第2話

 生きた心地がしない。私とは対極に位置するような存在と、2人でカラオケ。カラオケに行きたいなら沢山いるだろう友達と行けばいいのに。どうして、彼女はこんなことを提案したのだろう。

 それに、彼女は自分がyuiであると言った。

 まるで読めない川崎の行動に悩まされてばかりだ。

 大声で談笑をする高校生の集団にびくびくしている私の横で、彼女は手慣れた様子で受付を済ませていた。

 川崎に腕を引っ張られて辿り着いた部屋は、2人が入るには広すぎず狭すぎず、ちょうどいい広さだった。薄暗い個室に2人がけのソファが2台、小さな机を囲むようにL字に配置されている。扉の対面には大きめのモニターが張り付いていて、その隣にはマイクが2本、リモコンが1機刺さったラックが並んでいる。

 私が先んじて奥側のソファに腰を沈める。柔らかい。目を瞑れば眠れそう。

 リモコンとマイクを引っ張りだした川崎は荷物を手前側のソファに置いて、奥側、つまり私が座っているソファに懸けた。

 眠気なんて一瞬で吹き飛んだ。ひょっとして、彼女は私を籠絡しようとしているのだろうか。そういうくだらない考えですら現実味を帯びてくる。

「荷物置いとくから貸して」

 言われるがままにリュックを差し出す。川崎は自分の体の上を通し、手前のソファに2つのリュックを並べた。

 大きめのストラップがついたリュックと、なんの装飾もない少し擦れたリュックが寄り添い座っている。対称的なリュックには2人の性格が如実に表れている気がした。

「なに歌う? 好きな曲教えてよ」

 私に体をぴったりくっつけて、リモコンをこちらに寄せてくる。

 彼女の短い髪の毛が鼻をくすぐる。淡い柑橘系のいい匂いだ。

 私は香水なんてつけたことがないし、興味がない。他人とこんなに密着することなんてなかったから。

 少しは気を使っておくべきだったと後悔した。

 2人でくっついているせいで体が暑く、汗をかいてしまっている。

 臭くないだろうか。

「失礼します」とドリンクを届けにきた店員が扉を開けた。目が合った。互いに逸らした。

 大きめのグラスに並々注がれたオレンジジュースと緑茶が机に並ぶ。

 最後に店員は私たちを慈しむような目で一瞥してから出ていった。絶対変な勘違いされてる。

 熱を冷ますためにお茶を一気飲みする。

 冷たい。鈍器で殴られたみたいな鈍い痛みが襲う。

 でも、頭痛のおかげで冷静になれた。

「好きなの歌え」を間に受けて本当に好きな曲を歌ってはいけない。その言葉は「私たちの知ってる範囲の曲で好きなの歌え」を意味している。

 中学時代に1度だけカラオケに誘われたことがあり、そのときに同じことを言われた。

 その言葉に従って好きなアニソンを歌ったら嫌な顔をされた。彼らの言葉は間に受けてはいけないのだ。

 歌える曲で、広く認知されている曲を探す。「ランキング検索」という機能は便利だ。やっとこ見つけたのは15年ぐらい前のドラマの主題歌。世代じゃないけど、今も歌番組で歌われるようなポピュラーなやつ。

 やっぱやめた。私は歌うべきじゃない。

「先、どうぞ」

 先、というよりずっと歌って貰って構わない。

「お言葉に甘えて」とタッチペンを操る川崎。3回ほどピッという音がリモコンから鳴ると、こちらを見て、

「アニソンわかる?」

「えぇ、まぁ」

 彼女からアニソンという言葉が出てきたことが意外で、気の抜けた返事をした。

 モニターの画像が切り替わり、なにやら見覚えのあるアニメ映像が映し出される。大音量で流れたロックチューンもまた、聞き覚えがあるものだった。

 あれ、もしかして。と少しだけ顎が上がる。学校の昼の放送でアニソンが流れたときみたいな、表には出せないけど内心興奮している。そんな感じだ。

 10年ぐらい前にちょっと流行ったアニメのオープニング。少なくとも、ファッションでオタク名乗ってる人が知っているアニソンではない。

「知ってる? この曲」

「好き」

「私も」

 ふふん、と得意げに微笑む。

 私も同調して下手くそな笑顔を作る。

 初めて彼女と意見が一致した。別に嬉しくなんてない。

「いやー、人前で歌うのはやっぱ緊張するね」

 わざとらしくそんなことを言う。毎週のように誰かとカラオケに行ってるくせに。

 その言葉の割に伝わってくる彼女の拍動は正常の速度だったから、全然緊張なんてしていないのだろう。

 ギターの演奏が落ち着いてきて、画面には歌詞が表示される。

 彼女はマイクを水平に構え、息を大きく吸い込んだ。

 その歌声は、私が毎朝、毎晩聴いているものとそっくりだった。彼女のあの言葉は虚言じゃないのかもしれない。そう思ってしまった。

 目を瞑り視界を遮る。煩わしい世界を閉じ、歌にだけ集中する。

 確かにそこにはyuiがいた。ここに来てよかった。そう思えた。好きな人と2人でカラオケ。これほど嬉しいことはない。

 彼女の歌に身を委ねていると、時間はあっという間にすぎていく。4分ちょっとなんて、一瞬だ。

「どうだった?」

 目を開けると、川崎唯香が満足気に笑っている。

「本当に、yuiなんですね」

「そう言ったのに。信じてくれてなかったの?」

 事実だと確信するほどに、信じたくないという感情が大きくなっていく。

 ありえない。yuiの歌は孤独な少女の心を叫んだもの。川崎唯香が歌えるはずがない。

 あの曲は、友人に囲まれて青春を謳歌しているような人間が歌っていいものではない。

 もし、本当に川崎唯香がyuiだとしたら。唯一穢れなき存在だと信じていたyuiの言葉すら、偽りに塗れたものだとしたら。「ほんとう」って、あるのだろうか。

 大好きな人が、大嫌いな人だった。

 その衝撃は私の思考回路を散々に掻き乱した。

 意味もなく、おしぼりを弄り回す。少しだけ落ち着いた。

「もしかして、私が自分はみんなから好かれていると思ってる、って思ってる?」

 2人してグラスを傾ける。氷が溶けてできた水だけが流れ込む。

「まさか。むしろ逆だよ。正直、私はみんなから嫌われているとすら思ってる」

 初めて、私と川崎の鼓動が共鳴した。ぎゅっと手を握られ体が跳ねる。

「みんな私のことを好いてくれているのはわかってるよ。でもさ、例えばメッセージの既読がつかないときとか、自分がいないときに遊びに行ってたりとかそういうとき、つい疑っちゃうんだよね。実は裏で嫌われてるんじゃって」

 まさか。そんなわけない。川崎のことを嫌っているのは私ぐらい。他にいて数人だ。心から好いてくれている人が大多数に決まっている。

「それでも表ではいい友達やってるわけだから、それは合わせなきゃいけない。作り笑いも随分上達したよ」

 彼女の独白にただ息を飲むだけだった。自分語りなんて聞いてて不快なだけ。そう思っていたけど、どうしてか不快感は感じられなかった。

「そんな行き場のない悩みを吐き出すために生まれたのがyuiだった。私を知らない人なら私のことをちゃんと見てくれるし、裏も表もないから」

 現実ではどうしようもなくなって、「ほんとう」を求めてインターネットの世界に身を投じる。身に覚えがあった。

 昨日までの私は川崎唯香を他人を疑うことを知らない、万人に好かれる人気者だと思っていた。しかし、それが幻想だったのだと思い知った。

 住んでいる世界はまるで違うけど、彼女も私と同じように悩んでいた。

 私は今この場には似つかわしくない感情に支配されていた。

 嫌悪でも、同情でもない。

 私を支配しているのは喜びだった。初めて自分の感情を共有できる人が現れたから。完璧人間だと思っていた川崎の心の闇を知れたから。どちらも、自分勝手で酷い理由だ。


 彼女はいつもの笑顔を取り戻し、「次、上坂さんが歌ってよ」と催促してくる。

 急いでタッチパネルを叩いて曲を探す。いつかに流行った曲なんかじゃない。川崎は知らないかもしれない。でも、私の好きな曲。

 下手な歌だとも、知らない曲だとも文句は言わせない。

 だって、誘ったのはそっちだから。

 せいぜい微妙な空気に苦しめばいいさ。

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