第220話 お風呂場での真実


 俺は今絶体絶命の窮地に立たされていた。

湯船につかったまま、目の前に立っている杏里から目が離せない。


 杏里はまだフラフラしながら半目の状態。

恐らく声を出さない所から察するに寝ぼけているのだろう。


 ほんの数秒間、杏里は俺の方を見ている。

が、何も言わずにそのまま洗い場にある椅子に座り込み、髪をまとめ始めた。

そして隣にあったカゴからゴムを取り出し髪を結んでいる。


 手にスポンジボールを取り、何か液体を付けている。

杏里の手にはモリモリになった泡が山の様になり、顔を洗い始めた。


 チャンス! これは神が俺に与えたラストチャンスだ!

湯船から音を立てないようにゆっくりと体を起こし、洗い場へ移動する。

よし、まだ杏里は気が付いていない。


 杏里の背中を見ながらゆっくりと扉の方に移動する。

いい感じだ、このまま行けば脱出成功!


 しかし、海で見た杏里の背中もそうだけど、肌は白くとても綺麗だ。

背中から抱きしめたい欲望を押さえ、俺は息を潜める。

そしてついに扉の取っ手に手をかけた。


 ん? ここで扉を開けたら音が出ないか?

そしたらすぐに気が付きますよね?

まだ開けない方が正解なのでは?


 杏里が大量の泡を顔に付けながら洗顔している姿を横目に、いつでも脱出できるよう体勢を整える。

顔を洗い終わったのか、杏里はシャワーを出し、顔に着いた泡を流し始めた。


 よし! いまだ!

シャワーの音に扉を開ける音を忍ばせ、ゆっくりと脱衣所に移動する。

ずっと杏里を見ていたが、こちらに気が付いた気配はない。

よし、成功だ。神様ありがとう!


 脱衣所で光速に近い速さで体を拭き、裸のままリビングに移動した。

危なかった、今でも杏里の姿が目に焼き付いている。

ひと言で言うなら『綺麗だった』。

タオルを手に持ち、目の前にした杏里の姿に俺は心を奪われてしまった。


 リビングで服を着てから、いつもと同じ様に牛乳を飲む。

ラッパ飲みではなく、きちんとコップに注いで。


「ゴホッ! ゲホゲホ……」


 牛乳を飲んでいる時も、杏里の姿が脳裏を過る。

思わずむせてしまった。杏里、綺麗だったな……。


 モンモンとする気持ちを押さえながら、ソファーで横になり天井を見上げる。

もし、あの時俺が声を上げていたら、杏里はどうしただろうか?

そのまま杏里も声を上げて風呂場から出て行ったのだろうか?


 『きゃー、司君のエッチー』とか、そんな軽い感じで終わったのか?

それとも、手元の桶がマッハで飛んできたのだろうか?


 今となってはその答えは出ない。

が、俺の脳裏に刷り込まれた杏里の姿は、しばらく忘れる事は無いだろう。


 天井を見上げながらボーっとしていると、杏里の顔が視界に入ってくる。


「司君、寝てなかったの?」


「あぁ。まだ、寝てない」


「髪、まだ乾かしていなかったんだ。そこに座って」


 杏里に言われ、ソファーに座り直す。

杏里はドライヤーで俺の髪の毛を乾かしてくれた。


「司君、先に寝ていると思ったよ」


「あー、まだ寝てない。ずっと起きてたよ」


「そっか。今日は結構疲れちゃって。ソファーで寝ちゃったみたい。書置き見て、お風呂に入ったんだけど――」


 俺が風呂に入っている間に起きたのか。


「――お風呂で司君に会った気がした」


 ドキン! お、覚えていらっしゃいますか?

杏里も俺の事を認識していたのか?


「そ、そうなんだ……」


 思わずどもってしまう。

杏里にどう答えるのが正解だ?


「ねぇ、正直に答えてね?」


「お、おぅ。俺はいつでも正直さ」


 鼓動が高鳴る。自然と頭が熱くなっていく。

これは、ドライヤーの熱風のせいではない。


「さっき、私がお風呂に入った時司君いた? いたような気がしたんだけど、気のせいかもしれないし……」


 正直に答えるのが正解か? ごまかすのが正解か?

いや、杏里に隠し事はしたくない。

結果どうなっても、ハンマーで殴られようとも、正直に話そう。


「あー、少しだけいたかな? ほんの少しだけ……」


 頭の上で動いていた杏里の手が止まり、ドライヤーの向きも固定された。

あの、熱いです。そろそろドライヤーを動かしてもらえませんか?


「いたの? やっぱりいたの? 私がお風呂に入った時、司君はお風呂に入っていたの?」


 三回も確認されました。

重要なことは二度話すと良く聞くが、三回話していただけました。

それだけ重要と言う事ですね。はい、十二分にわかります!


「……いた」


 俺は一言だけしか返さなかった。

いや、返すことができなかった。


「見たの? 私がお風呂に入った時、私の事見た? 全部見たの?」


 再びの問いかけ。重要事項は三回尋ねる。

メモしておこう。それから、杏里さん、そろそろ頭が熱いです。


「全部、見ました……」


 杏里の手が、ドライヤーの風が再び動き始める。

助かった。杏里は納得してくれたのかな?


 髪もさらっと乾き、ドライヤーのスイッチがオフになる。

そのままドライヤーは床に転がされ、杏里が俺の隣に座ってきた。


「み、たんだ。司君、私の事、全部見たんだ……」


 はい。上から下まで見てしまいました。

特に背中は重点的に見させていただきました。

謝った方がいいんだよね? 多分、めっちゃ怒ってるよね?


「ごめん。声を掛けようか迷ったんだけど……」


「あっち向いて」


 杏里に言われ、杏里とは逆の方に体を向ける。

杏里には背中しか見えていない。


「えっと……」


 突然、杏里が背中に抱き着いてきた。


「どう、だった? 全部見たんだよね? どう、だった?」


 その問いには即答できる。


「綺麗だった」


 たった一言、その言葉しか出てこなかった。


「バカ……」


 杏里の温もりが背中から伝わってくる。


「ごめん……」


「謝らないで。悪いのは私だし、ごめんね。確認しないでお風呂にはいっちゃって。私の顔、今は司君に見せられない……」


 きっと真っ赤な顔になっているのだろうか。

俺だってそんな抱き着かれたら恥ずかしいですよ。


 抱き着いている杏里の手を握りながら、俺は杏里の方に体を向ける。

目の前で杏里は顔を真っ赤にしながら俺の方を見ている。


「え、ちょっと……。は、ずかしいよ……」


 顔を赤くした杏里も可愛い。


「そんな杏里も可愛いよ。綺麗だった、これは本心だ」


 そっと杏里を抱きしめ、おでこに軽くキスをする。


「あ、ありがとう。でも、今度は初めに声をかけてね」


「あぁ、そうするよ。そうだ、今度一緒にお風呂入ろうか!」


「恥ずかしいからダメ」


 断られました。

大変残念で仕方ありません。


「それは、残念……」


「司君?」


「ん?」


「髪、乾かしてもらっても?」


 杏里に言われ、転がっているドライヤーを手にとる。

ソファーに座った杏里の髪を乾かしてあげる。


「あのね、司君」


「なんだ?」


「今度実家に帰る時、私も一緒に行くでしょ?」


「あぁ、そうだけど」


「お土産、何がいいかな?」


 そんなたわいもない話をしながら、今日も終わる。


「そうだな。適当に食べ物とかでいいんじゃないか?」


「確かお義父さんは甘いもの好きだったよね?」


「あぁ、最中が好きだな」


「明日、一緒に買い物に行こうか」


「だな。手ぶらよりは、何か持って行った方がいいかな」


 実家に杏里を連れて行く。

これがどういう意味なのか、俺は特に気にもしなかった。

ただ、杏里を一人にさせたくなかった、ただそれだけのはず。

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