第8話 巨人

 放課後、僕は今日とてリュートのノートを写している。


 この前にも言ったけれど僕たちが通っている高校は名前は進学校で通っている。そのため授業それ自体はしっかりと行っているのだけれど、内容は実につまらなくどこまでも中途半端な感じが抜けない。


 授業を受けることは、新しい知識が広がって好きなのだけれど、こうも難しくも簡単でもない授業を受けることは、はっきり言ってつまらないと感じてしまうのが正直なところだ。


 だから僕はノートを真剣に書こうとなんて思わない。テストの点は取れているのだから、授業なんて興味のある話さえ聞いていれば僕はどうでもいいのだ。

 僕のそういう考え方を基にするならば、リュートの真面目すぎる行動はどうも不思議に思えて仕方がない。


 リュートは主人公席という授業の時間を活用するのにベストなポジションを与えられているというのに、まったく授業をさぼろうとはしていない。そりゃあ隣の僕が話しかければ、気を悪くすることなく談笑もしてくれるのだが、それにしたって板書は余すところなく丁寧に写されている。


 僕の見たところ、リュートはもともと勉強はできるタイプのようなのだ。しかしリュートは真面目にノートをとって授業を聞いて、僕には時間の浪費としか思えない。

 まあ、リュートがそうしてくれているおかげで、僕がいまこうしてノートを映せているわけのだが。


 しかし、ただノートを写すだけなのに終わるまで一緒にいられるとなると話は別だ。そこまでされると、板書をしていない僕が若干の罪悪感を覚えずにはいられない。


「これくらいのこと、別にリュートが一緒にいる必要はないんだぞ」

 隣で頬杖をついて窓の外を見るリュートに問う。しかしリュートから返ってくる言葉はずっと変わらない。


「前みたいなことがあったら困るからな……」

 決まり文句かのようにそう返してくる。


 リュートの言う前のことというのは、アーケード街の空気を澱ませている元凶。不安という言葉の権化である例の廃墟のことを言っているらしいのだが、あいにく僕の記憶は曖昧で鮮明には思い出すことができない。


 強いて覚えていることをあげるとするならば、それは精々リュートの不思議を知ったくらいだ。

「あれ……違う?」

 頭の中に浮かんだ疑問符をつい呟いてしまった。

 その言葉に反応して窓の外を眺めていたリュートが顔をこちらに向ける。


「どこか写し間違えていたか?」

「いやこっちの話だ」


 僕がそう答えると、リュートは「ふーん」と返事をすると顔を逸らしてまた窓の外を眺め始めた。


 そうそう思い出した。リュートの不思議を知ったじゃなくて、不思議な体験をした、だった。

 どうしてかその言葉だけは確信をもって言える。けれどそれ以外のことはどうも記憶が曖昧だ。今となってはどうしてあんな廃墟にいたのかも覚えていない。

 ふとリュートの方を見る。

「…………」


 リュートは相変わらず窓の手すりに体を預けて外を眺めている。一体何を見ているのだろうか。そう思って少し体を浮かせてリュートの視線を追う。するとリュートが眺めている物がすぐに分かった。


 少し前までは木が生い茂っていて全様は見せなかったのに、今は見事に刈り取られてむしろそれと合わせて造形美だと主張しているようにも思える。

 そんな池を僕もリュート越しに眺めるが、僕の気配に気が付いて振り返ったリュートと目があったとき、リュートの眼が「はやく終わらせろ」と言っているように感じたので、僕は池を眺めるのを止めてノート写しに取り掛かった。


 とは言ってもすでに多くは写し終えている、ノートはすぐに写し終えることができた。


「よし」


 一息つくと、リュートは僕がノートを写し終えたのを察したのか、僕の手からノートを抜き取るとカバンを持って足早に帰っていった。


「ちょっと待てよリュート」


 僕が呼び掛けるがリュートはこちらを見もせずに教室から出てしまった。

 僕も慌てて机の物をカバンに詰め込み鍵を持って廊下に出るけれど、そこにはすでにリュートはいなかった。


 廊下はあまりに静かすぎて、まるで世界に僕一人だけかのように錯覚してしまう。

 錯覚したからこそ、僕はいま一つのことを思いつくことができた。


 教室の鍵を閉めた僕はまっすぐリュートを追いかけるでもなくむしろその逆方向、振り返ってすぐにある第二専攻科教室を見た。

 今なら今朝リュートが頑なに僕を妨げようとしたこの教室に、リュートの不思議が詰まっているであろうこの教室に入ることが可能じゃないのか?


 そう思うと胸は高鳴って止まらない。きっと今なら自分の心臓の位置も形状も心拍数さえも正確に当てられる。

 鼓動の音に背中を押され教室のドアに手をかけた。


 ドアに鍵がかかっている心配など一切ない、どうしてかは知らないけれど確実に鍵はかかっていない、僕が求める物はそこにあるのだという感覚を感じずにはいられなかった。

 そうして僕は手をかけたドアを勢いよく横にスライドさせる。あまり使われていないうえ結構年代物のドアのため少し開きは悪かったが、しかし僕の直感通りドアに鍵はかかっていなかった。


 ドアを開け放って待ちにまった第二専攻科教室の内部を見渡すが、しかし僕が見たものは期待外れにも程がある。

 教室内は他の教室と大して何も変わりはしないのだ。前方には黒板と教卓があり、それに向かうように机とイスがそれぞれ三十数個並べられている。

 これでは隣にある僕たちの教室と変わらないじゃないか。


 ため息をついて教室を出ようとしたその時、僕は何も変わりはしない教室の中央当たりに明らかに不自然と思えるものを見つけた。


 それは何と形容しようものか戸惑ってしまう。物体ではないが物質ではあるのだろう、存在はしているが質量はないのかもしれない、あるいは可視化できる新たな気体なのかもしれない。

 それを一言で形容するならば暗闇か、もしくは瘴気だろう。この世の全ての不吉を孕んでいるかのようにそこに存在していた。


 その瘴気は教室の中央、机の上に漂っていた。

 もう一度言おう、机の上に、上空に大気と対流することなくただそこに留まって漂っていた。


「…………」

 まずい。これはまずい。直感的にそう感じたが、僕の体は感情とは反対の行動をする。後ろのドアに手を回して閉じて僕の体は一歩前進した。


 そして少しずつ吸い寄せられるかのように瘴気の元へと僕は体を運んでいく。それは本当に僕がこの瘴気に引き寄せられているのだろうか。いやそんなことはない。

 僕には、僕の内側で声がかすれようとも吠え続ける好奇心が僕の体を運んでいるかのようにさえ感じる。


 恐怖を感じないわけではない、異常だと感じていないわけではない。ただ、だとすればそんなもので解き放たれた猟犬を止めることができるのだろうか、答えは否。


 僕は真っすぐとその瘴気に向かって歩を進める。

 瘴気に近付くにつれて段々と空気が重たくなっていっている気がする。体も少しだるい。こんなこと前にもあったような気がする。上手くは思い出せないが、これと似たような感覚を僕は一度味わっている。


 あと少しで瘴気に触れられそうだと言う所で僕は歩みを止めた。

 今さら怖気づいたわけではない。ただ目の前に映る光景を異様だと、不可解だと感じ見入ってしまったからだ。

 目の前にあった瘴気は段々と一か所に凝縮するように集まり、縮小しきったかと思うと瘴気は一度弾けて今度は明らかに形あるものへと姿を変えた。


「これは……!」

 瘴気が形作った物は人間大の大きさの何かだった。

 最初は瘴気が人間のような形に纏っているだけかと思われたが、瘴気は次第に中身を帯びていった。暗くかかっていた靄が徐々に色濃くなり最終的にはずっしりと重さを感じられる巨人の姿に変貌した。そして巨人の体は土色に色づいていき、今ではその顔までもが窺える。


 その巨人は実体が完全に出来上がると、荒い呼吸と共にゆっくりと僕の方を見た。

「……うっ」


 鋭く光る赤い眼光に当たられて、恐怖を感じた僕の体は思わず一歩後ずさる。

 巨人は僕を見つめて体を完全に僕の方へ向けると、その丸太かと思わせる大きな腕を振り上げて、ギチギチと音がなるくらいに拳を強く握りこんだ。

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