第2話 いつかワタシに

 昨日、ワタシは失恋した。

 昨日だけじゃない。もうずっと失恋している。


 スマホのアラーム音で目を覚ます。家を出る予定時間の二時間前、まず起きてすることはベッド脇の机に置いた手鏡で自分の顔を見ることだ。

 良質な睡眠は取れたか、むくんでいないか、シーツやまくらカバーの痕はついていないか……数分かけて隈なくチェックした後、軽くため息をついてベッドの上でストレッチを行う。

 可愛くいられるのは十代の間だけ。一年歳を取るごとに身体も顔も不細工になっていく気がした。だから、自己管理やメンテナンスを行い、出来るだけ「可愛い」時間を引き延ばしたかった。

 ググっと伸ばされた足に気持ち良い痛さを感じる。睡眠で固まった身体をゆっくりほぐすようにストレッチを続けながら、目を閉じた。

 昨日のバレンタインは、後輩が出来たせいか去年よりも沢山のチョコレートを貰った。彼女たちはワタシに少しでも近づきたいと憧れの眼差しを向けている。ワタシはそんな彼女たちの気持ちに何も気付いていない無垢な態度で微笑を向ける。それがまた、新たな好感を生むことをワタシは知っていた。

(……あの人、誰だっけ)

 昨日の放課後、わざわざ呼び出してまでチョコレートを渡してきた女子生徒。ブローも知らないような黒髪を野暮ったく伸ばして、スタイルはお世辞にも良いとは言えない。笑った顔もぎこちなく、喋るたびに落ち着きなく動かされる手足しがなんだか昆虫みたいで気持ちが悪かった。

――― 誰って、一年生の時、隣の席だったじゃない。

 引き攣った笑いで彼女はそう言った。

――― 私の気持ちを踏みにじるの?

――― 私に笑いかけてくれて、宜しくねって言ってくれたじゃない。

 きっと一年生の時のことを言っているのだろう。でも、ワタシは自分がいつ声をかけたのか覚えていない。第一、あんな子を相手にするだろうか。肌の手入れなど一切していないのだろう。頬にはいくつもニキビができ、乾燥に負けて脂ぎっていた。チョコレートの入った紙袋を握る指は、ぷっくりと短く、この指にはめられる指輪が可哀そうとすら思った。

 ワタシは美意識の低い女子が大嫌いだった。そして、そんな人間がワタシに「好き」と伝えて来ること自体に怒りに近い感情が湧いた。何処で勘違いをしたのか知らないが、自分のことを覚えていなかったワタシを攻める姿勢も気に入らなかった。


 数分間のストレッチを終え、ため息をつくように息を吐く。ストレスは肌荒れの元になる。嫌だったことは、忘れるに限る。そう自分を納得させ、シャワーを浴びた。自分の身体を可愛がるように洗い上げ、トリートメントも念入りに。シャワー後のスキンケアとブローはより丁寧に行う。ナチュラルメイクを施し、制服を身にまとうと鏡に全身を映した。

「可愛い?」

 鏡に尋ねる。誰がどう見ても、今日も可愛い「甘津姫乃」が完成していた。

「……ワタシのこと好き?」

 鏡に映ったワタシは笑わない。勿論、好きとも言ってくれない。絶望と悲しさと寂しさが入り混じった感情が心の底から湧き上がる。このやりとりは、もう物心ついたころから毎朝行われていた。

 姫乃ちゃんが一番カワイイ。

 姫乃さんが一番キレイ。

両親だって、何かあるごとに自慢の娘だと誇ってくれるし、誰もが羨望の眼差しでワタシを見るのに、鏡の中の「ワタシ」は一度もワタシを愛してくれない。好きと言ってはくれない。いつになったら「ワタシ」から好きになってもらえるのか、ワタシにはわからなかった。

 どれぐらい可愛くなれば、勉強を頑張れば、周囲から信用されれば……あらゆる手段を尽くしながら努力してきたけれど、もう時間がない。高校を卒業してしまえば、可愛らしさは失われる一方だ。そうなってしまえば、もう二度と「ワタシ」はワタシを愛してはくれない。昨日の放課後、あんなやりとりがあったせいか、今日は上手く気持ちを切り替えられないでいた。


予定通り遅れることなく家を出て、駅に向かう途中、声をかけられた。幼いころから仲の良い男の子だった。小学校を卒業すると同時に相手が引っ越してしまったせいで、中学での交流は無かったが、高校に進学して、駅を利用するようになると同じ時間の電車に乗り合わせたことでまた話すようになった。

 彼は、もともとスポーツが好きだったから、部活動に力を入れていることで有名な高校に進学した。体格も態度も大人っぽくなり、もともと優しい性格だったが、そこに爽やかさが追加された気がした。

 彼と改札をくぐると電車に乗り込むホームで、一人の女子生徒がこちらに気付いて手を挙げた。彼と同じ学校の制服を着ている女子生徒は、彼の恋人だった。手入れの行き届いたボブヘアがとてもよく似合っている。彼らが付き合い始めたのは、一年の秋だったが、こうして朝、顔を合わせていたらいつの間にかワタシも仲良くなっていた。

 さり気なく塗られたリップカラーはこの冬の人気色だ。控えめながらしっかり美意思を持っている姿には好感が持てた。

 今朝はタイミングが良かったのか、いつも乗り込む場所に誰も並んでいなかった。だから、列を作る場所の一番前に彼女とワタシが横並びになり、彼女の後ろに彼が立った。三人で並びながら、新作映画の話を切り出すと、今週の日曜日、新しく出来た映画館へ観に行くんだと二人は楽しげに笑った。ホーム内には快速電車が入ってくることを知らせるアナウンスが流れた。その時だった。

瞬間、何が起きたのかわからなかった。まるでカメラに写した景色が、手振れでも起きたかのように目の前の景色がブレた。そして、その直後、身体が硬直するぐらいの大きな音で警笛が鳴り響いた。

 まるでトマトが潰れたような音がして、沢山の枝が一気に折れるような音がして、ワタシの履いた学園指定の真っ白な靴下には、イチゴジャムのような液体が張り付いていた。そして、足元には呆然とした顔で這いつくばる彼の姿があった。

 自分の意志とは関係なく身体が上下に激しく揺れる。それに合わせて歯が痛いくらいガチガチと音を立てた。

少しずつ辺りが騒がしくなっていく。私は騒ぎ声に引かれる様に後ろを振り返った。すると、そこには昨日、ワタシにチョコレートを渡そうとしてきた女子生徒が

立っていて。


「これで、アナタを悩ませる存在は居なくなったね」


 目元はクマで真っ黒だった。髪の毛はボサボサだった。肌はひどく荒れて血が滲んですらいる。それなのに唇だけは真っ赤なリップが塗られていて、その黒い目元が、その赤い唇が、にんまりと笑った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る