月の鱗粉

加藤

月の鱗粉

月が夜空に浮かんでいる。

「そっと、息を吸うのよ」

夜の海をたゆたう魚が言った。

魚は美少女の細く柔らかな金髪で作り上げたヒレを静かに揺らしながら夜空を悠然と泳いだ。ヒレがないだその先には、星屑が連なり、そしてほどける。僕はその星達を優しく撫でながら、魚に問いかけた。

「月の光は繊細なのかい」

魚はその場でゆったりと回転した。

「ええ、そうよ」

絹のような手触りのヒレが僕の頰を撫でた。僕はうっとりと目を閉じて、魚の声に耳を傾ける。

「乱暴にしたら、すぐに光を失ってしまうから」

僕は胸に手を当てて、そっと、静かに息を吸う。舌にほのかな甘みが広がった。それが僕の心臓に届くと、幸福感が血管を通って全身に運ばれる。呼吸をするたび、心臓が鼓動するたび、暖かさが僕を包んだ。

「ああ、幸せだ」

魚は微笑えんで、僕の頰にささやかなキスをした。僕は二本の長い耳で、魚を優しくつついた。

「そして、君がいる。それはなんて素敵なんだろう」

僕はクスクス、と子供のように笑ってしまう。けれど、魚は悲しそうに目を伏せた。

「そうね…でも、もうすぐお別れよ」

魚は僕の額に身を寄せた。魚の冷たさが心地いい。僕は目を閉じて呟くように言った。

「わかってるよ。君とはずっと一緒にいられない」

魚の目から金色の雫が落ちた。地面に落ちると、水滴が星になり、空へ舞っていった。

「ごめんなさい…それでも、私は月と結ばれなければならないから」

魚はヒレで顔を覆った。美しいヒレに雫が落ちる。雫はヒレを濡らす事なく星になる。

月はこの魚に恋をした。月は魚の善良な心を利用して脅したのだ。『お前が私のものにならないのなら、世界から夜の光を奪ってやろう』そう言って。

魚は星の雫を惜しげもなくハラハラと流した。

「あなたもさっき、あの幸せを感じたでしょう?私は、それを世界から奪えない」

僕の鼻先に月の雫が落ちた。僕に触れたそれは、空に舞うことはなく光を失った。僕の目から、ごく普通の涙が溢れる。それは、ひどく汚ならしいもののように思えた。月が僕に与えた幸福が急速に失われていく。

「君が消えてしまうなら、月なんかいらない」

僕がそう言うと、魚はどこまでも悲しく大人びた笑みを浮かべた。

「駄目よ。月はあなただけのものじゃないのだから」

魚は僕の唇に、小鳥がついばむようなキスをして、月の方へ向いた。

「さようなら。世界一素敵な、世界一愛おしい、私の兎さん」

涙で視界がぼやけて、魚の姿は一つの輝く塊に見えた。それは月が霞んでしまうほど美しかった。

「僕は月を永遠に恨んでやる。そして、君のこと永遠に愛するよ」

そう叫ぶと、月に向かって泳いでいく魚は、一粒の星を落とした。


魚の姿がすっかり見えなくなると、兎は激しく泣き出した。赤い目を真紅にして、その白い毛をぐっしょりと濡らした。ひとしきり泣いてしまうと、月を鬼のような形相で睨みつけた。

「いつか必ず、魚を取り返してやる」

兎は崖に向かって猛然と走り出し、そのまま落ちていき、絶命した。



都会。そこに空の光は届かなかった。人工的な光の海が、星と月の光を霞ませる。

私は窓辺に座り、雑然と並ぶビル群をぼんやりと眺めていた。

「兄さん、星の光ってこんなに弱かったかしらね」

そう問いかけると、七つ離れた兄は読んでいた本から顔を上げて笑った。

「厭世的な詩人だね。人工的な光は嫌いかい」

兄の顔は読書灯でぼんやりと明るくなっている。

「月の光は変わらないんじゃないか。変わっているとすれば、それは地上に住む僕らさ」

私は窓を開けて、空に浮かぶ白い塊を一瞥した。

「なんだか私、月の事をどうにも好きになれないの」

月は、ここではただの白い塊だった。なんだかそれは、自らの残虐さを悟られまいと人工的な光の中に身を隠す狡猾さのように思えた。

「でもね、星の光はとても愛おしく思うの」

兄は本を閉じて読書灯を消すと、窓に近づいてきて、月を見た。

「そうか。でも、月の光が見えないところで星の光はもっと見えないだろう。月が美しいのなら、星も輝くさ」

私は兄の方を向いて小さく頷いた。

「光のない更地で空を見上げたら、きっと星が洪水のように輝くのよね。そして、その中に月が偉そうに踏ん反り返っている」

兄は小さく吹き出した。

「本当に月が嫌いなんだな」

私は首を振った。

「嫌いと言うより、憎らしいのかしら。見るととても悲しくなるから」

兄は笑いながら私の頭を撫でた。

「なら、今度そんな更地に行こう。月が強く輝いているのを見れば、ここから見る月の光なんてどうって事なくなるさ」

私はそうね、と返事をしながら窓を閉じた。



私の誕生日。私は兄と列車に乗って向かい合って座っていた。

「お前は欲しがると言う事をしないから、ちょうどよかったよ」

兄は穏やかな笑みを私に向けた。

約束の通り、兄は私を更地に連れていってくれることになった。月の光を見るために。

私たち以外ほとんど誰も乗っていない列車の中には、車輪の立てる重々しい音が響いていた。

「ありがとう…月が憎らしくなくなるといいわ」

そう言いながら、私は窓のブラインドを下ろした。

「着いてからのお楽しみってわけだね」

兄は目尻に皺を寄せて悪戯っぽく笑うと、鞄の中から文庫本を取り出して読み始めた。

私は到着するまで眠っていようと目を閉じる。けれど、列車のゴトンゴトン、と言う音がいやに大きく感じられて寝付けなかった。目を開けるのもなんだか億劫でそのまま音を聞き続けていると、不意に甘やかな声が私の耳に届いた。

「私の、兎さん」

ハッとして目を開けると、さっきと変わらない様子で兄が本を読んでいるだけだった。

「兄さん?」

明らかに兄さんの声では無かったけれど、私たちの席の周りに人はいなかった。

「どうした?」

不思議そうに首をかしげる兄に、私は問いかけた。

「今、何か言わなかった?兎がどうのって…」

兄は二、三度瞬きをすると可笑しそうに笑った。

「言わないよ。兎なんてどこにもいないもの。この本にだって、出てくるのは巨大な虫と人だけだ」

私は少し辺りを見回して、自分を納得させるように呟いた。

「そうね、そうよね…」

兄はその顔から笑みを取り去って、心配そうに私の顔を覗き込んだ。

「気分が悪い?引き返すかい?」

私は首を振った。

「大丈夫よ」

しばらく兄は私を心配していたけれど、そのうちまた本を読み始めた。

あの声を聞いたとき、私の心はざわついた。懐かしくて、悲しくて、何も気にせずに大きな声で泣きたくなってしまった。

この先に行ったら何かわかるのだろうか。この声の愛しさと、月の憎らしさについて。

私は少し湿った瞼を固く閉じた。


「次は 更地。更地 に止まります」

目を覚ますと、もう少しで到着するところだった。

「おはよう」

兄が鞄の中に文庫本をしまいながら、私に言った。

「おはよう」

電車が徐々に速度を落とす。

「着いたみたいだね」

電車がすっかり停止してしまうと、私達は立ち上がった。終点で降りたのは私達だけだった。

「やあ、本当に更地だね」

民家一つなかった。広大な土地にまばらに草が生えていて、それがずっと向こうまで続いているだけだった。街灯すらない。けれど、そこは都会よりも遥かに明るかった。

空に広がる、見渡す限りの光の洪水。

無数の星が世界を照らしていた。

「兄さん、星が」

兄は私の顔を見て、訝しげな顔をした。

「…泣いているのかい?」

私の目から、滝のように涙が溢れた。星の海で溺れてしまいそうに苦しかった。そんな私を冷徹に見下すのは月だった。本来の力を見せつけて、私を服従させるかのように、金色の光の粉を纏って世界を見下ろしている。

私は月の元へ駆け出した。

「どこに行くんだ」

兄が慌てて私を追いかける。

いくら走っても月には追いつけない。なぜ走るのか、なぜ月がこんなにも憎いのか、それがわからないことが、私をより苦しめる。

やがて走れなくなると、私は更地の中心に倒れ伏した。涙がまだ、溢れて止まない。

その時、またあの声が聞こえた。

「世界一素敵な、世界一愛おしい、私の…」

辺りを見回しても誰もいない。

「誰、誰なの?」

私の脳裏に絹のような美しい何かが浮かんできた。

「教えて、思い出せない」

何かが胸につかえて、吐き出したくてたまらない。何かを言わなければと言う焦燥感が襲いかかる。

何か、何か…

「私は」

私の記憶の水槽の中で、何かが優雅にたゆたっている。

「月が、憎い…?」

違う。本当に言いたいのはこれじゃない。もっと強い感情が、私の胸の奥にたゆたっている。

「私は、私は…」

その時、水槽の中にその姿がはっきりと見えた。それと同時に全てを思い出した。

「私は、魚が愛おしい!」

私は空に浮かぶ月を睨みつけた。

「魚を、迎えに行かなきゃ」


1人の少女が猛然と駆け出すと、その兄は戸惑いながらも彼女を追いかけた。

遠ざかっていくその姿を決して見失うまいと、兄は必死に食らいつく。

目線の先で米粒ほどの小ささになった少女は更地の中心で倒れ伏し、天に向かって何かを叫んだ。兄にそれは聞こえなかったが、妹の胸中は大嵐なのだろうとひとり納得し、わずかの時間1人にしてやろうとゆっくりと歩き始めた。しかし、再び駆け出したのは、少女の体がみるみるうちに小さくなっていったからに他ならない。何が起きたのか。

妹の元に全速力で駆け寄ると、そこには妹の着ていた服が落ちていた。拾い上げると、その下には高所から落ちたように潰れた兎の遺骸が転がっていた。驚いて尻餅をつくと、兎の遺骸から、何かとてつもなく美しいものが飛び出した。よく見ると、それは蝶であった。

月の光を粉にして、鱗粉として纏わせたら、こんなに美しい蝶になるだろうか。

読書家の兄はぼんやりとそんなことを考えた。

蝶は美しい羽を果敢に広げ、月の方へ飛翔していった。

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月の鱗粉 加藤 @katou1024

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