証言1「eater」
あなたが最近、狂っているなと思ったことを教えてください。
そうですね……、では一つ、私の知り合いの話をしましょう。私は、その子のことを狂っているとは思っていませんが、捉える人によっては狂っていると思うでしょう。
「最近世界は狂い始めた。それに気づいているのは、あたし(、、、)だけなんだ。周りは狂った人ばかり。
でも、あの人と出会えた。この世界は狂っているけれども、あの人に合わせてくれたのだから、ちょっとは感謝してあげてもいいかな。
あの人は、あたしの光。同じ大学の、同じ学部のあの人は、爽やかな笑顔がとてもかっこいいの。ずっと、密かに思っているだけでいい、そう思っていた。
あの人に、食事に誘われるまでは。
学生食堂で、うどんを食べていたとき。ふと見上げた先に、あの人がいた。大きな鳶色の瞳で、あたしをじっと見ていた。
あたしの顔は、徐々に熱くなっていった。きっと、熟れたリンゴのようになっているに違いない。
そんなあたしの顔を見て、あの人は、優しく微笑んだ。そして、あたしの向かい側の席に座ると、こう言ったのだ。
『今夜、食事でもどう?目の前で料理してくれるおいしいお店で』
答えは簡単。もちろん、YES!
あの人は、あたしの答えを聞くと満足そうに微笑み、ポケットから出した紙きれをあたしに手渡した。
『今夜七時、その場所で』
あたしは、文字通り天にも昇る気分だった。ずっと恋焦がれていたあの人に、声をかけられた。それに、食事にも誘われてしまった。あたしは、世界で一番の幸せ者。こんな幸運なんて、凡人には降りかかってこない。 あたしだからこそ、あの人は選んでくれたのだ。
夜七時、あたしは紙きれに書かれていた、「FRESH」という店に来ていた。店を取り囲む針葉樹林は、ある種の不気味さを演出し、あたしを逃がさないぞ、とでも言っているかのような閉塞感を醸し出していた。
あたしはもう、とっくにあの人の罠にはまっていたのだろう。
店の中に入ると、あの人はすでに来ていた。真っ黒なタキシードまで着ちゃって、本当にかっこいい。どこかの国の王子様みたい……なのに、今のあの人は、どこかおかしい。具体的に「ここ」とは言えないが、何か、こう暗い雰囲気がある。得体の知れない生き物が、あの人に取り憑いているようだった。
あたしは、すっかり忘れていた。
この世界が、狂っているということに。
そして、あたしは気づいた。
店の中に、一つも椅子が無いことに。
奇妙な胸騒ぎに襲われた。
『ねぇ、ここ、まだ開店前なんじゃ……』
『いいや、すでに開店してる。大丈夫だよ』
いつもと変わらぬ笑顔で、やや食い気味に返してきた。あたしは、あの人の言葉を信じようと思った。だって、あんなに素敵なあの人が、こんな変な嘘をつくわけがないもの。
あの人は、私を厨房の小さな丸椅子に座らせた。あたしは、少しも奇妙だと感じなかった。あの人の言っていた、『目の前で料理してくれる』という言葉の意味を、やっと理解できたのだ。まさか、厨房で見るなんて思っていなかったけど。
あたしは、美味しいコーヒーを飲みながら、あの人と楽しく会話をしていた。お互いの身の上だとか、友達のおかしな話だとか、そういう、他愛のない話。あたしは、それだけで幸せだった。今がまさに、あたしの人生の絶頂期なのだ。
あの人は、あたしと話しているときに、何度も席を立つことがあった。席を立っては、厨房の料理人の手元を見、そして何やら囁いているようだった。
あたしは、あなたが好き。
その思いを伝えようと思った。本当は食事中に言うべきなんだろうけど。
料理人と話しているあの人の肩を掴んで、こちらに向かせようとした。だけど、あたしはそれができなかった。
フニャッと力が抜けていくような感覚に襲われる。ジェットコースターの落ちる瞬間のような、内臓が上下している感覚に似ている。あたしの体を支えてくれているあの人の温もりを感じる。
もっと、あの人の顔が見たい。
端正な、それでいて野性的な。狼みたいなあの人。
朦朧とする意識の中で、あたしはあの人の顔を捕らえた。が、その顔は歪み、奇妙な膨張の仕方をしていた。
あの綺麗なお顔はどこへ行ったんだろう。
だんだん視界が悪くなっていく。
だんだん眠くなっていく。
その刹那、あの人の声が聞こえた。
『やっと準備が整った』
あたしは、眼を開けた。しかし、体は動かない。どうやらあたしは、拘束されているようだった。それに、何だか視界が逆さまだ。……意識したら、気持ち悪くなってきた。
そうこうしているうちに、あの人がやってきた。手には何かが握られている。
あ、ナイフ。あたしの拘束を解いてくれるのかもしれない!
あの人は、あたしの目の前に来ると、口を開いた。
『僕の仕事、知ってる?』
あたしは首を横に振った。
『人間の、屠殺』
その瞬間あの人のナイフは、綺麗な直線を描きながら、あたしの目の前を颯爽と通って行った。あの人のナイフが通り抜けると、あたしの首は歓喜の雄叫びを上げながら、その生きている証を外の世界へ引っ張り出した。そんなことも露知らず、依然として心臓は動き続けている。受け皿を破壊されても尚、生きている証を送り出している。
すごく狂っている。
そう思うのに、あたしは、全く怖くなかった。
今目の前にいる人が、あの人だからかもしれない。
そして、あたしの意識は再度途切れた。
あたしは、また目を開けた。ふと、下を見てみると、もうあたしの体は無いようだ。首から上だけ、綺麗な装飾の付いたお皿に乗っている。近くには、ぴちぴちの赤いミニトマト。かわいい。
お皿のカチャカチャという音が、あたしの耳に纏わりついてくる。
『今回のは柔らかくておいしいな』
太い声が聞こえた。
『若い女の肉ですからね。鮮度もいい』
あの人の声。あたしを褒めてくれた。
嬉しい。嬉しいのに、声が出ないのはどうしてだろう。
そもそも、この状況下で、どうしてあたしは生きているの?
『皆様、今回のメインは頭でございます。口は取り除いておきました。どうぞ、お召し上がりください』
また、あの人の声。相変わらず、素敵な声だ。
正装の男たちが、あたしの方へ近づいてくる。その中の一人が、あたしの右目をくりぬいた。視神経を切った。また別の人は、あたしの頬肉を削いでいる。
あたしは、怖くなかった。
痛みも感じなかった。
今、誰かが頭蓋骨を開けたようだ。あたしの出来の悪い脳が、知らない男のフォークとナイフで、お皿にちょこんと乗せられた。綺麗なピンク色。成績の悪い頭でも、人間に備わった脳は皆、こんなにも美しくて、美味しそうなのだろうか。
あ、最後の目が捕られてしまった。目玉とぶら下がった視神経しかないのに、見知らぬ男の大きな口が見える。
男は、白い山脈を覗かせて、徐々にあたしに近づいてくる。無遠慮で、下品で、美しくないこの光景に、あたしはなぜか興奮していた。
あたしの新鮮なソレに、白い刃が食い込んでいく。ソレは、たっぷり身の詰まったぷりぷりのトマトのように、突立ててくる刃を吸収していた。が、ある一定の力を受けたことで、あたしのソレは、ぶちゅっというはしたない音を響かせて、必死に守ってきたものを男の中へ放り込んだ。
ソレから誕生した透明な中身は、白い山脈に何度も何度も刺され、潰され、そして滑らかになっていく。男の舌は、ジェル状になったあたしの目玉を奥の洞穴へ誘導する。
興奮と一種の絶望の中、あたしの最後の目は、あの人を捕らえた。もうぐちゃぐちゃになっているけれど、あたしは、あの人だけなら見ることができる。
あの人は、あたしの光だから。
眩しすぎず、暗すぎず、程よい塩梅の光なのだから。
最期に見たあの人は、笑っていた。
出会った頃のような、爽やかな笑顔ではなく、今にも泣きだしてしまいそうな、寂しい笑顔。
あたしをあまり食べられなかったからなのかな。
あたし、あなたになら、全て食べられてもよかったのよ。
むしろ、そっちの方が良かったのに。
でも、あたしはやっぱり幸せよ。
あたし、決めていたの。あなたと別れるときは、死別だって。
愛しているわ。
あたしの、可愛い食いしん坊さん」
どうですか。この話、狂っていないでしょう?
ええ、そうですね。
そういえば、あなたは客としてきたのですか?それとも、食用として?
客でしょうね。
なら安心してくださいね。ここの人は皆、ちゃんとした人ですから。
狂っていますよ。
あら、そんなこと言わないでください。確かに、ここの人は一見狂っているように見えますが、そもそもこの社会自体が狂っているのですよ。国だって、世界だって……、
あなたが、一番狂っていますよ。
え?何言ってるんですか。そんなわけないじゃないですか。この狂った世界で、あの人のような光を見ることができるのは、あたしだけなんです。あたしだけが、正常なんです。おかしいのは、あなたみたいな人でしょう。
いいえ、あなたがダントツです。
いい加減にしてください。あたしは、どこもおかしくないんです。
啖呵を切って去ってしまった女性は、自分はどこもおかしくない、と主張した。
しかし、僕は見逃さなかった。
女性が「話」をするまでの一人称は、「私」。「話」のなかの女の一人称は、「あたし」。「話」を終えた後の女性の一人称は、「あたし」。
つまり、あの「話」の主人公は、自分はおかしくない、と主張していたあの女性だ。
その証拠に、あの女性は、口しかなかった。何かの液体に浸されて、さも自分が生きているかのように振舞っていただけだった。話せる原理はわからなかったが、恐らく「女性」を持っていた男が、何かをしているのだろう。
「女性」を持っている男こそが、彼女の「光」なのだろう。
本物の光を失っても、彼女は一生「光」を見失わない。
彼がいるだけで、彼女は「光」を見出すことができる。
そして、彼女は、永遠に生き続ける。
大事そうに包み込む、彼の腕の中で。
僕も惚れてしまいそうな、爽やかな笑顔の彼の中で。
でも、これだけは言わせてもらおう。
あなたは、やっぱり狂っているよ。
*
僕は、口を魚のようにパクパクしているであろう、目の前の男に(実際には見えないのだが、感覚的に)目をやった。いままでずっと「こいつ」と呼んでいたが、そろそろ名前で呼んであげよう。
「これが、『人肉レストラン事件』の真実です、山田君」
沈黙。山田君、動転して話せなくなってしまったのだろうか。
「山田じゃない。山本だ」
……僕としたことが、ケアレスミスをしてしまうなんて。しかも、人名を。
「おい、真剣に答えろ。お前は、なぜ彼を殺したんだ」
会話は、また元の時点に戻ってきてしまった。
今の話で、山本君はどれくらい理解したのだろう。
いや、きっと全く理解していないだろう。僕たちのような、「狂っている」と言われてしまう人たちの気持ちを理解するには、山本君はまだ固すぎる。僕がもっと、柔らかくしてあげなければ。
「山本君は、彼女の“証言”を理解できなかったようですね。ならば、もう一つ、僕がインタビューした人の“証言”を紹介しましょう」
ちっという山本君の舌打ちは、僕の中の何かに刺さった。
もちろん、眼玉じゃないが。
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