第162話 深夜の追加作業


「帰る。私はここに居られない」


 杉本の手を握ったまま、離そうとしない高山。

さっきから懸命に杉本を止めている。


「どうして? どうして彩音はここに居られないの?」


 杏里の声を聞いて、少し落ち着きを取り戻しつつある杉本。

さっきまで力いっぱい進もうとしていたが、その力は少し抜けてきている。


「ここは杏里と天童さんの家。私は二人の愛の巣を壊した。だから……」


 愛の巣って……。ここは普通の下宿だぞ?

一緒にご飯食べたり、テレビ見たり歯磨きしたり。

それなりに楽しいとは思うけど、あくまで下宿。


「壊してないよ。そんな事心配していたの?」


 杏里はゆっくりと杉本に歩み寄り、そっと抱きしめた。

杉本も手に持っていた大きなバッグを床に置いている。


「でも……。杏里と天童さんの生活を邪魔して、二人の大切な時間を奪った……」


「いいの。嫌だったら初めから彩音をここへは誘わない。この数日間大変だったけど、とても楽しかったよ」


「楽しかった?」


「うん。みんなで同じ空間で作業をして、ご飯を食べて、とても楽しかった。彩音は楽しくなかったの?」


「私はいつも一人だった。誰も居なく、ずっと一人だった。でも、この数日は大変だったけど楽しかったよ」


「良かったじゃない。だったら帰るとか言わないで。すごく悲しい……」


「ごめん……」


「それにね、彩音の夢を叶えるために、一緒に頑張れるのって素敵だと思ったの」


「そう、なの? 私は邪魔では無かったの?」


「邪魔じゃないよ。彩音の夢をみんなで応援しているの。これからも一緒にねっ」


 杉本が落ち着き、杏里と包容し合っている。

良かった、なんとか収まりそうだ。

軽く高山に目線を送ると、高山もほっとしている。


「今日も泊まっていくでしょ? 一緒にお風呂入ろうよ」


「うん……」


 杉本の持っていた大きいバッグを杏里が肩にかけ、一緒に二階へ戻っていく。

ホールには俺と高山が残された。 


「悪い。止められなかった」


 高山が俺に対して謝罪してくる。

まだ高山は真面目な顔つきだ。いつものニヤッとした顔ではない。


「いや、こっちこそ悪かった。まさか杉本さんがあんな風になるとは予想していなかった」


「まぁ、予想外と言えは天童達が二人で暮らしていたって所もだけどな」


 少しニヤついた高山は、頬をかきながら台所に戻って行った。

俺もその後を追うように台所に戻る。


「さて、どうしたもんかな」


 高山は椅子に座り、食べかけのフルーツを食べ始める。

俺も向かいに座って、同じようにフルーツを一口食べる。


「何がだ?」


「彩音。多分もう大丈夫だと思うけど、ちょっと心配だな」


 確かに。今は落ち着いているけど、また帰るとか言いださないかな。


「今、杉本さんは杏里と一緒にお風呂に入っているだろ? 少しは落ち着いているし大丈夫じゃないか?」


 高山がテーブルの割れてしまったカップに視線を移す。

さっきの騒ぎで割れてしまったカップ。これはどうしようか……。


「そのカップ、さっきの騒ぎで?」


「あぁ。席を立った杏里が手をぶつけて割ってしまった」


 杏里の母親が使っていたカップ。

ある意味、形見の品に近いものがあるだろう。

杏里自身もそうとうショックを受けていたしな。


「そっか。ごめんな……」


「いや、高山が謝る事ではないよ」


 少ししんみりとした俺達は台所のあと片づけもそれなりにし、互いに自室に戻る。

そして、杏里達がお風呂から上がって、俺達は順番に風呂に入った。


 本当だったら原稿の完成記念で、もっと遅くまで騒いでもいいと思ったんだけど、皆それぞれ自室にこもってしまった。

あの状況だったらしょうがない。明日の朝、仕切り直しだな。


 俺は自室の机に割れたカップの破片を集める。

砕け散ったわけではない。割れただけだ。

細かい破片はしょうがないとして、大きな破片はすべて回収した。


 どれ、立体パズルでも組みますか。これでも立体パズルは得意な方だ。

動画投稿サイトにも簡単な立体パズルを秒で組み立てる動画をアップしている。


 デスクライトが光る机で、少しずつ元の形に戻っていくカップ。

前と同じように使う事は出来ないが、せめて形だけでも戻してやりたい。

俺にできるのはこれくらいしかないしな。


 今回のパズルはなかなか難しかった。始めてから結構時間は経過したと思う。

やっと完成する。最後の破片をカップにくっつけ、完成!

終わった、終わりましたぁ! 長かった! 終わったよ!


 目をこすり、思いっきり背伸びをする。


 突然、後ろから抱き着かれた。

おわっ! ビックリした!

心臓がドキっとし、心拍数が高くなる。


 俺の肩に顎を乗せ、耳元に可愛い声が聞こえてくる。

石鹸の甘い香りと、少し頬に触れる長い髪がくすぐったい。


「杏里……」


「ごめん。ノックもしたし、声もかけたんだけど無反応で」


「そっか、まったく気が付かなかった。ごめん」


「ううん、気にしないで。勝手に入ってごめんね。直してくれたんだ」


「頑張ったけど、綺麗には直らなかった」


 杏里が俺を強く抱きしめてくる。


「いいの。その気持ちだけで、私は十分……」


「杉本さんは?」


「一緒に布団で話をしていたんだけど、途中でぐっすり寝ちゃった。疲れていたみたい」


「そっか。ずっと寝てなかったようだしな……。高山は?」


「高山さんの部屋からは大きないびきが聞こえてきた」


「高山らしいな」


「司君は寝ないの?」


 俺もここ数日は結構疲れた。正直しんどかった。

はっきり言えば、しばらくペンは持ちたくない。


「もうそろそろ寝るよ。カップ直してから寝たかったんだ」


 今日直しておけば、明日の朝には動かせると思った。

そうしたら杏里に見せてやる事ができるはず。


「そっか。司君は優しいね……」


 杏里が俺から離れ、ベッドに座った。

そして、俺を手招きしている。


 杏里はいつもだったらピンクのパジャマなのに、今日はキャミソールにショートパンツ。

普段より露出が多く、目のやり場に困る。


「どうした?」


 俺は手招きしている杏里の隣に座り、顔を覗き込む。


「直してくれてありがとう。少しだけ、元気をあげるね」 


 杏里が俺の頬を掴み、そのまま俺の頭を自分の太ももの上に乗せた。

おっふ、膝枕ですか。でも、これは、ちょっと……。


 ショートパンツの膝枕はまずい。

寝たいのに、起きてしまいそう。


「司君はそのまま寝てもいいですよ。おやすみなさい……」


 杏里が軽く俺のおでこにキスをしてくれた。

そして、頭をなでてくれる。だんだんと気持ちが良くなっていき、意識が遠くなっていく。


「杏里……。カップ、ごめん……」


「大丈夫。カップも大切だけど、彩音も大切。でも、司君も大切なんだよ……」


 俺の頬に杏里の涙が落ちてくる。


 やっぱり大切なカップなんだよな。

どんな言葉で言っても、どんなに大切な人がいても、大切なカップには間違いがない。

杏里にとって大切な想いも、そこにあったんだ。


 決して元に戻る事の無い、割れてしまったカップ。

杏里の心もカップと同じように割れてしまったのだろうか……。


 俺は意識が飛びそうな中、杏里の頬を流れる涙を指でふきとり、そのまま杏里の顔を自分の顔に近づけた。

ゆっくりと杏里の顔が俺の顔に近づき、互いの唇が重なる。


「杏里、俺がその心の隙間を全部埋める。俺で埋め尽くす……」


 常夜灯の光るベッドの上。

杏里の膝枕で俺の意識は次第に飛んでいった。


「おやすみ、司君……。私は司君の事、ずっと好きだよ……」


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