生きる意味は何

 翌日、朝久瀬におはようと言うも無視され、苦笑いで席に着く。読んでいる本を後ろからちらりと覗くと、やっぱり俺の好きなあのライトノベルで、昨日あったことは本当のことだったんだなと安心した。

 友人たちとどうでもいい話で盛り上がって、一時間目。古典の先生が教室に入ってくる。俺は机から古典の教科書やノートを出して、筆箱を用意する。しかし、筆箱がなかった。鞄の中を見てもない。あれ、と思った俺は記憶を辿り、昨日急いでいたせいで部室に筆箱を忘れた可能性に行き着いた。

「部室か……」

 手を組んでがっくりと項垂れる。そうだ、そういえば昨日部室で課題をやろうとして、嫌になったからカメラを持ったのだ。そして久瀬に会い、そのまま課題と筆箱を忘れてきた。

「二宮」

 名前を呼ばれて顔を上げると、久瀬がこっちを見ていた。プリントが前から配られていたらしい。

「ん、ごめん」

 一枚受け取って、残りを後ろへ回す。まずい、と思った。もう授業が始まっているので、ロッカーにあるならまだしも、部室まで取りに行くことはできない。でも、古典はたくさんノートをとる授業だから、一時間ぼーっとするのもむだだ。

 俺がどうしよう、と思っていると、机の上に消しゴムとシャーペンが置かれた。え、と驚いていると、そこに赤と青の二色ボールペンも追加される。久瀬だった。

「ありがとう」

 小声でお礼を言って、俺は板書をする。久瀬のおかげで、古典の時間をむだにすることなく終えられた。

「ね、久瀬」

 授業が終わり、俺は席に座ったまま後ろから久瀬に話しかける。

「ありがとう、これ」

 返事はないが、聞こえていればいい。

「ほんと助かった。このまま借りててもいい?」

 久瀬は頷いた。俺は借りたペンを見てにやにやしながら、次の時間の準備をする。

 おかげで特に困ることなく今日最後の授業が始まった。コミュニケーション英語だ。授業初めに単語テストがあるので、コ英の前の十分休みはみんな必死になる。俺も直前になってから頭に叩き込み、忘れないうちに用紙に記入する。その様子を歩き回って見ているコ英の先生が、久瀬の横で止まった。

「久瀬くん、間違えたとこは二重線じゃなくて、ちゃんと消しゴムで消して」

 久瀬が小さな声で、「ないです」と答える。え、と俺は思った。今久瀬は、消しゴムがないと言ったか。それは、俺に貸しているからではないか?

 授業が終わって、俺は久瀬に話しかける。

「ねえ、久瀬」

 久瀬がゆっくりと振り向く。

「これありがとう。助かったよ。でも久瀬、消しゴム一個しか持ってなかったの? それ俺に貸しちゃったの?」

 俺からシャーペンたちを受け取って筆箱にしまう久瀬。無視かな、と思っていたら、口を開いた。

「だって俺のせいでしょ。忘れたの」

 意外な言葉に、俺はきょとんとする。

「昨日俺のこと追いかけて急いだから部室に筆箱忘れたんじゃない、違う?」

 合っていた。俺が部室とつぶやいたことと、ペンを机に出していなかったことでそこまで気づいていたらしい。

「だから悪いと思った。それだけ」

 荷物をまとめた久瀬は、そう言うと立ち上がった。鞄を持って、掃除のために机を前に寄せ、帰ろうとする。

「待って!」

 その後ろ姿がなんだかとてもかっこよく思えて、俺は呼び止めた。

「今日も一緒に帰ろう」

 久瀬は振り向かずに「部活」とだけ答える。仲良くなるにはまだかかりそうだった。


 久瀬は文芸部だ。小説とか書いたりする部、とぼんやりとは知っているものの、詳しくは知らない。毎年文化祭で部誌を売っている。久瀬はどんな話を書くのだろうか。去年部誌を買っておかなかったことを今更後悔した。

 うちの文芸部は結構強豪らしいが、校内ではあまり良い評判ではない。特に生徒からは変なやつの集まり、暗くて陰気、と言われている。もちろん、中には明るくて普通に友達が多い人もいる。しかし久瀬はあの通りなので、変人と避けられる方の文芸部だった。


 久瀬に毎日話しかけ、九割くらい無視され、それでも話しかけ続けて、本を見つけた日からもう一ヶ月近くなる。高総体のシーズンがやってきた。文化部の俺たちにはあまり関係ないが、自習の授業が増えるというのは少し嬉しい。この日も体育は自習だったから、俺は友人たちのバレーから離れて久瀬のところへ行った。自習の体育とあらば壁際に座っているだけで動かない久瀬のところに。

 隣に座って、顔を見る。無表情で何を考えているのかはわからない。

「ねえ、久瀬」

 俺に呼ばれても相変わらず無視で、もうこれはいつものことなので気にせずに続ける。

「久瀬ってさ、生きてて楽しい? なんのために生きてる?」

 一ヶ月前のあの日、聞こうとしていたことを聞いた。ばかにしたりする気持ちは一切ない。ただ、俺自身が今、何が楽しくてなんのために生きているのかわからなかったから。だから、自分と似ていると思っている久瀬の答えが気になった。

「理由がなきゃ生きてちゃだめ?」

 前を向いたまま、久瀬は言った。もう慣れたが、声が小さい。

「まあ、生きてて楽しいと思うために生きてるかも」

 それはとても予想外な答えだった。生きてて楽しいと、思うために生きてる。そんなふうに思ったことは一度もなかった。俺は、このとき初めて、はっきりと、久瀬と俺は似ているけれど、久瀬は俺よりずっとすごいやつだ、と思ったのである。

 答えてもらったのに、それに対する返事はできなかった。小さく「そっか」、とつぶやいて、そのままぼんやりと友人たちのバレーを眺める。健人と雅也はバレー部なのでさすがに上手い。瞬はバスケ部のはずなのにその二人と渡り合えている。不思議だ。

 俺も、生きてて楽しいと思うために生きてみようか。生きてて楽しいと思える日がきたら、「生きてて良かった」ってことだろう。それを楽しみに生きるのも、いいかもしれない。

 俺はもうひとつ、気になっていたことを聞くことにした。

「なんで文芸部なの?」

 久瀬は面倒ごとを嫌うタイプで、それならもっと楽な部活もあったと思う。やはりあの小説のようなものを作ることに憧れていたりするのだろうか。

「認められたいから」

 当然のように、そんな返事がきた。どういうことかと思う俺に、続きが届けられる。

「人間生きてるだけで偉いのにさ。今日も生きてて偉いねなんて、誰も言ってくれないから。だから認めてもらうためには、なんかしないといけないでしょ。運動部は嫌だし、文化部で結果だすなら文芸部が一番早そうだった。実績あるし、小説もどきみたいなのは書いたことあったし」

 これもまた、意外な理由だった。認めてほしい、というのは誰からだろうか。特定の人物なのか、はたまた大衆意見的なものなのか。何にせよ久瀬は、なんとなく、ではなく自分の信念で動いていた。正直なところ、「死ぬのが面倒だから生きてる」とか、「文芸部は面倒だけど転部手続きはもっとだるい」とか、そういう無気力な答えが返ってくるのではないかと思っていたのだ。俺とは違った。明るいグループにいるだけで何もない俺より、いつも一人だろうが信念を持って進む久瀬のほうが、ずっとかっこいい。

「俺とは大違いだ。すごいね、久瀬は」

 尊敬と同時に、危機感を覚えた。同類だ、仲間だ、そう思っていた久瀬が、俺より高いところにいる。そんな焦りが、顔に出ていたのだろう。

「言ったじゃん。生きてるだけで偉いんだから、人と比べて落ち込む必要なんてないよ」

 珍しく、久瀬が俺を見ていた。真っ直ぐ目を見て、そう言った。

「天上天下唯我独尊って言葉、知ってる?」

 俺は頷く。

「自己中とかわがままみたいな意味で使われるけど、ほんとは違うんだ」

 体育館のざわめきが、切り離されていく。小さいはずの久瀬の声だけが聞こえた。

「ほんとの意味は、どんな人も尊い目的を果たすために人間に生まれてきたのだ、すべての人は平等である」

 心の中でその言葉を反芻すると、なんだかすとんと落ちた。

「俺も二宮も、なんか知らないけど尊い目的のために生まれたんだって。自分の尊い目的が何か気になるからがんばろうって、ちょっと思わない?」

 久瀬はその後、「なんでこんな喋ったんだ俺」と言ってまた黙ってしまう。俺の果たすべき尊い目的。生きてて良かったと思うたび、その目的は少しずつ果たされていくのだろうか。死ぬ間際、こんな人生で良かったと、そう思えたら、自分の尊い目的は果たされたことになる、そんな気がした。

久瀬といると、考えを見つめ直すような機会をもらえる。俺は、久瀬と話すことに、あの小説を読んだときと同じくらいの興奮を感じていた。逆はどうだろう。俺が一緒にいたいと思ったところで、向こうがそう思っていなかったらそれは友達とは呼べない。体育祭の競技決めが行われたのは、そんなことを考えだしたころだった。

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