第8話

 宝福寺は四季折々に美しい風景を見せてくれるが、私はやはり乳白色の曇り空の下、透明感のある遠景の山並を背にした、安寧を感じさせる深い緑の葉が繁った近景の樹木や、慎ましやかな草花の息吹に魅かれる。

 私が禅僧になってから日常において有難く感じるのは、もう動物の肉を食す必要がなくなったということだ。私はこの習慣を全うすることで、幼い頃に共に過ごしたあの愛らしい子羊への供養を果たせるはずである。人は痛みを感じる命を殺めなくとも生きていけるのだから。


 時折、老年となった私の脳裏に師が手の平ほどの大きさの石をじっと見つめていたあの姿が浮かぶ。あれはきっと亡くなる前に私へ訴えた、汝、殺すなかれ、という言葉を預言者が石板に刻んだ文字を読むように、無言のまま心の内の鐘を鳴らしながら復誦していたのだ。この世から戦争が無くなる日が来ることを希求し絨毯を制作することで、家族を含めた戦没者全てを弔っていたように思う。人は自分の足元を見つめる時は内省的かつ謙虚になれる。それは宮殿に敷かれた絨毯を踏み締めて歩く王家や貴族の人々も同様ではないだろうか。歌う鳥、踊るような曲線の植物、太陽と月、絨毯に描かれている世界は平和そのものである。もしかするとそれは奴隷だった私には想像もつかない贅沢を享受する支配者たちに、微力ながらも自制を促す一助になっていたのかもしれない。


 古代より日本は大陸から強い影響を受けてきたが、島国である為、貝のように固く口を閉ざす時期もあった。ここ数年、国王たる将軍の足利義持はそのような政策に転換していた。日明貿易を停止し明帝国との冊封関係の鎖を絶ったのだ。そして国内においては内乱の鎮圧と平定に心血を注いだが、大戦に至らずとも政争は絶えなかった。今は亡き師や同志が私に託したことは、たとえ草の根の働きかけではあってもこの世に平安をもたらすことである。だが残念なことに、私はただ在るがまま時に流されただけではなかっただろうか。私はあまりにも無力なのだ。


 この島国の仏教は不可思議な矛盾に満ちている。大陸同様に支配階級にとって都合の良いように、儒教を礎として仏教が解釈されている側面もあれば、多くの宗派が武装を厭わず、私が入信した禅宗は武装せずとも、室町幕府という軍事政権に保護されていたからだ。この武力の正当化が罷り通る現状を釈迦が知ったら、さぞ嘆くことだろう。しかし現実には何の力も持ち得ないとしても、宗教や芸術は人間の精神に大きな慰めを与え得る。この国の数多の権力者が望んで出家をし法号を得たがるのも来世を恐れている証だ。結局、私たち人間は進歩や発展といった社会の変化を含めた外界ではなく、富める者も貧しき者もまず心の内面の問題を解決せねば意味がない。


 私は僧侶の仕事の合間に、いつしか大陸の明から過去に送られてきた輸入品の中の水墨画を鑑賞するようになっていた。そして寺に入って間もない小坊主たちを相手に、墨を使用した絵の手習いの指導も担当させられた。そのような明朗な日々において、何処か遠い目をした一人の個性的な少年に出会った。彼は絵を描くことが何よりも大好きだった。この為、経を読むことに殆ど興味を示さない彼は仏堂の柱に縛り付けられたこともあったほどだ。彼は間違いなく水墨画に描かれた山水の深奥に幼いながらも魅せられていた。あの縦に長い二次元の平面世界には遠景しか存在しない。上方の空遠と下方の平遠の間に深遠が存在する。そしてこの深遠こそ絵師の心象がもっとも注ぎ込まれた空間である。それゆえ、絵師は絵を描く際、現在の風景を単純に再現するわけではない。むしろ絵師の想いを込めることで、描く対象を最大限に生かしているのだ。描かれている世界は搾取や戦乱の無い静かで穏やかな寂しい理想郷である。


「お坊様、こっちに来てください」

 寺の境内に佇む私を呼ぶ幼子の声がした。赤い頬をした小さな女の子だった。後をついていくと、あの小坊主が太い木の幹に縛られているのを目にした。悪童の悪戯の仕業だ。この寺には近隣の村の民の子供たちも、僧たちの目を盗んでは入ってくることがある。

「この子は絵が上手なんでしょう」

 縄を解いている私に少女が訊ねてきた。どうやら少年とは顔見知りのようだ。彼の絵の上手さはこの近辺では既に天才が現れたような噂になっていた。

「そうだ。この子はそのうち京の都の相国寺で絵を修行してもっと上手くなるとも。それもただ上手いだけじゃない。人の心を動かす何かが絵にあるからな」

 少女は興味深く私の話を聞いていたが、縄を解かれた少年は、少女にはにかんだ笑顔を向けると左手を振り喜び勇んで段を駆け上がった。そして寺の中にすんなり戻ってしまった。きっと少年は経を読まずにすぐ絵を描きはじめるだろう。

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寂光 大葉奈 京庫 @ohhana

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