第2話 池の水
開いた窓から流れてくる風はどことなく暖かくて、若干の気持ち悪さをこちらへと運んでくる。
しかし、だからと言って窓を閉めたらしめたでクーラーは大して機能しないし、余計に熱くなってしまうのは目に見えている。
窓越しに景色を眺めていると中庭のほうに池が見えた。面積にして十平方メートルもないくらいだろうか、その池の周りの木を事務員さんが手入れしているが、その額には遠目からでもわかるくらいに汗が浮かんでいた。
風が吹き抜け多少なりともエアコンなどで空調が整っている教室でさえこの暑さだと言うのに、外で太陽に照らされながらする作業など最早地獄のようだろう。
そんな中弱音もはかずにさぼらず作業している事務員はとてつもなく偉大に思える。きっとあの事務員さんは今すぐにでも目の前の池に飛び込みたい気分なのだろうな。
「…………」
切り落とされた木の枝に隠されていた太陽が、一直線に池へと降り注いだ。池の中で泳ぐ鯉の鱗と反射して池がキラキラと輝いて見える。
池というなら、そういえば校舎の裏の方にもう一つ小さな池があったような気がする。
僕が聞いた話だと、もともとは今見ている池くらいの大きさはあったらしいが、新しい校舎を建てる際に邪魔になって大幅に面積を削ったとか。
そんなことならなくしてしまえばと思ったのだが、事務員さんが言うにはむしろそちらの方が、撤去するのに費用がかかってしまうらしい。
そこらへんの大人の事情は僕にはよくわからないが、小さな池が誰にも知られずひっそりと存在していることは確かだ。
今日はちょっと寄ってみようかな。
自分が在学している学校だというのに、その学校について詳しく知らないというのは可笑しな話だし、僕自身そんな場所が本当に今も存在しているのか結構興味がある。
「はやく終わらねえかな……」
よく分からない授業を何となく聞き逃しつつそんなことを呟いた。
「……もうすぐ終わるぞ」
「え?」
どうやら僕のつぶやきは隣にいるリュートに聞こえていたらしく、リュートは前を向きながら小声で僕に囁いた。
「リュートはすげえな、こんな退屈な授業真面目に受けてさ」
僕が言うと、リュートは板書していた手を止めて、ペンを机に置いて一度大きく伸びをした。
「そんな真面目なわけじゃない。板書しているだけで何も考えちゃいないからな」
「板書してるだけでも偉いよ、僕なんか板書すらしたくない」
からっぽのノートをリュートに向かって広げて見せた。驚くほどに何も書かれていない。強いて言うなら僕が暇つぶしに書いた絵がノートの大半を埋め尽くしている。
「真っ黒だけど真っ白だな」
リュートはそう言って笑うとまた伸びをして、ペン先で自分のノートを二回叩いた。
「今日最後の授業だ、ちょっとくらいは板書しとけ」
そう言うと、リュートはまた前を向いてカリカリと音を立てながら板書をしだした。
「仕方ない、僕もそろそろ……」
そう言った途端だった。
――キーンコーンカーンコーン
――キーンコーンカーンコーン
チャイムが鳴り、授業の終わりを告げた。
「あらら」
肩をすくめながらリュートを見ると、リュートもまた肩をすくめあきれ顔でこちらを見ていた。
「ノート、貸してやろうか?」
「頼む」
無言で手渡されたノートを折れないようにファイルとノートの間に挟みこんでカバンの中に詰め込んだ。それから机の中の物を適当に取り出して、カバンの中に放り込んだ。
そんなことをしていると、少しして先生がホームルームを始めた。
窓の外を眺めると、池にあった木の手入れは終了したらしく、事務員のおじさんはどこかへ消えていた。
手入れをされた樹木たちはさっぱりと葉を落とし、見ているとどうしてか若干涼しさを感じさせられた。
ふいに、外から流れ込んだ風を肌に感じた。授業中に感じた感覚とは大きく違い、そこに生ぬるいような、気持ちの悪いような感触はなく、今感じた風はどこか心地が良かった。
そう感じてやっと気づいた。
なるほど、生い茂っていた樹木はその葉を切り落とすのと一緒に、僕たちの中にあった残暑さえも持って行ってしまったのだ。
そんな風に、一人で自然の享受に感謝しているといつの間にやらホームルームは終了していて、教室にいた生徒はまばらに姿を消していった。
「さて、僕も帰ろうか」
そう思って席を立った時に思い出した。
「そうだ、あの池に行くんだった」
校舎の裏にひっそりと隠れるように存在するあの池。
僕一人ならば決して行くことはないのだと思うのだけれども、しかし今ここにはリュートがいる。まだ転校して間もないリュートはそんな穴場のことは知らないはずだ。
そんなリュートにこの学校の大半の生徒が知らないであろう場所を教えるという僕の粋な計らいというわけだ。
「なあリュートこのあとちょっと――」
勢いよく振り返ってそう言ったがそこにリュートの姿はなく、僕の声は虚しく虚空を彷徨った。
「なあんだ、もう帰ったのか?」
どうしようか、こっちは完全に行く気でいたのにこうも肩透かしを喰らってしまうと、何となく頑固になってしまう。
「ちょっとだけ寄って帰ろ」
どうせ帰っても暇なだけだもんな。
そうして、僕は校舎の裏にたたずむ小さな池を目指して歩き出す。昇降口を出てすぐに左へと曲がり、人ひとり入れるくらいの校舎と校舎の小さな隙間を抜けると、新校舎と旧校舎を繋ぐ廊下の下にでる。
こここそが、今は誰にも忘れられてしまった小さな池が存在する場所。現在は何の手入れもされておらず草は生い茂っている。
そんな草をかき分けた先にあるのが僕が言っていた小さな池なのだが。
「ん……?」
遠くからなのでよく見えないが僕が目指そうとしている先、例の池に人影が見える。その人影はどこか見たことがあるような気がした。
歩を進めて近寄ってみるが、どういう訳か何かが太陽の光を反射してよく見えない。
だが、あちらは僕が近寄って来たのに気が付いたようで、こちらをまじまじと見つめて、また顔を池の方へ落とした。
その時、その人影がこちらに顔を向けてくれたことにより僕もその人影の顔をやっと視認することができたのと同時に、どうして僕が最初は上手く顔を見ることができなかったのかが理解できた。
その人は、輝くような銀色の頭髪を持ち、その髪の毛は天から降り注ぐ太陽光を浴びて、知らぬ間にあちこちにその輝きを発揮していたのだ。
そう、この学校にいる銀色の髪の毛の人物など二人としていない。
「リュート」
そこにはリュートが難しそうな顔をして池を眺めていた。
「どうしてこんなところに」
速足で駆け寄りながら池を眺めるリュートに声をかけた。
すると、リュートは顔を上げて、今度は顔だけではなく全身をこちらに向けて言った。
「それはこっちの台詞なんだけどな……」
「そりゃあ僕は、ここがこの学校の穴場だと知っているからたまに来たりしてるんだよ」
もちろん嘘だ。
こんな所など初めて存在を知ったその日に興味本位で来た意外に来たことなどない。
「それよりリュートはどうしてこんなところ知ってるんだよ?」
「俺は……たまたま見つけたんだよ」
池を眺めながらリュートはぞんざいに言った。
「ふーん……」
そんなリュートにつられて僕も適当な返しをして同じように池を眺めた。
「……なんか、随分と汚れてるなこの水」
僕は池を眺めながらそう言った。たしかに夏場は池の水が濁るとはよく聞くけれど、今はもう秋に入ったころだし、季節せいとはあまり考えられない。
不思議に思って池の前にしゃがみ込もうとする。しかし突然、僕の肩を後ろにいたリュートが強く引っ張った。
しゃがもうとしていた僕の体は途中で静止され、そして後ろにのけぞるようになり、しりもちを着きそうになったのを少しのところで何とか耐えた。
「おいリュート、なんだよいきなり」
鋭い眼つきでリュートを下から見上げるが、当のリュートは我関せずのように澄ました顔をしていた。
「いや、汚れそうだったからな」
「…………」
「他意はない」
あえて何も言わずリュートを見つめるが、リュートは冷めた表情のまま「本当だ」と言って、踵を返して行った。
「まっ、いいか」
リュートを見る限りでは本当に俺が汚れるのを心配していただけのかもしれないし。
屈んだ状態から立ち上がろうとしたとき、突然リュートはピタリと止まった。
「……そこの池な、あんまり近寄らない方が良いぞ」
「どうして?」
池の水を眺めながら応える。落ちていた木の棒を使って水の中をかき混ぜるが、濁った水は一向に綺麗になる気配がない。
「その池の右にある木」
「右にある木……」
言われて僕は右に生えた木を見た。なんの変哲もないただの木のように見えるのだが。不思議に思い、池を囲むように置かれている石を足場に木の枝まで顔を近づけてみる。
「……その木がどうしたんだ?」
枝に片腕をかけながら質問をする。
「そこの木の枝に蜂の巣がある」
「え?」
反射的に左右を見渡した。すると丁度僕の右側に蜂の巣(きっとスズメバチだろう)が木に着けられていた。よく見るとその周りには確かにハチが群がっていた。
「ちょ、ちょっとまて――」
逃げようと思って、思わず手を放してしまった。そのまま、僕の体は重力に逆らうことなく落下していく。
一度は石に足を着地させたが、いかんせん凹凸の激しい石だったので衝撃を全て吸収するには至らず、僕の足はそのまま水の中へと入りこんでしまった。
――ドボン
と、大きな音がなった。
いやいや「バシャ」だったかもしれない。とにかく、大きな音を立てて僕は池の中に足だけだが入り込んでしまった。
その音に帰ろうとしていたリュートは振り返って、驚きの表情でこちらに駆け寄ってきた。
「おい、何やってんだよ!」
さすがのリュートも僕が木に登っていたとは想像していなかったようで、いつもクールな表情がものの見事に崩れていた。若干悲愴にも見えなくもない。
「わるい、引き揚げてくれ」
「何てことしてくれんだよ……」
僕がそういうよりも早くリュートは僕の腕を掴んで、僕を引っ張りあげた。
うわー、これは。
きっと制服は泥まみれだろうと思って足を見ると、しかし意外にも僕の足は濡れているばかりで泥など一切ついていなかった。
「あれ?」
「何が『あれ?』だよ、さっさと帰るぞヒロ」
今度こそリュートが踵を返して歩いて行った。僕はそれを水に入った足を引きずるようにして必死に追いかけた。
その時、尻目に僕が入った池の水が揺らいでいるのが見えた。かなりの勢いで僕は水の中に足を突っ込んだはずだったのだが、それでも池の水は揺れるばかりでその濁りが消えていることはなかったのだった。
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