第二話
シドの部屋は予想通り四階の端だった。
「変わってないなぁ」
廊下を歩きながら、ジミーは思わずそう口走る。慌てて口を押えたけれど、シドには聞こえていた。
「え? 前にも来たことが?」
「空き家だったころに……五、六年前だよ、まだ十一歳か、十二歳かそれくらいのころさ」
言い訳するように、ジミーは早口でそう話す。シドはジミーの顔を見て目を眇める。
「前の持ち主のことは知ってるかい?」
「いや?」
「この家、妙なものが多いんだよな」
誰に問い掛けるでもなく、シドが呟く。
「没落貴族の末裔が住んでるとか、学校では言われてたけどな」
ジミーがそう言うと、シドは思案顔で下を見ながら歩いていたが、部屋のドアの前に着くと立ち止まった。古い大きなドアで、少年ジミーはこのドアを開けることに大変苦労した。このドアは、ジミーが記憶しているこの部屋のドアと全く変わっていない。もちろん昔よりずっと清潔なのだが。
「今鍵を開けるよ」
シドの肩越しに古くさい鍵を開ける手元を見ながら、ジミーは、そういえば、なんでシドは自分の部屋に鍵なんかかけているのだろう、と思った。アンに呼ばれて応接間に来るまで、シドはこの部屋にいたはずだ。何日も家を空けていたわけでもあるまいし、どうしてシドは自分の部屋に鍵なんてかけているんだろう——何か見られてはならないものがあるんだろうか。そのとき、ジミーの頭にジョンの話が蘇った。死骸を集めるシド……まさか、シドは集めた死骸をホルマリン漬けか何かにして、コレクションしているのではないだろうか。アンに見られては困るから、自分がいないときは、部屋に鍵をかけて……
カチャリ、と音がして、鍵が開いた。その音でジミーは現実に引き戻される。
「さあ入って」
シドはなぜか自信ありげな笑みを浮かべて一歩下がると、ジミーの背中を軽く押して部屋に入るよう促した。ジミーは頭の中に浮かんだ恐ろしい光景を必死に振り払いながら、恐る恐る一歩踏み出した。何か得体のしれないものへの恐怖感から、目を細めて部屋を見渡す——そして、次の瞬間広がった光景に、ジミーは目を見張った。
「これ……」
ジミーはシドを振り返る。信じられなかった……まるで、夢の世界だ。
「これ、本物かい?」
「もちろん。生きてるよ」
シドは嬉しそうに微笑んで答える。
最初に目に入ったのはクラゲだった。目の前をふわふわと漂う、無数のくらげ。それから、鮮やかなコバルトブルーの蝶の群れ。クラゲの間を飛び回る。大きなトンボがぶんぶんと羽音を立てて飛び回る。それを追いかけて、モズが飛び回る。赤いトルコ絨毯が敷かれた床にはカニやヤドカリが動き回り、中空には小魚やエビが素早く飛び交い、背の高い観葉植物にはカブトムシやクワガタが止まって、ベッドの上には白猫が一匹眠っている。部屋の中央に暖炉があってぱちぱちと火花が上がると、そばにいたしっぽの青いトカゲが慌ててソファの陰に隠れた。
古めかしい部屋だが、置いてあるものはジミーの部屋と何ら変わらない。物書き机、本棚、ベッド、ごみ箱、教科書——ただひとつ、部屋のいたるところを動き回る生物たちと、そのきらめきを除けば……
シドは呆然とするジミーを部屋に押し込んで、ドアを閉めた。シドの噂を思い出して、シドと同じ部屋に閉じ込められてしまった恐怖も束の間、ジミーは目の前を横切った白い小型のサメに目を奪われた。
「シド、どうやったんだよこれ、水もないのに!」
振り返ってシドに詰め寄ると、シドは嬉しそうに笑った。
「俺が死骸集めてるって噂あるだろ。それだよ」
「死骸を生き返らせたっていうのかよ」
ジミーが冗談半分で半笑いでそう言うと、シドは真面目な顔で大きく頷く。いつも学校で見るような真面目で冷淡な顔に、ジミーはシドの言うことが本当だと確信した。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋で、暖炉の灯りだけが下からシドの顔を照らし出している。シドの顔はやはり青白く、暖炉の光に透けるようだった。
「いつからかな、俺が触った死骸が生き返るようになったんだよ」
シドはサメに近付いて、そっとその頭に手を置く。
「でも、そんなことって……」
「あり得ないと思うだろう? でも、あるんだよ」
シドが触ったものが、生き返るだって? そんなことってあっていいのだろうか。でも、この水がなくても生きているくらげやサメはそういう超常的な現象でなければ説明できない。
白いサメがもう一度シドの手の下をすり抜けて、天井近くに躍り出た。
「ここの生き物は不死身さ。水がなくても生きて行けるし、火に入ってもどんなに高いところから落ちても死なない。何も食べなくていいしな」
ここにいるのは、不老不死の生き物たち……一見、普通の生き物と変わらないように見える。でも、よく見ると、ジミーはその生き物たちに違和感を覚えた。生物たちは皆、なぜか若干暖炉の光に透けているように思うのだ。ちょうど、シドの肌が光に透けて見えるように。じゃあ、シドも……?
自分の考えにゾッとしたジミーはそれ以上考えるのをやめた。
しかし、そうして見てみると、ベッドで眠っている猫だけが唯一まともな生き物に見えてきた。だが実際どうなのだろう。ジミーは白猫をじっと見つめた。気持ちよさそうに眠っている。
「ああ、あの猫は、普通の猫だぜ」
ジミーの視線に気づいたのか、シドがそう言う。
「でも、死んだら不死身の猫に変えるんだろう?」
「まあね」
そう言いながら、シドはベッドの下を覗き込んで、ギターを一本引っ張り出した。
「ほら」
シドはジミーにギターを差し出す。骨ばった白い手がとてもきれいだ——そんなことを考えながら、ジミーは頭の中に霧が広がっていくように、思考が不明瞭になっていくのを感じた。
「おーい?」
ふっと白いものが目の前を行ったり来たりするのが目に入り、霧がすっと晴れたように景色が急にはっきりした。
「え? あ、ああ……」
「ほら、ギター。急に変なところに連れてこられて、具合でも悪くなった?」
そうだった。ジミーはシドにギターを教えてもらいに来たのだ。でも、今までに起こったことが衝撃的過ぎて、頭が追い付いていない。シドは本気で心配そうな顔をして、ジミーを見ている。
「大丈夫、全然大丈夫だよ」
そう答えて、なんとか整理をつけようとした矢先、目の前に大きなクモが糸を伝って降りてきてジミーは思わずうわぁ、と声を上げる。
「こ、これも?」
上半身を後ろにそらせながらジミーがそう聞くと、シドは愉快そうに笑ないがら頷いた。普通に見るクモとは全く様子が違う——毛むくじゃらで、茶色っぽくて……ジミーは昔見た図鑑のクモを思い出した。確か、そいつの名前はタランチュラ……。シドが差し出すギターを受け取りながら、ジミーはそのクモから目が離せなかった。
「ちょっと古いけど」
「あ、ありがとう」
シドはベッドのわきに立てかけてあった自分にギターを手に取る。ジミーはまだ落ち着かない気持ちだったが、シドはそんなことを気にも留めず、ギターを始めるようだった。
「今まで弾いたことは?」
なんでもなさそうに、シドがそう尋ねる。
「ウクレレなら」
そう言いながら、ジミーは肩をすくめて見せた。いつまでも戸惑っていても仕方がない——そう思って、ひとまずジミーは不安に蓋をした。
シドは笑って、弾いたことあるって言えるのかよ、と呟いた。そんなシドを見て、ジミーは少し安心したが、シドや、シドの部屋にはやはり不気味さを感じざるを得なかった。自分が触れたものが生き返るなんて、気持ち悪くないのだろうか。しかも、わざわざそうして生き返らせたものを自分の部屋に集めていくなんて。
再来した不安に気付き、ジミーはそれを頭から振り払う。
それからシドはギターのいろはを丁寧に教えてくれたが、ジミーの耳にはあまりその内容が入ってこなかった。ちらちらと目の前を横切る青い蝶や、オレンジ色のウミウシ。それに、あのタランチュラ。シドはどうやってそんなものを手に入れているのだろう。クラゲなら、この部屋から見える海の浜辺によく打ち上げられているから、そこから死骸を集めているのは分かる。でも、この国にはいないような生き物は……よく見たら、暗い部屋の隅にとぐろを巻いてこちらを見つめていた蛇。あれはコブラだ。
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