第三話
始めてシドの家に行った日から一ヶ月、ジミーは毎日シドの家に通っている。行くたびにアンが出迎えてくれて、紅茶とケーキを出してくれた。
ジミーはシドの部屋に違和感を覚えながらも、最近では慣れもあってあの不思議な生き物たちもあまり気にならなくなってきた。ギターの練習のため、と割り切って考えるようになったせいもあるだろう。ジミーは放課後の時間のほとんどすべてをシドの部屋で過ごし、ギターの練習に当てた。そのおかげで、ジミーのギターの腕はこの一ヶ月で随分上達した。
「うまいじゃないか」
一曲弾き終えると、シドが感心したようにジミーに言った。
「でもまだまださ、君のようには弾けないよ」
シドのようなギターを、ジミーはまだ弾けない。ギターを交換してみても、シドの音はシドの音で、ジミーの音はジミーのそれだった。
「俺は特別さ」
シドはこの話になると少し悲しそうな顔をする。その理由をジミーは知らないが、彼のその表情は、もしかしたらシドのように弾けるようになるのが一番いいことではないような証明にも思えた。
「そうだ、君に見せてやるよ」
沈黙を破るように、シドが明るい声でそう言った。最近のシドはとても明るい。学校ではいつも無口で変わりはなかったが、この部屋にいるときはよく笑い、よくしゃべった。
「何を?」
「生き返り」
ジミーは心臓が大きく飛び上がるのを感じた。
見たい気もするが、見たくないのかもしれない。見たら、もう今までのようにこの部屋の光景に感動できないかもしれない。それどころか、この部屋にいられなくなるのかも——一度死んだらもう戻ることができない。それがこの世界の原則だ。一番確かで、一番守られなければならないこと……十七年間の人生の中でジミーが信じてきたことが一瞬で覆されるのかもしれない。世界の常識が丸ごとひっくり返されてしまう。
ジミーは八歳のとき、母親を亡くした。あの時、時はもう二度と戻らないと理解したはずなのに。それからずっと、父や兄に対しても、いつかは来る別れの時を考えずにはいられない。死は、ジミーのこれまでの人生にずっと付きまとって離れない、重い呪縛であり信念だった。でも同時に、そういう過去があるからこそ、シドが死骸を生き返らせるところを見てみたいと思った。母を生き返らせようなどとはもちろん思っていなかったが、生きるという時間を巻き戻せることをこの目で確かめることができたら、母の死の呪縛を乗り越えられるかもしれない。
「見たくなかったらいいんだけど」
考え込むジミーの顔を心配そうにのぞき込みながら、シドが言う。
「いや、いい、大丈夫」
大きく深呼吸する。
「君の生き返り、見せてくれよ」
* * *
クラゲがたくさん打ち上げられているから、とシドはジミーを浜辺に連れ出した。
「浜辺でクラゲなんて生き返らせて誰かに見つからないのかい?」
「いいさ、ほとんど誰もいないし、どうせ見たってわからないだろう。部屋で生き返らせてまたくらげが増えても困るし」
シドと並んで石畳の道を歩く。空は雲に覆われていたが、海岸線の雲間からは夕日が差し込んでいた。
思えば、シドとこうして外を歩きながら話をするのは初めてだった。学校でのシドは一貫してだんまりを決め込んでいて、ジミーとすらあまり会話したがらない。シドが話し出すのは放課後、ジミーが彼の家に行ってからだった。
冬の冷たい風を肩で切って、二人は海に向かった。わずかな日差しは風に温度を奪われてしまう。海まではそれほど遠くない。お互い制服のままだった。シドは温かそうな赤いマフラーを巻いていたが、ジミーは制服の上に学校指定のコートを羽織っていただけだった。首元の隙間から風が入り込んで冷たい。海に近付くにつれ、その風はカラッと乾いた冬の風から重々しい潮風に変わった。
「髪が顔に張り付く」
ぼそりとシドが言う。少し長めの前髪が顔にまとわりついていた。
「潮風はそういうもんさ」
ジミーはなんでもない風に適当に相槌を打ったが、内心は気が気ではなかった。何も、ジミー自身が実験台にされるわけではない。クラゲが生き返って、また空中を漂い出すだけ。何度も自分に言い聞かせても、ジミーは不安を抑えることができなかった。
浜辺に着くと、案の定クラゲが打ち上げられていた。
一歩進むごとに砂に足が沈み、ジミーはめまいがするような感覚に陥った。実際にめまいがしているのかどうかもわからない。そんなことをお構いなしに、シドはどんどん進んでいく。
くらげを見つけると、屈みこんでじっと見る。
「何をみてるんだい?」
ジミーが尋ねるとシドは顔を上げて、
「死んだクラゲを探しているんだ」
と答えた。いつもと変わらない平然とした表情で言うものだから、ジミーは恐ろしく思って、黙って頷くしかなかった。
「お、いたいた」
しばらく歩いて、シドは死んだクラゲを見つけたらしい。
ジミーは自分の呼吸がどんどん早くなるのを感じた。心臓が早鐘を打って、頭の中には母親の葬儀の時の鐘の音が何度も何度も反芻した。鐘の音はどんどん大きくなって、しまいにはそれは音なんだか頭の中を叩く振動なんだかよくわからなくなった。
過呼吸を起こしかけながら、シドに近寄る。どうにかして今すぐ逃げ出しそうになる気持ちを抑えて、シドに動揺を悟られまいと必死に息を整える。
しゃがんで死んだくらげを左の手のひらに乗せたシドが、ジミーを見上げる。
「これ」
「どうして死んでるって分かった?」
「俺は分かるんだよ。死んでるものと生きてるもの。じっと見ればね」
ジミーの目を覗き込んだシドの深い灰色の瞳。その目をじっと見てみたけれど、シドが生きているか死んでいるか、ジミーには分からなかった。
そんなジミーの様子はどこと吹く風、
「ほら、よく見てろよ」
と、シドが左手の上のくらげに、右手を重ねた。まだ心の準備が……などと思ってる隙に、儀式は始まってしまう。
微動だにしないシドの手を見ながら、ジミーは息が止まっていくように感じた。鐘の音が消えていく。頭が真っ白だ……黒い喪服も教会も見えない。そんなもの、もうすでにジミーの頭の中から消えていた。
息を止めて、心臓を止めて、ジミーは自分の榛色の目だけに意識を集中させた。
ただただ息を殺して、ジミーはシドの手元に見入った。白くて細長い指がくらげの透明の傘を覆っている。シドはくらげにぴったりと指を置いて動かさなかった。今なら、今なら逃げ出せる、まだ間に合う──ジミーの心の中で、再びそんな声が聞こえてきた。全身が沸き立つような衝動に抗いながら、今ここで誰かが動いてしまえば全て台無しになるような緊張を肌にピリピリと感じた。
そして、くらげの触手が一本、ピクリと動いた。
「動いた!」
ジミーは思わずそう呟いた。シドはまた自信ありげな笑顔を浮かべた。そして、クラゲの上に被せていた手をゆっくりとどけた──
次の瞬間だった。
ふわり、とクラゲが舞い上がったのだ。
ジミーはハッと息を飲んで、しばらくその息を吐き出すことができなかった。目の前を、今生き返ったばかりのクラゲが舞う。シドが目を見開いたジミーに笑いかける。その顔を見て、やっとジミーは息を吐き出した。
「どうだい?」
シドはからかうようにジミーにそう聞く。
「……信じられない」
潮風に乗って、クラゲはふわふわと流れていく。ジミーとシドはそれを追いながら、ゆっくりと浜辺を歩き出す。
「これって……」
息を吸い込むと、冬の冷たい空気が肺をいっぱいにした。
「これって現実?」
「嘘なわけないだろ?」
触手が風に吹かれて、太陽光に反射して七色に光る。あの透けるような体が宙を漂う。
「すごい」
シドは何も言わずににんまり笑った。ジミーもつられて笑みをこぼす。
いつの間にか、ジミーの中にあった恐怖心は消えていた。
二人はいつまでもクラゲを追いかけて歩いた。そのうちひときわ強い潮風が吹いて、クラゲを遠い空の上に吹き飛ばしてしまうまで。
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