3-46 残響の子


「ハアッ……はぁッ……全く、嫌になるね……」


 荒い息を吐きながらそんな言葉を漏らしたのは、桃色の髪を乱す女性。地面に手を付いて自分の身体を支えるている彼女はイクス王国の女王であるイオナだ。


「それはこちらの台詞と言っておこう、イオナ。何度でも立つその強さ、十将としてよりもお主を個人として、尊敬する」


 魔王の右腕として君臨する老騎士は、目の前で立ち上がるイオナの姿を見て本当に感心していた。


 彼女が踏みしめる床に広がるのは、この部屋の暗さによって黒く見える液体。それはイオナ自身の赤い血だった。


 しかし血で染まった服を着た彼女の身体を見れば、傷は見当たらない。というよりは、あった筈の傷が無くなっていると言うべきか。


「魔力を用いた身体能力の向上……それを応用した高すぎる回復能力、か。それほどの技術を得るのに一体どれだけの時間を費やしたのだ?」


 もう何時間も続く戦いに小休止を置く様にそう問いかけるのはジークである。彼にとっては単純な興味による質問だったのだが、余裕を見せるその様子にイオナは少しだけ顔をしかめた。


「うるさいね……アタシがその自慢の鎧にかすり傷しか付けられてないからって、随分と余裕そうじゃないか」


 敵意をむき出しにしてそう口にする彼女だったが、立っているだけでも身体が小刻みに震えているのがわかる。


 それを四天魔の長ともあろう者が見逃すはずもなく、ジークは自らの勝利を確信していた。


「老兵の会話くらい付き合ってくれても良いだろうに……しかしその出血量、そろそろ決着も近いかな……?」


「まだまだ、もうしばらくは付き合ってもらうよ……!」


 対するイオナも、目の前の老兵に勝てないことは既に察しが付いている。しかしここで倒れたら次は彼女の愛する夫や娘にも魔王の手が及ぶことになるのだ。


 ここで彼女がどれだけ粘り強く戦ったところで、その結末は変えられないのかもしれない。だがそれでも、少しで良いから家族に長生きして欲しいと願うのが当然というものだろう。


 しかしそんな内心を見透かした様な低く重いジークの声が、空間に反響する。


「たった数時間、お主が時間を稼いだところで何も変わるまい。結果として我は魔王様の元へと帰り、近い内に人類は滅びる」


 その老騎士の言葉に、イオナは気持ちだけで抗った。


「さァ、どうなることかね……人生ってのは何が起こるかわかったもんじゃないよ」


「……まるで我ら魔人よりも長く生きている者の言葉の様だが、尊敬する者の言葉ならば覚えておこう」


 そんな言葉を残すと同時に、後ろに伸びた白髪とは対照的な漆黒の鎧を動かしてジークは長剣を構える。向かい合ったイオナも、固まった血で染まった服から短剣を取り出した。


 互いに睨みあい、もう戦いが始まって何度目かもわからない剣戟を繰り返そうとする。


 張り詰めた緊張の視線がぶつかり、相手の動きを警戒しながらも目線だけで牽制けんせいした。


 だがその先の数十秒、ただ静かに時間だけが過ぎていく。


 この広さと何も無さだけが取り柄の様な空間に二つしかない人影は、一向に動くことはなかった。


 眉一つ動かさず、同じ姿勢のまま対峙する両者。そしてしばらく続いたその均衡を破ったのは老騎士の言葉だった。


「……確かに、何が起こるかはわからないものだな」


 突然ジークから発せられたのはそんな呟きだったが、血が付着して少し固まった桃色の髪を揺らしてイオナも同意する。


「ああ、そうみたいだね。この巨大な魔力の感覚……それも一人じゃない」


 強者たる二人は、ほぼ同時に自分達とは別の存在が接近していることに気付いた様だ。


 この場所に近付いてくる気配を確かに感じながら、ジークは言葉を続ける。


「闇の魔力の気配ではない……ということは、貴公の仲間らしいな。だがこの魔力、どこかで……」


 何かを思い出す様な老騎士の声を聞いて、イオナの口元が少しだけ勝気に吊り上がった。


「奇遇だね、アタシも……懐かしい感覚が」


 彼女がそう言ったのとほぼ同時、両者の視界は一変する。


 二人の間を瞬時に切り裂いて現れたのは空色の閃光を放つ魔力の塊。その濃度に思わず目を瞑った彼らが後に見た光景は信じがたいものだった。


「これはっ……クリスタルか!?」


 先程から落ち着いた様子を見せていた四天魔の長であるジークは、目前に現れて視界を埋め尽くした巨大な魔結晶の塊に声を荒げる。


 まるで花が開く様に広がり続けるクリスタルに距離を取って構えるジークだったが、イオナは動こうとはしなかった。


 彼女も驚きはしているが、不思議と警戒の念を抱くことはない。そしてその理由は単純なもので、今までに一度もイオナがに恐怖に感じたことがないからだ。

 

「まさかアトラ様……? でも何故ここに……」


 目の前で増殖を続ける魔結晶の華は、円形に広がるこの部屋のちょうど中心を占拠する。そして上にも拡大を続け、やがて天井にぶつかってその増殖は止まった。


 だがイオナ自身もこの状況を理解できずに立ち尽くすしかない。そんな彼女の元へ音を立てずにゆっくりと近付く人影があった。


「……イオナ、ねぇイオナ!」


 呆然と立ち尽くしていたイオナの少し低い位置から突然聞こえた声に、彼女は驚きながらも直ぐに視線を向ける。


 するとそこに居たのは彼女も良く知る人物、淡い栗色の髪から覗くエメラルドの瞳が特徴的な少年だった。


「カケロスじゃ……っ!」


 思わぬ人物の登場に大声を上げそうになったイオナだったが、その口を慌ててカケロスが塞ぐ。


「しっー! 静かに。……酷い出血だけど、動けない程じゃないね。直ぐにここから逃げるよ」


 もうすぐ青年という年齢に差し掛かる彼は、とても幼く感じさせる顔に真剣な表情を浮かべてそんな言葉を口にした。


 イオナにとっては旧知の仲間の孫であるカケロスとの再会は喜ばしいものだが、何故こんな危険な場所にいるのかを理解できない。


 もしかしたら自分を助けに来たのだろうかとも考えるが、そうなれば彼の祖父であるイゴスに申し訳が立たないのだ。


「……どうしてこんな場所に来たんだい。今のアタシじゃジーク相手に、坊やを逃がせるかどうかも……」


 突然発生した謎のクリスタルについても聞きたかったイオナだが、今はそれどころではない。いつジークが回り込んでこちらを襲ってくるかもわからないのだ。


 魔結晶が障害となって姿は見えないが、その向こう側には確実に老騎士の存在が感じ取れる。


 しかし次の瞬間、二度目の衝撃がイオナを襲った。


 クリスタルの向こう側には圧倒的な存在感を持つ四天魔の長、ジークがまるで威嚇する様に魔力を放つ。だがそれに負けず劣らずの格を持った反応が『二つ』現れた。


「なにっ、が……?」


 四天魔と並ぶ魔力を持つ者などこの世にそう多くは存在しない。かつて肩を並べて戦ったエルピネというエルフですらもここまでの力はなかった筈だ。


 そしてそのうちの一つは彼女にとっては懐かしすぎるもの、かつて仕えた主の魔力と同じかと錯覚してしまう程に似ているもの。


 あまりにも突然すぎる状況変化の連続にそろそろイオナの頭が回らなくなってきた頃、彼女とカケロスの元にもう一つの人影が近づいてくるのに気付いた。


「ようっ、あんたがイオナだな? はやくここから逃げてくれ。上で寝てる兵士も引き連れてな」


 少しだけ乱雑に伸ばされた灰色の髪と健康的な褐色の肌、背負った大きな銀の弓が特徴的な青年サジルは、イオナに力強い笑みを向けて言う。


「なっ……貴方は一体誰だい? それに逃げるって言っても……」


 初めて会う青年に質問を投げかけようとした彼女だったが、それをサジルは遮った。


「事情は道中にカケロスから聞いてくれ。アレの相手は……が引き受けるからよ!」


 そんな言葉を発すると共に弓を構えたサジルが魔石の首輪を取り外すと、遠くに感じる三人のもの程ではないが強い魔力を発した。


「じゃあカケロスよう、後は頼むぜっ!」


 短い言葉をカケロスに言い残した青年は、そのままクリスタルの障害物の向こう側へと走り出す。


「待ちなさいっ、無茶なことは……」

「さぁ、今のうちに僕らはこっちに!」


 サジルを制止しようとしたイオナだったが、カケロスが小柄な身体に見合わず強い力で彼女の手を取って止める。


 そして半ば無理矢理に上の階層へと繋がる階段の方まで走り始めた。


「ちょっと待ちなさっ……!」


 イオナは昔からの知り合いであり親戚の様に思ってきたカケロスに対してあまり強く抵抗することも出来ず、そのまま部屋に一つしかない上への階段へと向かった。


 だがイオナは階段の場所に差し掛かる寸前に顔だけ振り返って視線を部屋に移す。


 すると一瞬だけクリスタルの隙間から向こう側が見えた。


 一番奥に見えるのは正面を向いて剣を前へと構える老騎士ジークと、その彼に対峙する様に背中を向ける影が二つ。


 何体もの巨大な龍が動く様に、大量の水を意のままに空中で操る魔導士らしき者。背中のシルエットからは女性に思える。


 そんな彼女の横に並び立つのは、肩に小さな動物をのせた全身鎧の青い騎士。


 まるでクリスタルを身体中にまとってジークへと挑む、青空色の騎士の姿だった。

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