第127話 心の隙間


 夕飯の片付けも終わり、お風呂上りに髪を乾かしてもらっている。

杏里の手が俺の頭をなでるたびに癒されていくのがわかる。


 雄三さんの言っていた『まだ母親の事を引きずっている』の意味がまだ分からない。

俺と一緒に暮らすようになってから、杏里は母親の事をあまり話さない。


 俺も自分の家族の事は話さないので、杏里も家族の事を話さないのに違和感は無かった。

ただ、雄三さんの言っていた事が気になる。杏里は母親に対して、何を思っているのだろうか……。


「司君」


「ん? どうした?」


 髪の毛にドライヤーをあてながら、杏里は小さな声で俺に話しかけてきた。


「今日はありがとう。わざわざお母さんのところまで会いに来てくれて」


「礼を言われるほどじゃないよ。俺も杏里のお母さんに会えて良かった」


 実際に会ったわけではないが、杏里の母親が現在どうなっているのか確認できた。

正直なところ、ショックが全くなかったわけではない。

杏里の母親はすでに他界しているのだ。


「司君のお義母さんは元気でいいね。司君の事、きっと愛していると思うよ」


「そうか? 結構口うるさいけどな」


「司君の事、大切に想っているから言ってくるんだよ」


 杏里はいつもと同じように話しているが、心なしか声が震えている気がする。


「はい、今日もすっかり乾きました」


 笑顔で俺にドライヤーを渡してくる。

今度は俺が杏里の髪を乾かす番だ。

杏里が俺の前に座る。長いしっとりとした髪が俺の目の前に現れる。


 前回、杏里は乾かしている途中に寝てしまったが、今日は最後まで付き合ってくれるだろうか。

寝たらまたベッドに運べばいいけど、俺がまたソファーに寝ることになるんだよな……。


「昔ね、まだ小さい頃は良くお母さんに髪を乾かしてもらったんだ。今の司君と同じようにね」


 杏里の髪を手グシて整えながらと乾かし始める。

長い髪はすぐに乾かない。でも、杏里と一緒にいる時間が増えることは、俺にとっても至福の時間になっている。


「そうか、俺に乾かされて嫌じゃないのか?」


「嫌じゃないよ、乾かしてもらうの好きなの。こうして、乾かしてもらうと、お母さんの事を思いだすんだ。ちなみに、お父さんに乾かしてもらったらいつでも半乾きで、結局後でやり直しになるの」


 少しだけ杏里が笑う。でも、心の底からの笑顔ではなく、どこか寂しさを感じる。


「俺だったらいつでも乾かしてやるよ。杏里は、寂しくないのか? その、お母さんがいなくて……」


 聞いていいのか、少し不安だったが、どうしても確認がしたかった。

杏里の心に眠る、母親の事を俺は知りたかったんだ。


「正直に話すと、寂しい。司君のお義母さんにあった時も、話をした時も、一緒に料理していた時も、一緒に寝ていた時も……。それに、こうして乾かしてもらってる時も、お母さんを思いだす。今でも、生きててほしかった……」


 泣いているのか? 俺からは杏里の顔は見えない。

でも、涙を流しているような気がした。


「杏里はお母さんの事、好きだったんだな。今でも好きなんだろ?」


 無言で頷く杏里。きっと今でも、これからもずっと好きなんだろうな。

でも、会う事は出来ない。話す事も出来ない。杏里はもう母親に想いを伝える事が出来ない。


「でもさ、杏里の心にはお母さんはいるんだろ? きっとその思い出は、なくなる事はないし、杏里がお母さんの事好きだっていう想いもなくならないよ」


「そうだね。なくならない、いつでも心にお母さんはいる。けど、やっぱり寂しいって思う事は多い。心のどこかに穴が開いている感じがするの」


「寂しいって思う事は悪い事じゃないよ。それだけお母さんへの想いが大きかったんだ。その隙間はいつかきっと、少しずつ埋まっていくよ」


 俺は杏里を後ろからそっと抱きしめ、杏里の頭に自分の額を当てる。


「俺がいるよ。その心の隙間、全部は埋まらないかもしれないけど、俺が少しずつ埋めていく」


「司君……」


「もし、俺だけじゃ足りなかったら俺の母さんや父さん、それに高山や杉本さんだって埋めてくれる。みんな杏里の事、大切にしているんだ」


「ありがとう。私、司君のこと好きになって良かった……」


「ほら、まだ乾ききっていない。早く乾かさないと風邪ひくよ」


 再び髪を乾かし始める俺の手を、杏里がそっと手を重ねてきた。


「司君。あのさ、今日一緒に……」 


 俺の目を見て話してくる杏里の瞳は、なぜか潤んでいて破壊力が増している。

しかも上目使いで、俺を真っ直ぐに見てくる。

もしかして、あれか? 一緒に寝ようとかか?


 しょ、しょうがないな。

雄三さんにはさっき清き交際と言ってしまったが、事故が起きなければいいよね?

これは必然的に通過する道。俺達は恋人同士。同じ屋根の下に住む者同士。

問題はない!


「いいよ、杏里が思うようにしたらいいよ」


「良いの? きっと深夜まで寝られないけど、本当に良いの?」


「俺は杏里の心の隙間を埋めると言った。男に二言はない!」


 こうして、俺は杏里の髪を乾かし終え、二人で一緒に歯磨きをしに洗面所に。

並んだコップに並んだ歯ブラシ。何だか新婚のような感じがするが、新婚ではない。


 その後、寝る準備をして俺は自室のベッドに寝転んだ。

布団にもぐってスマホのアラームをセット。明日はいつも通りに起きよう。


 しばらくするとクッションを抱きしめた杏里が俺の部屋に入ってきた。

ピンクのパジャマが可愛い。常夜灯だけが光る俺の部屋に杏里が立っている。

その姿が幻想的に浮かび上がり、杏里が実年齢よりも少しだけ幼く見えてしまう。


「本当に良いの? 司君は後悔しない?」


 俺はベッドから起き上がり、杏里の方を見て話す。


「心配するな。ほら、杏里のしたい事、するんだろ?」


 ゆっくりと俺に向かって歩み寄り、俺の隣に座った杏里。


「隣に座ってもいいよね?」


 薄暗い部屋の中、俺と杏里はベッドに腰掛け、少しだけ互いに無言になってしまう。


「杏里……」


「昔、まだお母さんが生きて居た頃ね――」


 杏里は小さな声で話しだした。

それは杏里のお母さんがまだ生きていた頃の話。

一緒に出掛けた事や、クッキーを作ったこと、家族で遊園地に行ったこと。

杏里はずっと話している。俺は真剣に杏里の話を聞き、時には質問したり、相槌を打ったり。


 しばらく話を聞いてたが、結構な時間が経過している。

時計を見ると深夜の二時。随分と杏里は語っていた。


「――と、言う事があったの。ごめんね、結構話しちゃったね」


 正直もう眠い。しかも、杏里は興奮していたのか、同じ話が何回か出てきていた。

でも、俺はその話を初めて聞くかのようにずっと聞き続けていた。


「色々な思い出があるんだな……」


「私ね、お母さんの事こんなに話したの初めて。ありがとう、聞いてくれて……」


 杏里の肩が俺の肩に触れる。

杏里の体重と、体温を感じる。温かくもあり、ぬくもりを感じる。


「少しは元気になったか?」


「うん。司君に元気をもらったよ。ありがとう、聞いてくれて。すっかり遅くなっちゃったね、ごめんね」


「気にするな。また、お母さんのこと、聞かせてくれ」


「うん……」


 ベッドから立ち上がった杏里は俺の方に近づいてくる。

ゆっくりと杏里の顔が俺に近づき、俺の頬に杏里の唇が触れる。


「おやすみ。また、聞いてね……」


 俺は杏里が部屋を出ていくまで、動く事も言葉を出すこともできなかった。

部屋の戸が閉まる音が聞こえる。


「お、おやすみ……」


 誰もいない部屋で一人、言葉を発する。

少しだけ、寂しいと感じてしまいます。


 俺は一人布団にもぐりこみ、杏里から聞いたお母さんの事を考えながら眠りにつく。

杏里の心の隙間は少しでも埋まったのだろうか?

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