3-40 動乱の前兆


 コン、コンコンッ。


 乾いた音が扉から聞こえた。その特徴の無い様にも思える三度の音に、部屋の主は訪問者が誰なのかを察する。


「ロゼリアね、入って」


 高く滑らかなその声は聴く者の心を揺るがす程に美しいものだった。扉の外で聴いた女騎士も、自らの主人の声音に魅了される。


 しかし長年仕えていた経験からも直ぐに返事をしたロゼリアは、重厚な木造の扉を音も鳴らさずに開けた。


「失礼します、アイリス様。そろそろ会談の時間です」


 先ず伝えるべき用件を簡潔に話した彼女の言葉に、アイリスは静かに頷く。黄金の瞳に見つめられて無意識にロゼリアは一瞬動きを止める。


 最近はロゼリアの目から見て、アイリスは急激に大人びた様にも感じていた。


 以前の家と血に過剰なまでに向き合っていた彼女ともどこか違う。その頃にあった焦りや暗さは今のアイリスからは認められない。


 アイリスはゆっくりと腰掛けていた椅子から立ち上がり、移動を始めようとする。


 しかしその動きを、ロゼリアは言葉で止めた。


「お待ちください。まだ事前にお伝えしておかなければならないことが三つあります」


「三つ?」


 思いのほか多いことに驚いたのか、アイリスは反射的に聞き返す。それを受けてロゼリアは頷きながら続けた。


「初めに……大陸の東側諸国が全て滅亡、または魔王の元に属国となりました。それを単独で行ったのが……とのことです」


「そう、アトラさんが……」


 以前対峙し、その強さを目の当たりにしたためか彼女に驚きはなかった。


 しかし私達を見逃したことでもしかしたら彼が人類の味方なのではという希望を抱いていたのだが、どうやらそれは希望のままついえたらしい。


 東側諸国を助けられなかったこととアトラのことでアイリスが二重にショックを受けていたが、ロゼリアが続けた言葉で更に追い打ちが掛かる。


「そして、ダイドルン帝国にいる協力者からの情報ですが……魔王軍による進攻が確認されたそうです」


「なっ……そんな事って……。今まで報告されていた様な軽いものではないのよね?」


「はい、残念ながら……」


 俯くロゼリアの厳しい表情やその紫の瞳が映す光からも、アイリスは本当であることを理解した。


「数日の内に元レーヴェ王国の首都へと到達する勢いだそうです。複数の種族の魔物で構成された部隊を率いるのは数人の魔人と、四天魔ヴェンダーとのことです」


 ロゼリアの報告に、アイリスは思わず天井を見上げてため息を零す。


「そう……東側の壊滅に、西のダイドルンへの本格的な侵攻……始まるのかしらね、戦争」


 状況を考えればもう決まっていると言っても過言ではないだろうが、直ぐに受け入れることが出来る事態でもない。


 ダイドルン帝国に侵攻しているのは全軍ではないだろうが、それも時間の問題だろうか。


 きっと戦争が始まってしまえば、直ぐに戦火は広がる。


 その先に待ち受けるのはどちらかが全てを滅ぼすまで続く全面戦争。そして永劫に人と魔物の戦いは終わりを迎える。


「でもダイドルンの皇帝は、援軍を送ったとしてもきっと共闘を受け入れないでしょうね……」


 きっと皇帝は人類で共闘することを受け入れずに、自らの国だけで戦うと言うだろう。


 確かに帝国の力は強大だが、相手はクリスミナ王国を滅ぼした人類の敵そのものである。


 それに加えて短期間で一斉に多方面侵攻をしていることからも、クリスミナの戦争で負った被害は回復したと考えるのが妥当だろう。


 もしくは回復の必要など無い、ということか。


 これから南側諸国のトップが集まる同盟の会談だというのに、始まる前からアイリスは頭痛が止まらなかった。


 だが彼女はまだロゼリアから伝えられた内容がまだ二つであることを思い出す。


 アイリスはこれ以上聞きたくない気持ちもあるが、前の二つが重要な話だったことを考えると聞かない訳にはいかなかった。


「それで、もう一つは……?」


 覚悟を決めて放ったアイリスの言葉に、何故か歯切れの悪い口調でロゼリアは返し始める。


「えっと、これも同じ協力者からの情報なのですが……実は帝国で普及している傭兵ギルドというものについての話で……」


「傭兵ギルドって確か……軍ではなく民の中でも腕のある方々が依頼を受ける形で魔物を倒すっていう仕組みのことだったよね? それがどうかしたの?」


 突然出てきた傭兵ギルドの話に未だ要領を掴めないでいたアイリスがそう聞くと、ロゼリアが念を押した。


「これはあくまでも可能性の話なのですが……その傭兵ギルドに先日登録した者の中に、気になる者の名前がありまして」


「名前……?」


 首を傾げる王女に、ロゼリアは躊躇いながらもゆっくりと口を開いた。


「同姓同名の可能性もあるのですが……イル・レーヴェ支部に、『ハルカ』と」





――――――――――――





 円卓が中央に備えられた大きな部屋で、人々の話す声が様々な場所から聞こえてくる。


 彼らは全員が庶民が一度として着ることのないような高価な服に身を包んだ国の代表だ。


「……聞きましたか? 東側が遂に落ちたと……」

「帝国の方にも魔王軍の影があるとか……」


 この場にいる南側諸国の代表たち間では二つの話題で持ち切りだった。


 一つは不安定な情勢のまま放置されていた大陸東側の小国家群が、侵攻した黒魔騎士の手によって完全に制圧されたということ。


 そしてもう一つは、ダイドルン帝国に魔王軍が侵攻しているという噂だ。


 東側へは大山脈に阻まれていることからも直接の心配をしていなかった者もいるかもしれないが、ダイドルン帝国については他人事では済ませられない。


 いくら南側諸国で同盟に加わったとはいえ、不安からくる憶測は留まることを知らなかった。


「これは……良くない状況かもな」


 小さな呟きを漏らしたのは、この会議の開催国であるマグダートの国王補佐であるネロだ。


 兄であるレフコが臨時の国王だが、病弱の彼に変わって会議などにはネロが参加している。


 すると隣に座っていた若干髪の毛が後退している男性が、ネロへと話しかけた。


「不安は新たな不安を呼び、加速させる……しかし本格的に魔王軍が動き出したのだとすれば、私達も動かなければなりますまい」


 声の主はインダート共和国の大統領であるシグルだ。以前の三国連合で起こった事件がきっかけで話す機会の増えた彼の言葉にネロも肯定する。


「……そうですね。俺達も守りを固めるだけじゃ、どうにもならない。とは言っても何をするか……」


「それを決めるのは、きっと彼女なのでしょう?」


 するとシグルとは逆側の隣に座っていた赤髪の女性が、ネロの言葉を遮った。


 彼女は三国連合を構成するウォルダートの王女であるクーナだ。本来は国王であり父でもあるが出てくるべき所なのだが、国王は自分の娘を送り出した方が良いと判断した。


 それはこの同盟の盟主とも呼べるに合わせてのことだったが、三国連合での事件をきっかけに誕生した英雄に呼応して様々な場所で世代交代が進んでいるのは間違いない。


「まぁ、クーナ殿下の言う通りではあるな……」


 ネロはクーナの言葉に静かに同意すると、この場の全員と同じ様に一人の人物を待ち続けた。


 丁度その時、この部屋の唯一の出入り口が開かれる。


 扉の向こう側から彼女の姿が見えた時、自然と部屋は静まり返った。空気を読んだという意味もあるが、半数程は単純に彼女の姿に見惚れていたことだろう。


 美しく細かい栗色の糸が集まった様な髪が肩まで流れている。前髪から覗く黄金の瞳は、この世に彼女以外には存在しないだろうという色にさえ思わせるものだ。


 その身に纏う衣装は彼女の背負うイヴォーク王国を象徴し、所々に刻まれた竜の意匠が彼女が何者であるかを物語っている。


 二度その力で魔人を退け、三国連合における事件でその存在が全ての人々の認識へと広がったとされる。


 銀竜の守護者、救国の英雄、その呼び方は今や数えきれない程だろう。


 イヴォーク・ミア・アイリス。彼女はゆっくりと足を進め、自らに与えられた席へと向かう。


 だがアイリスは椅子に座る事なく、部屋中に響く大きな声で発した。


「既に知っている方々もおられるとは思いますが……大陸の東側諸国が滅亡しました。そしてダイドルン帝国にも、その危機が迫っています」


 彼女の口から発せられる言葉の重さに、誰かが息を飲む音が聞こえる。場の全てが緊張感に包まれる中で、ただ一人だけ違う事を考えている者がいた。


「なにがあった……?」


 誰にも聞こえない程の音量で呟くその声の主は、ネロだ。彼はただ一人、アイリスの様子に首を傾げていた。


 最近のアイリスはとても大人びていた。世間から求められる理想像そのままに、凛々しい表情を崩さず同盟をまとめる絵に描いた様な英雄を体現している。


 そんな彼女の様子に心配していたネロだったが、何もすることが出来ずに歯がゆくも思っていた。


 だが彼の瞳には、今のアイリスは全くの別人に映っている。


 張り詰めていない自然な彼女の表情は、まるで出会った頃のハルカと話している時の様な――。


「だから私は、帝国に援軍を送りたいと思っています」


 その一言で、会場は騒めきに包まれた。


「いくらなんでも、それは……」

「帝国が協力などするはずが……それよりも守りを固めた方が」


 彼らの反応は想定内のものだっただろう。ダイドルン帝国は魔王軍との戦争に関係なく侵略を繰り返していた国だ。


 魔王がいなければ人類共通の敵はダイドルンだったと言われる程の国と共に戦うのは危険だと考えるのも不思議ではない。


 だがアイリスは彼らの騒めきを切り裂く声を発した。


「帝国が滅びれば、もう私達しか残りません。そして人類には敗北の道しかないでしょう」


 英雄が明確に発した『敗北』という言葉に、代表たちは口を閉じる。そんな中で一呼吸置いたアイリスは、自らの意思を宿した声を放った。


「出来るだけ交渉はするつもりですが、状況によっては……強行してでも軍を送ります。それがたとえ人同士の争いを生む結果となっても、魔王軍を退けることの方が重要であると考えます。そして……」


 数秒の間だけ俯いたアイリスは、直ぐに顔を上げて続ける。その黄金の瞳には、微かに涙が含まれている様に見えた者もいた。


「私も、その軍に参加します」

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