邂逅・4 律
書いてもらった書類を見つめ、花崎律はため息をつきそうになった。
「えっと、白鷹木善治郎さん?」
「はい、そうです」
テーブルを挟んだ向かい側、そこに座る白髪交じりの中年が応えた。中年とも言えるし、老人とも言えるような容姿だった。
「浮気調査ってことですが、奥さんの年齢は四十七歳ですか。てことは善治郎さんとの年の差、結構ありますね」
調査対象は白鷹木由美。善治郎に手渡された写真を見た。四十七歳には見えず、見方によっては三十代にも見えなくはない。鼻が高いわけでも目が大きいわけでもない。ただ、全体的に丸く、それでいて肌ツヤがいいので幼く見えるのだ。
「ええ、十一歳差ですね。と言っても再婚なのですが」
「ああ、なるほど。それでいろいろと不審な点が多いから調査して欲しいと」
「あの歳ですから、あまり考えたくはないのですが、少しばかり不安になりまして。一日一万円で受けてくれると書いてありましたので」
善治郎が机の上にチラシを置いた。三ヶ月前に駅前で配ったチラシだった。
『最初の二週間だけ一日一万で引き受けます! 浮気調査、失せ物探し、水漏れ工事、クーラーの設置、なんでもやります! 花崎探偵事務所!』
探偵事務所がやるかどうか、という部分はこの際どうでもよかった。とにかく金がなければ明日も困る状況だった。期限も一年と長く設定してしまったが、それでも客足は増えなかった。
だが、チラシを配ってすぐに通り魔に刺されてしまったため、最近までは病院で過ごしていた。本来ならばもっと依頼があってもおかしくない。だが、長期間家主不在の探偵事務所に帰ってきた頃には依頼者はいなかった。
「もちろんその値段でやらせてもらいますよ。期限は半年くらいありますからね」
「結構曖昧なんですね」
「割りとテキトーなんですわ。で、ですね。一週間で七万円ってことになるんですが、浮気調査って基本的に一週間じゃ終わらないんですよ。最低でも二週間はかかるかと」
「そうですか」
そういって、善治郎はジャケットの内ポケットから茶封筒を取り出した。そこから数を数えながら、十四枚の万札を机の上に置いた。
「そ、即金ですか。太っ腹ですね」
一週間では終わらない、と嘘を吹聴したのがバレたらどうなるか少し怖かった。
「一応五十万用意して来たのですが、それがよかったみたいです」
律は「もう少しボレばよかったな」と呟いた。
「なにか言いましたか?」
「いや、なんでもありませんよ。それでは準備に取り掛からせてもらいます。これ契約書です」
「わかりました」と言って、善治郎が契約書にサインをした。
「ちゃんと読みました? これ、ちゃんと読んでなくて後からいろいろ言われても困るんですけど」
「大丈夫でしょう。あんなにチラシを渡していたんですし」
「まあ、あそこまで大々的にやればそうなりますよね。でも一応契約書のコピー渡しておきますね。あとで目、通しておいてください」
「ご親切にどうも」
思わず「いや、仕事なんだって」と小さく言った。
「なにか言いました?」
声量は先程と同じ大きさだったので、聞かれなかったことに胸を撫で下ろす。
「いやいや、なんでもありませんよ。それでは今日から早速調査を開始します」
「はい。よろしくお願いします。一応一週間ごとに進捗を訊きに伺っても?」
「大丈夫です。でも来る前に電話もらえるとありがたいですかね。調査に出てる可能性もあるので」
こうして契約を取り付けた。
こんな形でいいのかと思う部分はあるが、食べていくためには仕方がないと自分に言い聞かせた。
深々と頭を下げて事務所を出ていく善次郎を、両手を合わせて見送った。
「さて、どうすっかな……」
くしゃくしゃになったセブンスターの箱をポケットから出した。何度か上下に振り、タバコを一本だけ出した。それを咥えて火を付けた。
頭を掻きながらオフィスチェアに深々と腰掛け、デスクの上に書類を広げた。
「正直めんどくせーんだよな」
日当一万で引き受けるなんてチラシ、友人の提案であっても乗るんじゃなかった。そう思いながら額に手を当てた。
日当一万はいい。いや、よくなかった。ほぼ二十四時間体勢で日当一万は破格だ。それに休みがない。精神的にも肉体的にも消費する。それは誰の目にも明らかだった。ちゃんと依頼が来てさえいれば、きっと律はボロ雑巾のようになっていたに違いない。
「やるか、仕方ない」
灰皿にタバコを押し付け、膝に手をあてた。思い切りよく立ち上がり、事務所の中を行き来する。あれやこれやと革のバッグに詰め込み、灰色のコートを羽織った。そして真っ黒いサングラスをかけ、茶色いハットを被った。
バッグを肩にかけて事務所を出た。
事務所は三階にあるのだが、一階は駐車場になっている。廃ビルと言ってもおかしくないオフィスビルに入っている専用の駐車場。もちろん、律の車もそこにある。
階段を降りながら、コートの右ポケットからキーを取り出す。駐車場へと入り、車の横までやってきた。この車には遠隔操作用の装置は付いていない。キーレスエントリーも、エンジンスターターも、カーナビもない。三年前に五十万で買った真っ赤なプジョー207。それが愛車だった。
ドアを開けてバックを助手席に放り込んだ。運転席に乗り込み、鍵を回す。
「最低でもクラウンくらいは欲しいねえ。パワーが足りないんだよな。まあ、こういう足回りは好きだが」
そう言いながら、ゆっくりとアクセルを踏み込んでいった。パワーはないが、そこもまた愛らしかった。
向かうのは白鷹木由美の職場であった。
デパートに直結している立体駐車場へと入り、屋上の隅の方に車を止めた。助手席のバッグから資料を取り出す。近隣の市町村の中で一番大きなデパートの経理課長をしているらしい。
「課長様か、結構もらってるんだろうな」
優しそうな顔立ちをしているが、実際はかなりやり手なんだろうと想像に難しくない。
デスクワーク中心であるはずなので、直接店の中には入らない。資料にある通りの車を探すことにした。型落ちの黒いカムリ。
「カムリたあいいセンスしてるじゃねーか」
持ってきたバックの中から発振器、盗聴器、タイラップを出した。発振器も盗聴器も手のひらに乗るサイズなので、ポケットに入れてあっても他人には気づかれない。
車の特徴と車のナンバーを頭の中に叩き込んでから車のドアを開けた。
北風が吹き、思わずコートのポケットに手を突っ込んでしまう。吐く息は白く、季節の変わり目を感じさせた。
一度深く息を吐いてから歩き始めた。
こういう場所では従業員と顧客の駐車場が共通であることが多い。しかし、従業員は入り口から離れたところに車を止めるのが基本となる。従業員用と駐車場を別にするところもあるが、まずは客人用の駐車場を見回ってからなのはいつものことだった。
屋上の外周から、右に左にと視線を移動させながら黒いカムリを探した。同時に監視カメラがないかどうかも見ていく。
「ま、あって当然だが……」
数十メートルごと等間隔に設置されている監視カメラ。だが、これは駐車場の空きがあるかどうかを見るものであり、防犯の意味合いは薄い。カメラの大きさや首振りの速度からもそれがわかった。
黒いカムリが見つからなかったので四階へと下りる。それから五分ほど見て回り、エレベーターの横のクラウンに目がいった。
バンパーの右側に擦り傷有り。グレードは一番下でメッキガーニッシュなどはなし。助手席のドリンクホルダーにぬいぐるみ。ナンバーも一致している。
周囲を見渡し、人がいないことを確認した。
それから速くも遅くもない速度で近づいた。これが自分の車であるというふうを装うためだった。
トランクの後ろに回り込み、車体の下に手を入れた。そこには発振器を取り付けた。
壁と車の間、助手席側に回り込み、同じように下に手をいれて盗聴器を仕掛けた。
立ち上がった時、女性と目があった。運転席に乗り込もうとしてその女性は、紛うこと無く今回のターゲット、白鷹木由美だった。
「あなた……」
「ははっ、申し訳ない。これが車の下に落ちてしまいましてね」
急いでポケットの中からボールペンを取り出した。五年前に別れた女性からの誕生日プレゼントだった。ブランド物であり、一本数万だと言われた。
「そうだったのですか。見つかってよかったですね。大事なものなんでしょう? 踏んで壊さなくて本当によかった」
「すごいですね。これが大事なものだってよくわかりましたね」
「それ、デュポンのリベルテですよね。実は私も、昔夫から貰って大事に使ってるんです。ボールペンですか? それともローラーボール?」
「ローラーボールです。書き味がいいですよね、これ」
「私もなんです。確かに高いんですけど、やっぱ高いだけはあると思いますし」
そう言ったあとで由美が腕時計を見た。
「お急ぎみたいですね。それでは、ボクはこの辺で」
「はい。リベルテ、大事になさってくださいね」
「ええ、ありがとうございます」
軽く会釈してその場を離れた。
足早に屋上へと戻り、車に乗り込んだ。
「くそっ、寿命が縮まった……」
ボールペンがなければどう言い訳したらよかったのか。考えても考えつかない。なにかが下に転がったというのはいい。問題は、ボールペン以外にポケットにはなにも入っていなかったことだ。
「また救われちまったな、アイツに」
両手で顔を覆って頬をもみほぐした。
バッグから受信機を取り出して機動させる。低めの排気音が聞こえてきた。
盗聴機用の受信機を助手席に放り投げ、今度は発信機用の受信機を取り出す。本来ナビがあるであろう位置に無理矢理はめ込んだ。
「まだ昼過ぎなのに退社か? いや、仕事で出かけるのかもしれん。とりあえず追うか」
キーを捻ってエンジンをかけた。
立体駐車場を出て左折。緩い勾配のカーブを下り信号を右折して十八号線に出た。十八号線を十分程度走り、左側にあるファミレスに入った。
その間、盗聴器はエンジン音と排気音しか拾っていない。この盗聴器は助手席に誰かが乗ったときのことを想定してあるので今はこれでいい。
入り口近くに止めてある黒いカムリを横目に、駐車場の奥の方に車を止めた。
車から降り、中が見える窓の横に隠れた。そこから少しずつ顔を出して店内を覗く。由美は奥の方に座っている。向かい側には男性が座っているが、黒黒とした頭しか見えなかった。
ここで入るべきか入らないべきか。
一度車に戻ると、灰色のコートから赤いコートに着替えた。茶色いハットとサングラスを身に着けたあと、薄い革手袋をはめた。
ハットで顔を覆うようにしながら店内へ。案内されたのは由美と遠く離れた席だったが、メニューで顔を隠しながら様子を伺った。
コーヒーを一杯だけ頼み、小型カメラで二人の様子を撮影。シャッターを一回、二回、三回。
サングラスを下げて見てみるが、どうやら浮気や不倫とはあまり関係がなさそうにも見える。男性はバッグから資料のようなものを取り出し、身振り手振りを交えながら由美になにかを説明しているようだった。保険屋か取引相手というのが妥当なところだろう。
コーヒーが到着し、砂糖とミルクを入れた。この歳になってもブラックコーヒーは苦手だった。
「そもそもあの女が浮気するようには見えないんだがな」
カップに口をつけて一口飲んだ。
「やっぱコーヒーはダメだな。カフェオレじゃないと」
苦い顔をしながら、子供のようなワガママをつぶやいた。
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