名前の無い本

本棚に一冊の本がある。

それは、この家を借りたときからそこに仕舞われていた。

いつかこの家を出る時には置いていくことになるだろう、誰のものでもない本だ。

長い年月を経て飴色に変わった革の装丁に指を走らせると、型押しされた草花のパターンが指先に凹凸を伝えた。


ずっと空白だった頁に、ある日、凝った装飾の施された飾り文字が現れた。

それから本を開くたび、冒険譚が、恋物語が、精緻な挿絵が、少しずつ増えていった。


それぞれ見覚えのあるような絵と文章の書き手を確かめてみたい気はしたが、そのたびに、名前を言い当てられて姿を消した妖精の話が頭に浮かんだ。


本は今も書き続けられている。

そして私は対価として、沈黙を支払い続ける。

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