中は特にやる事もない。
杏里と少し外に出る予定があるくらいで、少しくらいは家の事でもしようかと思った。
「あら? いいの、珍しいわね。だったら――」
失敗した。母さんに聞くんじゃなかった。
「じゃ、あとはよろしくねー」
笑顔で玄関から出ていく母さんを見送り、俺はリビングでコーヒーを飲む。
杏里は隣に座って、持ってきた紅茶を飲んでいる。
「司君、やっぱり全部するの?」
隣で杏里が少しため息をついている。
さっき母さんと話した内容は、俺の隣で全て一緒に聞いている。
「あー、うん。一緒に頑張ろうか!」
笑顔で杏里に話しかけたが、杏里は少し寂しそうな顔つきになる。
「折角司君と二人っきりでゆっくりできると思ったのに……」
「そ、そんなこと言うなよ! 一緒にやればすぐに終わるさ。終わったら昨日のロケット見に行こうぜ!」
少しだけ杏里の顔に笑顔が戻る。
「何かおすすめでも?」
ふふん。杏里のご機嫌をどうやってとるのか。
百戦錬磨のこの話術! とくと味わうがいい!
「ロケットの隣に建物があって、そこの最上階に喫茶店がある。外の景色を見ながら食べるケーキセットはいいぞ」
「ふふ、いいですね。それで手を打ちますよ」
いつもの杏里に戻る。
さて、二人でいっちょやりますか!
母さんに頼まれたのは、洗濯、掃除、洗い物、庭の雑草取り、父さんの靴磨き、夕飯の買い物と夕飯の準備。
さらに布団を干したりって、どんだけですか!
いくらなんでも多すぎじゃないですか!
「さて、早速だが俺はごみを捨ててくる」
「私も一緒に行く。どこに、どうやって捨てるのか知りたいから」
確かにこれから必要になる知識だな。
さすが杏里先生、よく先を見ていらっしゃる。
ん? 先を見ている?
もしかして定期的に実家に来る気なのか?
そんな事無いよね?
ゴミ袋をまとめ、一緒に集積所へサンダルを履いて行ってみる。
そこには近所のマダムが数名、何かについて話をしている。
「奥さん、聞きました? あそこの旦那が部長に出世ですって」
「あらまー! もうそこまで? 何か裏でしたのかしら?」
「そうそう、それにあそこの奥さん。いままで身に着けていなかったブランドのバッグを見せびらかすように――」
あー、あれですね。朝の会議ですね。
俺は杏里と一緒にこっそり見つからないようにそーっとゴミを捨てて去ろうとする。
「あら? 天童さんの所のお子さんかしら?」
違います。似てるけど違います。
聞こえてないふりをして去ろうとする。
ここで何か言われたり、巻き込まれるのはごめんです!
「ん? その娘(こ)は見かけないけど、もしかして……」
のぅぁぁ! 勘付かれました!
そこを見られますか。逃げるぞ杏里!
俺は杏里の手を取り、ダッシュでその場を去ろうと試みる。
が、杏里が動かなかった。
「おはようございます。しばらく、天童さんの所でお世話になります、姫川と申します。よろしくお願いします」
杏里が普通にマダムズに話しかけている。
ここでファーストアタックを失敗すると、変な噂が流れてしまう。
「あらあら、おはよう。なかなかできたお子さんねー。どこから来たのかしら?」
「はい。天童君と同じ高校で、今下宿でお世話になってます」
「そうなのー、まだ天童さんの所下宿していたのねー。おばあ様が亡くなって、てっきりやめたと思ってたわ」
「じゃぁ、今は管理人さんがいないから、天童さんの所に来たのねー」
何か勘違いされている気がする。
間違ってはいないけど、なんか間違っている。
「はい。数日ですがこちらでお世話になって、また下宿に戻ります」
「あら、ご丁寧に。こちらこそ、よろしくねー」
ふぅ……。どうやら変な話にはならなかったようだ。
しかし、杏里さん。随分積極的に動きますね。
杏里と家に戻り、一息つく。
「杏里、少し話しすぎじゃないか?」
「そうかな? ご近所付き合いは大切だと思うよ。私だって、またここに来た時に会うかもしれないし。初めが肝心」
一理ありますね。
しかし、何だか違和感があるな。何かいつもより積極的な気がする。
「どれ、さっさと言われたことを終わらせて、ロケットを見に行きますか」
「そうだね、早く終わらせよう。シーツの洗濯と、掃除は私がするね」
「じゃぁ、俺は布団を干して、靴磨いたら、庭で雑草と格闘してるわ」
お互いにミッションをクリアするため、迅速に行動する。
杏里が俺の布団のシーツと枕カバーを取り、俺がベランダに布団を干す。
杏里がなぜかシーツを丸めて、そのまま走って一階に行ってしまった。
急ぐのは分かるけど、そんなに走ったら危ないじゃないか。
そして俺は一階から両親の布団を持ってきてベランダに干す。
うーん、重い!
「司君! 洗剤ってこれ使っていいの?」
正直俺に言われても良くわからない。
「あー、適当でいいんじゃないか?」
「分かったー! あと、染み抜きってある?」
染み抜き?
エリとか袖とかケチャップが付いた服とかのシミを抜くやつかな?
「多分洗面台の下のどっかにあると思うから適当に漁ってくれ」
「はーい」
杏里は洗濯が好きなのかな?
わざわざ染み抜きしてくれるなんて。将来いいお嫁さんになりますよ。
そう、良いお嫁さんに……。
そして、俺は黒いワックスと雑草と激しい戦いを行い、無事に勝利を収めた。
疲れた! めちゃ疲れました!
家に戻り、洗面所で手を洗う。そして、リビングに行き、だらっとする。
「お疲れ様。外、暑かったでしょ。これ、良かったら一緒に飲まない?」
俺の目の前にアイスティーが運ばれてきた。
カットレモンもついている。
「ありがとう。ちょうど喉が渇いていたんだ」
杏里が俺の隣に座り、一緒にアイスティーを飲む。
外は良い気温になっており、杏里の腕に軽く触れると、杏里の腕の方が冷たく感じる。
「あー! うまい! 杏里、ありがとう。すごくうまいよ」
「良かった。洗濯と掃除は終わったし、洗い物も終わってるよ。司君の方は?」
「こっちも終わりだ。あとは買い物と、夕飯の準備かな」
「じゃぁ、夕方までは自由行動だね!」
「そうだな。休憩が終わったら昼ごはんもかねて出かけようか」
「うん。ロケット楽しみっ」
杏里の顔が俺の肩に寄りかかってくる。
杏里は目を閉じながら、紅茶の入ったグラスを持ち、紅茶をストローで飲んでいる。
「司君と、こうしてゆっくりするのも好きなんだけどね」
「俺も好きだよ」
「でも、一緒にお出かけするのも好きなんだ」
「奇遇ですね。俺も杏里と一緒に出掛けるのが好きなんだ」
「私と同じだね」
「同じだな」
「私達、遠い未来でも一緒にいる事ができるのかな?」
「分からん。それは俺達次第だ。ま、俺はずっと杏里の側にいるけどな!」
「私だって、司君の側にずっといるよっ」
二人で手を重ね、寄り添う。今までの関係も嫌いじゃない。
でも、俺と杏里は今までよりも一歩前に進めた。
二人で手を取り、一歩一歩進んでいこう。
焦らないでいい。
ゆっくりでいい。
お互いを確かめ合いながら、進んで行けばいいんだ。
「司君?」
「どうした?」
「おすすめのケーキセットは何ですかね?」
「そりゃもちろんあれだ。ショートケーキセットだ。イチゴがたっぷりのな」
「楽しみだね」
そして俺達は、昨日バスから見たロケットとケーキを目指し出かける事にした。
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