想いが散るときは、いつも。

シルバーキャット

第1話 私の天使

 昨日、私は失恋した。

 高校二年生のバレンタインデーだった。


 相手は同級生の女の子で、高校入学後に出会った相手だった。私とその子が通う学校は、県内でも有名なお嬢様学校で、制服のデザインもシンプルながら品があり、私立の女子校らしい空気は一部のマニアから絶大の人気を誇っていた。

彼女との出会いは、高校一年生の時席が隣だった、それだけ。「それだけ」だが、「それだけ」の事実が私に運命を感じさせた。大げさでなく、彼女の笑顔一つで日常は彩られ心は乱された。

 甘津姫乃は私にとって正しく天使だったのだ。

 胸元辺りまで伸びた髪の毛は、毛先までちゃんと手入れがされていて、枝毛どころか梅雨時だってうねり一つない。時折、緩く巻いてヘアアレンジしているときだってまるで焼きたてのクロワッサンのように綺麗にカールしていて、格別に愛くるしかった。髪の毛だけでなく、肌もキメが整っていて肌荒れなんて一度も知らないような、まるで常に生まれたてのようなツヤと瑞々しさに溢れていた。身長は平均的だが、全体のバランスがとても綺麗だった。夏場は薄手の制服とポニーテイルが見ているだけで涼し気で、冬場はカーディガンから少しだけ飛び出す指先が可愛らしい。小顔に収まる目と鼻と口は、どのパーツをとっても整っていたが、一際、黒々とした瞳だけはいつだって優し気で、でも奥底には芯があるような、そんな光を放っていた。

 外見だけではない。性格も穏やかで誰にでも笑顔を見せる人懐っこい一面があった。教師は勿論、クラスメイトの誰もが彼女と話をしているときは表情が和らぐ。勿論、成績だって良くて運動も一通り得意で、非の打ち所がないとは彼女のために作られた言葉だと心から思った。


 そんな彼女の傍で過ごせたのは、高校最初の一年間だけで、翌年にはクラスが別れてしまい、離れて過ごすことになった。私は、彼女の姿を一目見たくて、甘津姫乃と同じクラスの友人のもとを頻繁に訪れた。授業間の休み時間は通常五分。二時限目が終わった後の中休みは十分。昼休みは三十五分……出来るだけ多く彼女の姿を見ていたくて、声を聞いていたくて、休み時間は彼女のクラスで過ごしていた。

「姫乃さん、シャンプー変えた? 」

「そうなの。香りがお気に入りでね」

 教室内で話している声が聞こえ、私の胸は高鳴った。甘津姫乃が使用しているシャンプーの銘柄を知ることが出来たからだ。幾ら彼女と交流があるからとは言え、どんなシャンプーを使っているのかなんて、尋ねる勇気は私にはなかった。

 帰り道、早速ドラッグストアに寄ってみた。大きく売り場にコーナーが出来るほど人気なようで、彼女の使用しているシャンプーは直ぐに見つけることが出来た。当然、香りのテスターも用意されている。私はテスターに手を伸ばすと、恥ずかしさから周りに人がいないか確認してから香りを嗅いだ。

 華やかな香りがふわっと届いた瞬間、甘津姫乃の笑顔が浮かぶ。私は、無意識にゆっくり瞬きをして、香りの余韻が残っているうちにシャンプーとコンディショナー、そしてトリートメント等同じ香りのヘアケア商品を購入した。

 彼女に対する想いを募らせながら、時間は無情にも過ぎて行く。夏の暑さが通り過ぎたかと思えばすぐに肌寒くなり、そしてクリスマス、年末のイベントが過ぎて行った。

『明日のバレンタインデーですが、関東でも雪が降るかも知れません』

 一月が駆け足で過ぎ、バレンタイン前日の朝、学校へ向かう支度をしながらそんなニュースが飛び込んできた。

 そのニュースを観ながら、私の胸は高鳴った。

 実は、昨日の日曜日、母の用事でデパートへ出かけたときのことだ。バレンタインが目前という事もあり、店内は女性客で溢れかえっていた。最後尾と書かれた看板を掲げる店員に気付き、列に眼を向けると驚くほどの列が出来ていた。幸い母の買い物はチョコレートではなかったから、その行列に並ばされることもなかったが、店先の人と話し込んでしまい、暇を持て余した私は、チョコレート売り場を当てもなく歩いた。皆、自分の買い物に夢中で歩くのもやっとだったが、人を避ける形で横に逸れたとき、意図せずあるお店の前へ飛び出してしまった。そこは普段何もないスペースだが、バレンタインに合わせて特設会場が開かれていた。

 突然店先に現れた私に店員のお姉さんは嫌な顔せず、にこりと笑う。私はそのままその場を離れるのもなんだか申し訳ない気がして、ガラスケースに並んだチョコレートを眺めた。花の形をしたチョコレートや動物を象ったもの等、全体的に可愛らしい品物ばかりが並んでいた。しかし、その殆どに「完売」の札が付けられており、値段だってそれなりなのに凄いな、なんて思わず感心してしまった。

 満足するようにその場を離れようとするとある商品が目についた。真っ白なウサギが上品に座ってこちらを見ているではないか。首には赤いリボンが結ばれていた。

「このウサギちゃん、可愛いですよね」

 私の視線に気づいた店員がニコニコと声をかけて来る。

「これ、ラスト一点なんです」

 買うつもりはなくても、その言葉にどきりとした。辺りには数人の女性が同じ店のチョコレートを眺めている。私のすぐ隣にいたおばさんも「どれも可愛いわね」なんて口にしながら別の店員に声をかけていた。

「それ、そのウサギ、ください」

 私は考えるより先に店員に言った。


 そのウサギは、今、冷蔵庫の中で出番を待っている。買った直後は高揚感からテンション高めだったが、一晩経つと冷静になり、果たして渡せるだろうかとの不安ばかりが胸を襲った。けれど、ラスト一点だった品物に加え、明日は雪になるかも知れないだなんて、神様が応援してくれているとしか思えなかった。

 バレンタインデー当日、私は彼女の下駄箱にメモを忍ばせた。放課後、多目的室で待っていますとだけ書いて。その日はもう放課後のことばかりを考えて過ごし、心臓は常に飛び出しそうなほど激しく脈を打った。

 どうしよう、来てくれるかな。

放課後、足早に教室を後にして、彼女が訪れるのを今日一番の緊張に震えながら待った。

 足音が聞こえ、私が待つ部屋の前で止まると、もう声が出ないほど緊張は最高潮を迎えた。二回ほど控えめなノックの音が聞こえ、ソロッと扉が開く。そして、甘津姫乃が顔を出した。

 可愛らしいくりくりとした瞳はただ私を見つめ、教室に入るバランスのいい身体は、私のためだけに動かされている。その事実を目の当たりにしたとき、私は、今まで感じたことのない幸福に思わず泣いてしまいそうだった。

「待たせちゃった?」

 少しだけ首を傾げ、甘津姫乃は微笑む。

「全然……むしろ呼び出しちゃってごめんね」

「私に何の用かな?」

 両手を後ろに少し前かがみで質問してくる。その仕草に合わせて美しい髪の毛は揺れ、微かに香る同じシャンプーの香りに私は堪らない思いを飲み込んだ。

「今日、バレンタインだから、これ」

 震える手に比べて、差し出す動作はスッと自然に出来た。甘津姫乃は一瞬きょとんとした顔をしたが「私に?」と尋ね、こちらが頷くとにこりと笑い、「有難う」と受け取った。

「でも、なんで?」

「なんでって……」

 一気に顔が赤くなった。そんなの、好きだからに決まっている。

 あなたのことが、大好きだから。

 少し手を伸ばせば触れられる距離にいる甘津姫乃を見つめながら、私は掠れる声でそう呟いた。

 甘津姫乃は大きな瞳をより大きく見開き、チョコレートと私を交互に見つめた。きっと驚いたのだろう。私自身だって、こんなにも素直に気持ちを伝えられるなんて思っていなかった。少し間を置いてから、甘津姫乃は微笑み、形の良い唇から声が発せられた。

ところであなた、誰? と。

気付けば、私は彼女に縋り付いた。何を言ったかまでは覚えていない。けれど、天津姫乃は「私だって毎日失恋している」と独り言のように呟いた。

床には彼女のために買ったチョコレートが入った紙袋が捨てられるように転がっていた。

 そして、とうとう雪も降らなかった。


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