第128話 大切な時間


「司君、朝だよー。ねぇ、司君!」


 夢の中にいた俺の耳に杏里の声が入ってくる。

昨夜は少し夜更かしをしてしまい、若干まだ眠い。


 杏里に体を揺さぶられながら、重い瞼を開ける。

目に入ってきたのはすでにジャージに着替えている杏里。

夜更かしした翌日も朝から走るんですか?


「あ、杏里……。今日から走るのか?」


「やっと起きた。試験も終わったし、いつも通りだよ」


 すっかりとやる気になっている杏里の誘いを断るわけにはいかない。

まだ頭がぼんやりするが、さっさと起きますか。


「悪い、すぐ準備して行くから玄関で待っててくれ」


 俺も身支度を終わらせ、久しぶりに杏里とジョギングする。

試験期間は休んでいたが、今日から早朝ランニングの復活だ。


 いつものルートを走り終え、一緒に朝食を作る。

俺はテーブルに座り、杏里の後姿を眺めている。


 杏里の白いエプロン姿に見惚れ、味噌汁の味見をしている姿を新鮮に感じる。

お玉に軽く口づけをしている杏里の姿は、なぜか俺の鼓動を早くする。


「うん、なかなかの味ですね」


 すっかりお料理ができる様になってきた。

グリルで焼いているお魚も焦げの匂いが出ることなく、良い焼き魚の香りが漂ってくる。


「司君、朝ごはん準備できたよ」


 すっかりとお任せになってしまった。

一緒に準備をしようと意思表示はしたものの『私も一人で出来ないといけませんから』と、断られてしまった。


「ありがとう。何か手伝う事は?」


「では、配膳をお願いします」


 杏里料理長に指示を貰い、テーブルに配膳をする。

こんがり焼けた魚の匂いとみそ汁の匂いが食欲をそそる。


「すっかり一人でできるようになったな」


「おかげさまで。司君のお義母さんに感謝しなくちゃ」


 ほのぼのとした朝食の時間が過ぎていく。

毎朝同じ時間に起き、一緒にご飯を食べる。

本当に大したことでもないし、普通に過ぎていく時間だけど、俺はその時間を大切にしたかった。


 杏里のお母さんが亡くなった事を考えても、俺もいつ杏里と別れる事になるか分からない。

事故に合うかもしれない、病気になって入院するかもしれない。

もしかしたら突然引っ越すかもしれないし、朝起きたら異世界に転生しているなんてことは無いよな。


 今を、一緒にいる時間を大切にしよう。

そして、杏里ともっとお互いの事を知って、この先の困難も乗り越えられるようにしていこう。

朝からそんな事を考えつつ、杏里の作った味噌汁を一口飲む。


「しょっぱぁ!」


「あ、しょっぱかったかな?」


 杏里さん。味噌入れすぎですね……。


「す、少しだけしょっぱいかな?」


「ごめん、ちょっと待ってね」


 杏里は席を立ち、ポットからお湯をお椀に差してくれた。


「この位で平気かな?」


 再び味噌汁を飲む。オッケイ、大丈夫です。


「うん、大丈夫だね。どのくらい味噌入れたの?」


 杏里は自分の手を拳にし、微笑む。


「こ、これくらいかな?」


 拳一つ分の味噌を入れたのか。それは多すぎですね。


「ちょ、ちょっと多いな……。あとで水を入れて薄めれば大丈夫。今晩の分もできたと思えば一石二鳥だね」


「そ、そうだね……」


 若干落ち込む杏里。その目は少しだけ遠くを見ている。


「気にするなって。ほら、ちょうどいい味噌汁、うまいじゃん」


「あ、りがと。料理って難しいね」


「そんな事は無い、回数をこなせば何とかなるさ。これからも一緒に頑張ろう」


「うん。今度は何を一緒に作ろうか?」


 こんな普通の会話が楽しい。

ずっと、続けばいいのに。


「そうだ、これ返すね」


 唐突に話を切り出してきた杏里の手にはハンカチが。

綺麗に折りたたまれている。


「これは?」


「この間映画館で貸してくれたハンカチ。でも、これって女性ものだよね? 何で司君が持っているの?」


「あぁ、あれか。良いよ返さなくて、もともと杏里にあげようと買っておいたんだ」


「それはどういうこと?」


「少し前、俺が怪我した時ハンカチ貸してくれただろ? でも血が着いちゃって、洗っても落ちなかったんだ。その代わり新しく買った」


「そんな、わざわざ買わなくても良かったのに……」


「いいんだよ。お礼って訳じゃないけど良かったらそのまま使ってくれ。杏里から借りたハンカチと交換だな」


「司君と交換……。うん、良いよ。私のハンカチと交換で」


 俺に返そうとしていたハンカチを杏里は再び手に取る。

少しだけ杏里は微笑んでいるような気がする。ハンカチ気に入ってくれたのかな?


――


 朝食も終わり、互いに学校へ行く準備を終わらせ、玄関を後にする。

さて、今日も一日頑張りますか。


 駅からいつもの電車に乗り、学校のある駅へ向かう。


「ねぇ、司君。今度隣町の港祭りに行くけど、浴衣って持ってる?」


 俺のタンス、クローゼット、引き出しに浴衣の文字はない。

むしろ、着たことが無い。せいぜい甚平を着る位だ。


「俺は持ってないな。甚平ならあるけど」


「そっか。私、彩音と一緒に浴衣を着ようと思うんだけど、司君も一緒に浴衣着てみない?」


「ん? 俺、浴衣持ってないけど?」


「今ね、アーケードのショップで男性用の浴衣をセールしているの。今日、学校の帰りに一緒に見に行かない?」


 杏里と一緒に浴衣を着るのも悪くない。

ついでに高山も浴衣を勧めておくかな。もしかしたら今回もスーツで来るとかありえるし……。


「そうだな、折角だし俺も浴衣着てみようかな」


 杏里の笑顔が眩しい。俺が浴衣を着る事が嬉しいのか?


「良かった。じゃぁ、学校終わったら一緒に行こうね。いつもの所で待ち合わせ」


 ちょうどホームに着いた。

杏里がいつもの様に先に一人で改札口に向かって歩いて行く。

俺は杏里の背中を眺めながらイヤフォンを耳に入れ、いつもの音楽を流す。


 一人改札口を出て、学校に向かって歩いて行く。

本当は駅を降りても杏里と一緒にそのまま学校に行きたいんだよな。


 まだ高山と杉本しか知らない。このまま黙っていていいのか?

それとも、学校でも普通にいつもと同じように接してもいいのか?


 一人悩む。

別に誰かに聞かれたら『付き合ってます』で、解決するのかな?

俺にその度胸はまだ無い。


 俺は杏里にふさわしい男になっているのか?

学校の奴らは、認めてくれるのか? 

やっぱり不安になる……。

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